国道477号(京都府内)周辺の廃校休校巡り(2018/05/27):前編 | haiko-riderのブログ

haiko-riderのブログ

2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

国道477号は、大阪府池田市~三重県四日市市を結ぶ一般国道です。

大阪府、兵庫県、京都府、滋賀県、三重県の5府県に跨っており、

延長は約215kmに及びます。

今回は、京都府内における沿道の風景を織り交ぜながらの

廃校休校巡りです。

(過去に訪れた校舎や一部現役校舎も含みますが、ご了解ください。)

具体的には、南丹市国道9号八木交差点~京都市左京区大原小出石町の

国道367号合流地点までの区間となります。

(上図青線で仕切った区間)

※長編となるため前編(南丹市~右京区)と後編(左京区)の2部に分けて記載します。

 

京都府内の区間は、離合困難な隘路や路面状態の悪い急坂、

ヘアピンカーブなどがあり、「酷道」のひとつとしても知られています。

 

国道9号を亀岡市内から南丹市へと進みます。
八木町に入ると477号へ分岐する標識が見えました。
直近の交差点を右折するのですが、右折レーンが無いため、
次の交差点なのかと思い込み通過してしまうところですので、
注意が必要です。
 
交差点の入口は狭く、商店街となっていますので
国道で合っているのか不安になります。。
 
商店街を抜けると水色のトラス橋を渡ります。
 
ゆったりと水を湛える桂川の風景に心が癒されます。
 

しばらく走ると道幅は狭くなり、気が付くと杉木立の中を走っていました。

 

沿道のマーガレットに心が和みます。

近くに集落の気配がしてきました。

 

国道477号は、南丹市八木町から亀岡市、京都市右京区を経て、

再び南丹市八木町という変則的なルートとなっています。

八木町神吉(かみよし)地区の沿道に閉校となった校舎があります。

校門には往時の表札が残っていました。

 

向かって左側から校舎、体育館が並んでいます。

全体的に薄茶色を基調とした落ち着いた外観です。

 

体育館の前にはプール、その奥の建物は講堂でしょうか。

 

前庭の奥に見える白い建物は旧幼稚園です。

 

正面玄関の近景

植栽も手入れされていて盆栽のようです。

 

閉じた学び舎で輝き続ける金ピカの校章

 

壁時計には、タイルを散りばめた校章が施されています。

1991年度(平成3年)の卒業記念作品です。

 

こちらは、2000年度(平成12年)の卒業記念作品です。

 

体育館の壁には、駅伝大会の姿が躍動的に描かれています。

1996年度(平成8年)の卒業記念作品です。

 

マーガレット畑となった校庭と埋もれそうな遊具

 

校庭のフェンス越しに国道標識が確認できました。

 

神吉小学校(2015年閉校)

沿革を調べたところ、明治19年には現在の校地に移転し、
北桑田郡や南桑田郡へと変遷はありましたが、
神吉村及時尋常小学校、神吉国民学校等を経て、昭和22年の学制改革により
神吉小学校となり現在に至っています。
元々山間の小規模校でしたが、全校児童は1991年度は39名、2013年度は13名と

減少の一途を辿っています。

近隣の新庄小学校とともに富本小学校(統合後は八木東小学校)への統合に伴い

閉校となってしまいました。

 
神吉小学校の隣に立派な木造建築物が目を引きます。
 
現在は、神吉診療所、神吉地区自治振興会館となっていますが、
かつては『及時館』という学び舎だったものです。
 
2階の壁から鳥の巣箱のようなものが突き出ていますが、
これは村人に時刻を知らせるサイレンだそうです。
 
南丹市神吉診療所・>神吉地区自治振興会館(旧及時館)
神吉小学校は、前身である私学『久保館』が明治2年に高木文平氏に
よって創立され、明治の学制発布にともなって北桑田郡第15小学校となり、
『時に及んで、まさに勉励すべし』の辞をとって、『及時館』と改称されました。
現在は診療所・自治振興会館として使用されております。
一時は取り壊しの予定もありましたが、辛うじて存続しているようです。
 
