大分県大分市、豊後大野市、竹田市の廃校休校巡り(2018/04/29) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

大分市は、大分県の県庁所在地で,あり、県中部に位置する市です。

県内の人口の約40%が集中する中心都市でもあります。

 

高度経済成長期に、鉄鋼業、化学工業などの重化学工業の進出に

伴い工業都市として急成長し、近年では電子工業の立地が進んでいます。

2005年(平成17年)1月1日に北海部郡佐賀関町・大分郡野津原町を編入し

市域を拡大しました。

 

豊後大野市(ぶんごおおのし)は、大分県の南部に位置する、

人口約3万6000人の市です。

市域南側は宮崎県と県境を成しており、九州山地を形成する

祖母山(そぼさん)や傾山(かたむきやま)があります。

2005年3月31日大野郡5町2村(三重町、清川村、緒方町、朝地町、

大野町、千歳村、犬飼町)が合併し、豊後大野市が誕生しました。

 

竹田市(たけたし)は、大分県南西部に位置する市です。

市名の読みは「たけだ」ではなく「たけた」です。

東に隣接する豊後大野市と共に豊肥地区(奥豊後)と呼ばれています。

2005年(平成17年)4月1日 竹田市・荻町・久住町・直入町が合併して

新設の竹田市が発足しました。

 

大分自動車、大分光吉IC下車後、国道442号を南下します。

旧野津原町(のつはるまち)竹矢地区の沿道に校舎への案内が見えました。

 

坂道を上がると正門に銘板がしっかりと校名を表しています。

 

今年(2018年3月)に閉校となった小学校です。

校舎は、1982年(昭和57年)に改築されたものですが、

それほど古くは感じられませんでした。

 

遠方から見たベランダの横断幕は、閉校を表したものかと思われましたが、

近付いてみると「あいさつOITA+1運動」の標語でした。。

大分市が取り組んでる運動の一つで、

あいさつに一言をプラスして会話へと広げ、人と人との絆を深め、

住みよい街を築いていく運動です。

ちなみに、OITAとは、

O おはよう!
I いただきます!
T ただいま!
A ありがとう! 

 

校庭の隅に立つ百葉箱と横倒しになったサッカーゴール

 

数か月前まで児童が遊んでいたブランコ

 

シーソーと真新しい石碑

 

石碑は、小学校の閉校記念碑です。

台座には、地元の豊かな自然を詠った校歌です。

 

石碑の裏面には、学校への感謝の言葉が刻まれています。

 

花壇のパンジーは春の日差しを浴びて嬉しそうです。。

 

花壇の奥の小さな社は、「伝統芸能保存館」の表札が掛っていました。

中に何が納められているのでしょうか。。

 

野津原(のつはる)中部小学校(2018年3月閉校)

野津原町は大分郡に属し、県中央部にあった町ですが、
2005年1月1日、北海部郡佐賀関町とともに大分市へ編入し、

自治体としての野津原町は消滅しました。

過疎少子化により1991年度に121名いた全校児童は、

閉校時には41名となっていました。

 

さらに国道442号を南下し、上詰(かみつめ)地区に入ります。

さきほどの中部小学校と同時期に閉校となった小学校です。

 

平屋校舎と体育館が渡り廊下で繋がっています。

 

体育館は2002年(平成14年)に落成した丈夫な建物です。

 

2000年(平成12年)に竣工した校舎は、各部屋に貼り紙の表示があり

整然としています。

表示からすると管理棟のようです。

 

入口に並ぶ石碑群

 

1998年(平成10年)で創立120周年ということは、1878年(明治11年)開校の

歴史がある学校だったのですね。。

 

小学校跡記念碑

ちょうど創立140年目で閉校となってしまいました。

 

校舎前の花壇は、雑草混じりで手入れもされてない様子です。

 

山に囲まれた校庭で複合遊具が斬新に感じられました。

 

野津原西部小学校(2018年3月閉校)

全校児童は、1991年度に35名、閉校時は11名でした。

旧野津原町では、東部・中部・西部の3小学校がありましたが、

児童数減少により野津原小学校に統合されました。

野津原小学校は旧野津原東部小学校の校地に

2018年(平成30年)4月1日に開校しました。

 

さらに南下し、県道412号に入ります。

今市地区に閉校となった校舎があります。

小学校のほかに、役場の支所、健康増進センターも併設されているようです。

 

アスファルトの敷地に平屋校舎が並んでいます。

 

老朽化した外観からは、支所として活用されている様子は感じられません。

 

正面玄関

 

こちらは体育館、使用感があります。

表に回ってみると。。

 

今市健康増進センターとして活用されていました。

また、玄関の表札には、大分市今市連絡所とあります。

さきほどの案内があった今市支所は無くなって連絡所として

この建物に集約されたようです。

 

