新潟県十日町市の廃校休校巡り②(2018/08/11~12) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前回に引き続き十日町市旧松代町の続編です。
前回記事は⇒ こちらへ

十日町市の廃校休校巡りで感じたことは、

・残存している廃校舎、とりわけ木造校舎が多いこと。
3年に1度開催される「大地の芸術祭」の会場になっていたり、
地域の方に利用されたりして廃校を活用されている事例が
他の自治体より多い気がします。
・国道や県道でもない農道が山間部のあちこちに
張り巡らされており、下調べしないと道に迷ってしまうこと。
・雪国の方だからかもしれませんが、とても親切で人情があること。
廃校巡りで道を尋ねたら、わざわざ目的地まで案内してくださったり、
往時の様子を感慨深く話して頂きました。
 
国道353号の蒲生交差点を過ぎ、早稲田大学松代校地入口の案内を
みて脇道に折れます。
 
ほどなく視界が開け広大な敷地に出ました。
かつて、この辺りの集落は山平(やまだいら)村でしたが、
1954年(昭和29年)に松代町への合併に伴い消滅しました。
名残を留めた山平中学校も1979年に閉校、その跡地は
松代町から早稲田大学に譲渡されました。
コンクリート造りの建物は、閉校後に新築されたもので、
早稲田大学松代セミナーハウスとなっています。
その他テニスコートや総合グランドが完備されています。
残念ながら、山平中学校跡を示す石碑等は確認できませんでした。
 
セミナーハウスに行く途中にも空地がありました。
こちらは、蒲生(かもう)小学校の跡地です。
 
芝生の奥、雑木林に隠れるように石碑が建っています。
 
創立百周年記念碑
石柱の上には、二人三脚で肩を組み走っている男女児童の姿が
ありました。
百周年は、お互いに力を合わせて積み重ねてきた歴史であり、
これからも一緒に頑張っていこうということなのでしょう。。
 
小学校跡の石碑
 
判読し難いですが、校歌が記されています。
 
蒲生(かもう)小学校(1993年閉校)
1873年(明治6年)創立
1993年(平成5年)閉校
120年の歴史に幕を下ろしました。
最後の全校児童は7名でした。
旧蒲生小学校の校舎、体育館および周辺の土地は
松代町から早稲田大学に対し譲渡されました。
他のサイトで確認したところ、木造体育館だけが残っていたのですが、
老朽化により近年解体されたようです。
 
国道353号を北上し寺田地区に入ります。
 
「寺田の白藤」の案内柱が次の廃校への道標です。
 
スロープを上がり木々の茂みに入って行きます。
 
往時の門柱が残っていますが、表札は外されていました。
 
敷地からスロープを振り返ると、門柱は左右2本立っています。
両側の桜の木とともに、何度となく児童達を出迎え、見送ったことでしょう。。
 
かつての校庭は、コンクリートの基礎が残っていましたが
育苗用のプール跡でしょうか。。
 
すべての窓ガラスは無くなり、、板張りの外壁は崩壊し
構内まで吹きさらしになっていました。
余所者の侵入を拒むような廃墟ならではの雰囲気が漂っています。
 
閉校後は、しいたけを生産・販売するための作業場となっていたようです。
 
天井は破れ、床には廃材が散乱していました。
奥には大型冷蔵庫のようなものが見えますが、
しいたけを保存していたのでしょうか。。
打ち捨てられた事務用の椅子が数脚、
児童が使用していた机も放置されています。
 
蒲生(かもう)小学校寺田分校(1993年閉校)
朽ちた校舎の裏側や側面は山林が迫り鬱蒼としており
昼間でも暗く足元に注意が必要です。
外観も内部も不気味で妖気さえ感じるほどの凄みがあります。
和歌山県白浜町(旧日置川町)の大瀬小学校を訪れた際の
廃墟の感覚に通じるものがありました。。
寺田分校は、本校と同時期に閉校となりました。
最後の在校児童は9名でした。
 
松代町中心部から県道426号を北上します。
山奥へ入って行きますが、分岐路では道標に従い進みます。
 
長閑な田園風景です。
こんもりと茂る森林の中、狭い耕地のあちこちに至るまで
稲作が営まれています。
 
ひたすら一本道を突き進みます。
 
沿道の立て看板
訪問者への歓迎の言葉と木造校舎の写真もあります。
「明後日あさがお」とは、アーティスト、日比野克彦が始めた
「明後日朝顔プロジェクト」により育成している朝顔のことで、
品種名ではありません。
朝顔の種に想いをのせて地域や人を結ぶプロジェクトだそうです。。
 