神吉集落を抜けると杉木立の隘路が続きます。
昼間でも暗がりの道です。
 
離合が困難でガードレールの無い箇所も多く
注意深く走行する必要があります。
 
急斜面に疎らな杉並木が谷川まで続いています。
 
深い峡谷を流れる細野川
 
京北宇津郵便局
引き続き477号を進み、南丹市から京都市右京区
京北中地町(けいほくちゅうじちょう)に入ります。
カラフルな看板と壁画は4年前に見たのと変わりません。
 
高台を見上げると旧校舎が見えます。
 
坂道を上がって行くと、錆びて変色した屋根の体育館が建っています。
 
反対側に回ってみると数多くの車が停まっていました。
旧体育館はイベントやスポーツ等で使用されており、
当日は、日本刀を中心とした古武道の演武会が催されていました。
 
先ほど沿道から見上げたのは、この校舎です。
平板な屋根のしっかりとした造りです。
 
教材用のポストは移設されたものだそうですが、かなり傷んでいました。
「造基の桜」の由来は不明です。。
 
恩師の言葉を刻んだ石碑
1973年(昭和48年)4月に建立されたものです。
 
表札は外されていますが、往時の校門が残っています。
 
沿道から校門までは苔生した石段が続いています。
児童達は、毎日この急な石段を駆け上がって通学していたことでしょう。。
 
校庭にポツンと置かれた朝礼台
 
宇津小学校(1999年閉校)
京北町(けいほくちょう)は、2005年(平成17年)3月31日まで
京都府北桑田郡に存在した町です。
当時は7校あった京北町の小学校は、1999年(平成11年)3月に3校に統合されました。
宇津小学校はその時に廃校となり、周山・細野小学校と共に京北第一小学校となりました。
1991年度の在校生徒は27名でした。
 
さらに進むと京北周山町(けいほくしゅうざんちょう)で国道162号(周山街道)と交差します。
現役校舎ですが、沿道から目立つ校舎なので立ち寄ってみました。
門柱の表札は、和風の筆文字の書体です。
 
現代的でお洒落な校舎ですね。
 
外観は和風旅館のようで京都らしいですね。。
 
京北第一小学校(現役)
前身は周山小学校です。
沿革をみると、1873年(明治6年)開校の歴史ある学校です。
京北地域では、平成に入ってから少子化による学校統合が進み、
1993年(平成5年)に矢代小学校を、1999年(平成11年)には
細野小学校、宇津小学校を統合し、校名を「京北第一小学校」として

現在に至っています。

右京区京北地域内で最大の小学校ですが、全校児童は91名(2017年度)と
決して多くはありません。
(京北第二小学校は54名、京北第三小学校は56名
なお、京北地域では、2020年度(平成32年)を目途に、3小学校を統合し
周山中学校と合わせた施設一体型小中一貫教育校の創設に向けて
計画が進んでいます。
 
さらに3kmほど進んだ京北塔町に京北第二小学校があります。
表札は、第一小学校と同様の書体ですね。。
 
玄関前では、盆栽のよう立派な松の木が目を引きます。
 
新築に見えますが、2000年3月に完成した木造校舎です。
 
校舎は校庭を囲むようにL字型に並んでいます。
正面に見える校舎は、第一小学校に劣らず、趣向を凝らしたお洒落な木造建築です。
 
京北第二小学校(現役)
前身は山国小学校でしたが、黒田小学校と統合され校名は消えました。
第一、第二、第三の呼称よりも、山国のほうが郷土の歴史・文化を表しており
親しみを感じますが、残念です。
この地域は、山国郷と呼ばれ由緒ある神社やお寺が残っています。
山国隊は、幕末期にこの地で結成された農兵隊です。
昔から皇室との関係が深く木材や土地の産物を献上してきた山国の人たちは、
これに応えて決起し、同志80数名で組織し官軍に加わって戊辰戦争を戦いました。
第一小学校と同様、統合に伴い2020年閉校予定ですが、斬新で近代的な校舎は
何に使用されるのでしょうか。
まだ新しい建物ですから、高齢者用の施設として活用されるのではないかと思います。
 