一段下に広がる校庭

地表は隠れていますが、草色の校庭は走り回るには心地よさそうですね。。

 

今市小学校(2009年休校、2014年閉校)

1921年(大正10年)に今市尋常高等小学校として開校、

百周年を迎えることなく閉校となりました。

体育館は今市健康増進センターとして第二の人生を送っています。

1991年度の全校児童は58名でした。

 

国道442号に戻り南下して行くと豊後大野市に入ります。

バス路線ですが、県道から昇格した国道であることから

狭隘で不安な道程です。

朝地町梨小(なしこ)から温見(ぬくみ)郵便局方面に脇道を進みます。

周りに人家もない山中に佇む校舎を発見しました。

 

樹木の陰から校舎に近付いて行きます。

>バラスを引いた道を歩いて行くと。。

 

 

ガッチリした正門と2階建て鉄筋校舎が建っています。

 

木の葉に隠れていますが、表札は確認出来ました。

 

劣化が進んでいますが、何とか耐えてここまで来た感じがするのが、

廃校巡りを趣味とする小生にとっては惹かれる点です。

 

一段下にプールと校庭がありました。

 

校舎新築記念碑

この石碑は、現在の鉄筋校舎が1977年(昭和52年)に落成した

記念に建立されたものです

裏面に記された沿革史は1873年(明治6年)から始まっています。

朝地町立温見小学校と称したのは、1955年(昭和30年)になってからのことです。

 

小学校跡の石碑

 

裏面に刻んだ校歌

校歌の冒頭に出てくる神角寺(じんかくじ)とは、朝地町鳥田にある

高野山真言宗の寺院で、本堂や仁王像は国の重要文化財に指定されています。

 

温見(ぬくみ)小学校(2003年閉校)

2階のベランダの赤い壁が印象的な校舎です。

建物は全体的に傷んで哀愁が漂っています。

一方、校庭は整備がなされており、

盆踊り大会など地域の行事で使用されているようです。

1991年度の全校児童は36名でした。

 

朝地町中心部より高台に上がった場所に現役の木造校舎が

建っています。

 

大きなログハウスが数棟連なっているような外観です。

 

木板の表札も手造りのようですが、バランスを欠いた不安定な文字です。

 

鳥居のような支柱が連なる渡り廊下

左側が中学校、右側が小学校のようです。

 

中庭にまわってみると、円盤型の洒落たデザインの建物が目を引きます。

 

ズームアップしたところ、図書館でした。

手前のブロンズ像が気になりますが、腰に手を遣り何かを

考えている様子です。

 

小学校の教室は、学年ごとに6棟あるそうですが、

コテージでキャンプしてるようですね。。

 

高台の頑丈な建物は体育館です。

 

朝地小学校(現役)

学校の沿革を調べたところ、

2003年4月大恩寺・綿田・温見の各小学校が統合し、旧大恩寺校舎を利用し開校。

2004年4月新校舎に移転。とあります。

町内にある町有林の木材を利用して造られた温もりのある校舎です。
また、机・いすは、すべて県産材の桧材を使用しているとのことです。

連携型小・中一貫校の特色を生かして、合同体育大会、中学生による本の読み聞かせ等が

行われています。

2017年度児童生徒数は、小学校136名、中学校66名 でした。

 

引き続き南下し竹田市に入ります。

三宅地区の沿道の高台に閉校となった校舎が残っています。

 

スロープをゆっくりと下りて行きます。

クリーム色を基調とした校舎と体育館です。

 

玄関の近景

3階の窓には、学び舎への感謝の文字が見えます。

 

閉校後は、校舎の2階は公民館の分館および図書館となっているようです。

 

水位の下がった澱んだ池にポツンと立つ小便小僧は寂しそうです。。

 

1993年に開校百周年を迎えた記念碑

 

新・旧校歌が併記されていました。

 

「岡本っ子」の碑

「岡本っ子」は、分かり易いですが、ちょっとベタな感じがしますね。。

最後の先生は8名、児童は14名だったようです。

 

1893年(明治26年)開校。

1978年(昭和53年)に現在地に移転し、

2013年(平成25年)3月で閉校となりました。

 

岡本っ子の壁画は、2009年の卒業記念作品

歴代の卒業生の中には、校名と同じ岡本さんがいたかもしれませんね。。

 

久しく遊ばれなくなったジャングルジム

 

古タイヤを埋め込んだ遊具

 

岡本小学校(2013年閉校)

山あいの水と緑が溢れる自然豊かな環境にある学校ですが、

竹田小学校への統合に伴い閉校となりました。

1991年度の全校児童は73名でしたが、閉校時は14名まで減少して

おりました。

 