莇平(あざみひら)は、都会とは隔絶した長閑な山間集落ですが、
散策・探訪に適した豊かな自然があります。
 
演劇祭の看板も見えます。
訪れた日の3日後の8月15日開催ということで
関係者の方々が校舎の周りで準備されていました。
 
自然の生物を独特のタッチで描いた幟があちこちに立っています。
演劇祭の幟でしょう。。
 
校地は、「大地の芸術祭」の会場になっています。
 
赤煉瓦の校門
 
往時の表札も残っています。
 
2階建ての木造校舎は、小高い丘に建っています。
1階はガレージとなっているようです。
 
側壁には、明後日の英文字が見えます。
「DAY AFTER TOMORROW」には、
「あしたのその次を思い描く」という思いが込められています。
 
全面に張ったネットにツルを絡ませながら伸びていく朝顔の
生命力には圧倒されます。
 
関係者の方に了解を頂き構内を見学しました。
 
2003年に始まった明後日あさがおの種は、
全国29か所で育てられ、地域と人との交流を生み出してきたそうです。
 
ロシアワールドカップで日本が対戦した4試合のスコアボード
 
木造校舎のミニチュア
 
教室の天井に届きそうなデカいオブジェ
 
学校は、2014年制作の映画「夢は牛のお医者さん」の
舞台にもなっており、校庭にはモニュメントが建っています。
 
一人の少女が子牛との出会いから獣医になりたいという夢を
叶えるというドキュメンタリー映画です。
 
これも芸術祭の作品なのでしょう。
遊具ではありません。。
 
莇平(あざみひら)小学校(1994年閉校)
2003年から日比野克彦が始めた「明後日朝顔プロジェクト」の拠点として
使用されています。
校内には、「明後日新聞社文化事業部」が入居し
大地の芸術祭や地域情報を伝える新聞を発行しています。
1991年度の全校児童は7名でした。
 
莇平集落から南下し農道を経由、県道219号を芝峠温泉方面へ進みます。
次の集落に差し掛かると歓迎の看板が見えてきました。
 
脇道を下りて行くとアスファルトの敷地の奥に旧校舎が建っています。
 
灰色のトタン張りの壁や雪囲いの羽目板が残る玄関塔
 
関係者の方に了解を頂き構内を見学しました。
廊下の壁には、本棚や流し台が横付けされています。
 
少数精鋭で勝ち取った栄光の数々
児童らが参加した競技大会のトロフィーと思いましたが、
ペナントを見ると、ゲートボール選手権大会のものでした。
栄光の数々には違いありませんが。。。
 
学校行事の思い出の数々が掲示してありました。
 
第32回卒業生の方が描いた「11人の仲間と歌う」
 
同じく「楽しい休み時間」
 
同じく「運動する日」
1906年創立ですから、32回目は1938年卒業ということでしょうか。。
 
階段の踊り場も綺麗に手入れされており
床に光沢がありました。
 
1957年(昭和32年)に落成したという新校舎ですが、
玄関塔の屋根や窓の形状が現在と異なっていますね。
幾度か改修を加えてきたようです。
 
校庭の隅に残るブランコ
3台のブランコの直下は雑草も無く土が露出しており、使用感があります。
近くの子供が遊びに来ているのでしょう。。
 
鉄棒も残っています。
 
蓬平(よもぎひら)小学校(1994年閉校)
松代小学校の分校でしたが、1979年に独立校になりました。
現在は地域の特産生産センターとして活用されています。
1991年度の全校児童は18名でした。
 
旧松代町中心部から国道253号を東へ進み、途中から国道403号に
折れて孟地(もうち)地区に入ります。
集落の高台の開けた平原に閉校舎が残っています。
入口で出迎える石造りの門標が目を引きます。
 
裏面に刻まれた校歌
各節の終わりは「伊沢 伊沢 我等が母校」と結ばれていますが、
孟地では?との疑問が湧いてきます。
沿革を調べたところ、以下の通りです。
1875年(明治8年)松代校の分校(苧島校)として創立。
1943年(昭和18年)、苧島(おのしま)と犬伏(いぬぶせ)にあった学校を
統合し孟地に伊沢(いさわ)小学校を移築。
1964年(昭和39年)所在名をとって松代町立孟地小学校となる。
よって、孟地小学校の前は伊沢小学校と称していたようです。
グリーン屋根に背の高い平板な校舎です。
3階以上は体育館となっていますが、
いかにも重心が高そうで、強風で吹き飛ばされそうな外観です。
 
1階の窓は雪囲いの羽目板で塞いであります。
 
裏に校庭がありました。
裏側からみても表側と表情の変わらない校舎ですね。。
 
校庭の苗代は、ブルーシート養生されていました。
 
孟地(もうち)小学校(2004年閉校)
現校舎は1981年(昭和56年)竣工ですが、外壁は改装されて
いるように見えます。
松代小学校への統合に伴い、139年の歴史にピリオドを打ちました。
1991年度の全校児童は38名、閉校時の児童は19名と半減、
山の学校も過疎少子化の流れに呑まれていったようです。
 
山の学校からさらに奥へと進みます。
信濃川水系の渋海川は、先日の雨で泥水となっています。
 
国道403号と分かれ滝沢方面に右折します。
 
人家の疎らな滝沢集落に入ります。
沿道から見た青い屋根、2階建ての建物は
木造倉庫と思い通過してしまいました。
 
お盆休みで里帰りしておられた近隣の奥様に確認したところ、
この建物が往時の滝沢分校だったと言われ、引き返しました。。
 
校門も遊具も学校跡記念碑も見当たりませんが、
他のサイトでも掲載されており、間違いないようです。
孟地小学校滝沢分校(1989年閉校)
さきほどの奥様のお話では、ご自身を含め最後の児童が二人だったとのこと、
一人が卒業したため、本校の孟地小学校まで独りで通学しなければ
ならなくなったことを感慨深く語っておられました。
当日は人の気配もありませんでしたが、
現在は、集落の共同作業場として使用されています。
 
滝沢集落の風景
中段右、青い屋根の建物が分校です。
滝沢集落の棚田
山を切り開いて稲作が営まれています。