京北井戸町に入ると、府道370号に左折して分校跡に立ち寄ります。
 
分校跡は800mほどの距離にあります。
 
程なく到着しました。バス停もあります。
「京北ふるさとバス」は2005年4月1日 京北町の京都市への編入に伴い、
旧町営バスの運行を引き継いだ公益法人です。
 
振り返ると、校舎らしき建物がありましたが、
デカい黒松が仁王立ちしており全貌が見えません。
 
正面に位置を変えたところ、玄関ははっきり撮れました。
 
玄関前に建つ2本の石柱は、往時の校門だったのでしょうか。
表札はありません。
 
正面玄関の近景
京都市の野外活動施設となっています。
 
裏に回ってみると校庭は整備されており、L字型に平屋校舎が並んでいます。
奥が研修・宿泊棟(別館)、手前が会議室・食堂・厨房・事務室などの本館と
なっています。
 
広場ではバーベキュー、夏場は花火を楽しむことができます。
 
校庭の向こうに見える小屋は用具倉庫でしょうか。。
 
山国小学校陵北分校(1961年閉校)
明治の頃は養源小学校であったようですが、
1955年(昭和30年)~閉校時は、山国小学校校陵北分校であったとのことです。
建物は改修されていますが、校門や玄関周りには
往時の面影が漂います。
近くに小塩川が流れており、川遊びや魚釣りも楽しめるそうです。
 
国道に戻り東へ進み京北宮町に入ると、沿道右手に鉄筋2階建て校舎が
見えます。
校舎の壁は薄いピンクの柔らかい外観ですが、玄関は茶色のタイル張りの柱に
分厚い屋根が突き出して厳つい感じです。
 
表札は、「京北研修センター」となっています。
海外から来た研修生が国内の企業へ配属になる前に
日本語を学んだり、日本での生活に慣れるための施設となっています。
 
体操服姿の男女児童が地球に模したボールを高く掲げています。
制作年は分かりませんが、台座には「大望」とありました。
 
校舎の前庭に残る卒業記念樹
 
裏に回ってみると、校舎は長く連なっていることが分かります。
校庭も意外と広いです。
 
片隅に石碑群が集約されています。
 
小ぶりな二ノ宮尊徳像
 
小学校跡石碑
 
地元の豊かな自然や歴史を誇らしく刻んだ校歌
 
裏面には沿革が記されていました。
 
最も年季の入った石碑の表には「有斐」と刻まれていますが、
黒田小学校の前身である「有斐館」に由来しています。
裏面には沿革が記されています。1873年(明治6年)開校。
石碑は1975年(昭和50年)に建立されたものです。
 
山に囲まれた広大な校庭です。
 
黒田小学校跡地には古道の解説板が建っています。
古来より貴船や京の都に出るのに、ここから灰屋集落まで徒歩で峠を
越えて行っていたそうです。
かつて黒田小学校は修学旅行の際、灰屋(はいや)・芹生(せりょう)分校は
黒田本校での学校行事の際に、この山道を片道1時間以上かけて往復していました。
やがてバスの普及によって使われなくなりましたが、2017年住民の手で
60年ぶりによみがえりました。
 
黒田小学校(1999年閉校)
京北地区最東部に位置する小学校です。
新設された京北第二小学校への統合に伴い閉校となってしまいましたが、
海外からの研修生の受入れ窓口として活用されており、嬉しく思います。
 
旧黒田小学校と道路を挟んで向かい側に建つ木造建築です。
遠方から目を引きますが、木造校舎ではなく「黒田トレーニングホール」という
新築されたスポーツ施設です。
海外からの研修生もここでスポーツを楽しんでいることでしょう。。
 
灰屋口バス停
4年前は、ここから府道361号を南下しました。
黒田小学校芹生(せりょう)分校(1999年閉校)を訪れた時です。
鬱蒼と茂る暗い森林の中にひっそりと佇んでいました。↓

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11879260781.html

今回は、そのまま国道477号を直進します。

 
沿道の風景(京北上黒田町)
桂川の上流では森林の中を足早に流れているようでした。
透明度の高い清流です。
 
※記事の続きは後編にてお届けします。