竹田市中心部から県道47号に入り、明治小学校へ向かう途中に

再生利用されている校舎を目にしました。

 

竹田中学校の校舎でしたが、現在は「竹田総合学院」となっています。

閉校になったのかと気になり調べたところ、竹田中学校は2009年に

隣の会々地区に移転、竹田商業高校だった校舎を使用し存続しています。

 

移転しただけで閉校ではないので、当然ながら閉校記念碑は

ありませんが、校門には年季の入った銘板が埋め込んでありました。

旧竹田中学校に関する記述でしょうか。

沿革複雑、校地錯雑という文字もあり意味不明ですが

校門を建設するために往時の生徒たちが廃品回収など

4年間で貯めた資金により1967年(昭和42年)に竣工したとのことです。。

 

県道47号から脇道に入った平田地区を進みます。

周囲は田園が広がる長閑な場所です。

遠方に校舎らしき建物が見えます。

 

この辺りは、ウォーキングコースになっているようです。

 

コミュニティバスの停留所もあります。

 

校門へ続く石段を登って行きます。

 

閉校舎は、「しらゆり」という名の就労支援施設となっています。

 

デカい門柱は、小学校跡記念碑です。

 

2007年(平成19年)に開校100周年を迎えたことを示す記念碑

 

かなり劣化していますが、昭和30年代の卒業記念作品でしょう。。

二人の児童が同じ方向を見つめています。

台座には友情の二文字が刻まれていました。

 

山村集落を見下ろす高台に建つ看板塔

 

明治小学校(2009年閉校)

沿革をみると、1873年(明治6年)植木地区にあった民家を校舎として

寺子屋教育が始まり、植木尋常高等小学校となりますが、

1年遅れて発足した平田地区の平田尋常高等小学校と

1908年(明治41年)に統合し明治尋常高等小学校となり、

1947年(昭和22年)新学制により、現在の明治小学校となっています。

2009年(平成21年)に新・竹田小学校への統合に伴い

閉校となりました。

1991年度の全校児童は66名でした。

現在は福祉施設として活用されており、訪れた日は

校庭でゲートボールを楽しむご老人たちの姿がありました。。

 

竹田市中心部より国道502号を東へ進み、再び豊後大野市に入ります。

豊後大野市役所を過ぎ、県道35号を松尾川に沿って南下します。

沿道から対岸を眺めると、赤い屋根の校舎が見えました。

松尾川沿いに重機が入っていますが、護岸工事をされているようです。

 

新緑の山に赤い屋根が映えますね。。

背の高さが違う建物が繋がっていますが、

低い方が校舎で高い方が講堂です。

 

対岸に着いてみると、校舎は横に長く

校庭も思った以上に広く感じられました。

 

往時の面影を残す玄関ポーチ

表札は、「あかい屋根の郷」とあります。

 

入口の花壇に立つトーテムポール

 

運動会の思い出を描いたタイル貼りの絵

休校となった1999年3月31日の制作です。

 

最後の児童は12名だったようです。

 

校舎裏の庭は樹木が茂り涼しい風が吹いていました。

遊具も残っています。

 

裏側から見た講堂

 

裏側から見た校舎

 

管理人の案内で内部を見学させて頂きました。

廊下の掲示板には、体験学習で訪れた子供たちの写真などが

貼ってあります。

 

奥に長い教室ですが、手前が板敷、奥が畳となっています。

地域のご老人が利用されているのでしょう。

健康器具が並んでいていました。

 

全面板張りの部屋は、五右衛門風呂と脱衣場となっています。

最近改築されたようです。

 

図書室

こちらも畳敷きとなっています。

横になって本を読むのは楽ですが、眠ってしまいそうです。。

 

手作りの表札は、洒落たデザインのトールペイントです。

 

舞台には、太鼓が置いてありましたが、地域の行事で利用されるのでしょう。。

 

1983年(昭和58年)3月の卒業記念作品

校舎が多面的に描かれていますね。。

卒業生は4名だったようです。

 

象のオブジェ (製作年は不明)

 

オオカミのオブジェ(1987年3月制作)

 

校舎から校庭を見る。

校地は四方を山に囲まれていることが分かります。

 

朽ちた巨木が校庭に展示されています。

 

9万年前ともいわれる阿蘇山の大噴火で埋没した樹木です。

松尾川の川底から発見されたそうです。

 

三重南小学校(1999年休校、2007年廃校)

旧三重町松尾地区に残っているノスタルジックな木造校舎です。

過疎化の進む地域を活性化しようと、地域の拠点である小学校跡を

中心に遊歩道などが整備されました。

各種スポーツの合宿やキャンプで子供達が触れ合い、

豊かな自然の中で川遊びや農業体験、炭焼き体験を

楽しむことができます。