埼玉県中西部の廃校休校巡り(2016/08/08) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前回に引き続き、埼玉県内の廃校休校巡りです。

今回は、訪れた場所が5市町に跨るため、(上図の赤い枠)

中西部と題して纏めています。

 

横瀬町 (よこぜまち) は、埼玉県北西部、秩父郡の町です。
武甲山(ぶこうさん)の北側、秩父盆地の南東の端に位置しています。

武甲山から産出される石灰岩鉱業が主な産業です。

 

飯能市(はんのうし)は、埼玉県の南西にある人口約8万人の市です。

2005年(平成17年)には旧名栗村と合併、県内3番目という広大な面積を

持つ市となりました。

北西部は山地で、市域の約76パーセントを森林が占めています。
古くは林業と織物のまちとして栄えましたが、昭和40年代からは宅地化が進展し、
首都圏の近郊住宅都市として変化をみせました。

 

ときがわ町(ときがわまち)は、埼玉県中部にある人口約1万人の町です。
町名の由来は、両村内を流れる都幾川に因み、読みやすいようにひらがなとしたそうです。

面積のおよそ7割が山林が占める町です。

 

小川町(おがわまち)は、埼玉県中部、比企(ひき)郡の町です。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から

「武蔵の小京都」の異名を持ち、伝統工芸の和紙で知られています。

 

嵐山町(らんざんまち)は、埼玉県中部に位置する人口約2万人の町です。
平安時代末期の武将源義仲や畠山重忠ゆかりの地で、江戸時代には江戸と上州を
結ぶ川越児玉往還の菅谷宿として栄えました。

比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ地勢により

自然豊かで、国蝶オオムラサキも生息しています。

 

前泊した皆野町のクラブハウスの高台からの眺めです。

秩父盆地の先に秩父のシンボル・武甲山が見えます。

兜のように勇ましい山姿ですね。

山肌に白い帯を巻いているようです。

 

秩父往還(国道140号)を南下していきます。

かなり近くに見えてきました。

 

山肌が石灰石の大規模な採掘によって削られています。

頂上から階段状に小刻みに採掘した跡が罫線を描いていますが、

下段の岩肌が剥き出しになっている部分が白い帯に見えたのですね。

人工的に造られたものと確認できましたが、少し残念です。

 

この辺りからの眺めが美しいですね。

武甲山は、埼玉県秩父地方の秩父市と横瀬町の境界に位置する山です。
秩父盆地の南側にあり、標高は1,304mです。

日本二百名山の一つに数えられています。

 

秩父市街を抜けて、国道299号を進み、横瀬町に入ります。

西武秩父線、芦ヶ久保駅付近の高台に閉校となった校舎が残っています。

 

山林に囲まれた中に、木造校舎が静かに佇んでいます。

 

ジャングルジムは、まだ錆びていないので閉校になってから

それほど年数も経ていないようです。

 

校舎裏から、一段上にある別校舎を結ぶ渡り廊下があります。

 

その先は、こじんまりとした3階建ての鉄筋校舎です。

 

最近は見られなくなったレトロな郵便ポスト

 

窓越しに撮ったものですが、

蘆ケ久保尋常高等小学校当時の銘板と、昭和12年の卒業記念写真です。

セピア色の写真に30名ほどの学童と先生が写っています。

 

明治22年の卒業証書ですが、かつては

「武光学校」という校名だったようです。

 

年季の入った二宮尊徳像

台座は青く苔生していますが、戦前から建っているのでしょう。

 

木板に書かれた校歌は、朽ちて読めなくなっています。

やがて消えてしまうのでしょうけど、

石碑に留めなかったのは、朽ちていくことを

分かってのことだったのでしょうか。。。

 

芦ヶ久保小学校(2009年閉校)

野鳥の囀りが聴こえる自然豊かな場所にあります。

閉校後は、「あしがくぼ笑楽校」として、横瀬町が管理しており

各種イベントや撮影に使用されています。

校舎や教室も有料ですが、一般に貸出し出来るようです。

 

国道299号をさらに南下し、正丸トンネルを抜け飯能市に入ります。

南川地区に入ってほどなく、沿道右手の草むら越しに木造校舎らしき

建物が見えました。

 

木枠の窓、漆黒の板張りに魅了され、下りていきます。

 

往時の門柱に表札です。

 

鉄兜のような厳めしい屋根、骨董品のような平屋木造建物ですが、

こちらは明治37年竣工の旧校舎です。

 

玄関の近景

地元のイベントが催された後で、パイプ椅子や机、段ボールが

無造作に置かれ雑然としています。

 

表題からすると、地域のお年寄りの交流行事のようです。

 

雑然とした玄関から天井を見上げると、

虹梁の中央に「學」の文字が刻印されています。

 

半入母屋屋根のこじんまりとした校舎ですが、

軒下に室外機が設置してあり、現在もなお集会所として

利用されているようです。

 

外壁に学校全体図が掲示されていますが、

校舎と校庭の間に池があったのですね。

 

二宮尊徳像と閉校記念碑

 

卒業記念のオブジェ

鮭を掴む熊のようですが、いつ製作されたものか不明です。

 

高台に見える2階建て木造校舎は、昭和12年竣工の新校舎です。

 

一段上に建っており、横からスロープをゆっくり上がっていきます。

さきほど沿道から見えたのは、この校舎の裏側です。

 

1階の教室は低学年(2年生と3年生)、2階は高学年(4年生~6年生)が

使用していたそうです。

敷地が狭いため、全景を撮ることができませんでした。

 

側面からみると、奥行きが無いのがよく分かります。

南川小学校(1993年閉校)

旧校舎は1年生の教室と音楽室があったそうです。

明治の校舎が今なお健在していることに驚きました。

地元の方々の郷土愛に支えられ丁寧に維持されてきたからでしょう。

1991年度の在校児童は56名でした。

 

西武秩父線、西吾野駅前の細い道を山側へ入っていきます。

案内が出ているので迷うことはありません。

 

緩いスロープを上がると、砂利を引いた広場と2棟の建物がありました。

 

左手の建物は、赤い屋根の玄関ポーチが付いています。

大正10年竣工の新校舎です。

 

玄関屋根の破風板に下がる懸魚は飛翔する鶴です。

ダイナミックに彫られており、凝った意匠ですね。

南川小学校のように「學」の文字はありませんが、

右端に校章「北小」が見えます。

 

右手の建物は、明治37年竣工の旧校舎です。

深い寄棟屋根の木造建築です。

 

百周年記念碑

 

学校跡の石碑

 

フタコブラクダのオブジェ

卒業記念作品でしょうね。製作年月日は不明です。

南川小学校では熊のオブジェでしたが、両校舎とも同じ時期に竣工し、

同じ時期に閉校となった歴史を持ち、類似点が多いですね。

南北に対峙する集落ということもあり、村人達は競って

立派な校舎を建てたのではないでしょうか。。

児童たちもお互いに勉学に励み、素晴らしい作品や思い出を

残して巣立っていったのでしょう。

 

遊ばれることのなくなったカラフルな遊具

 

北川小学校(1993年閉校)

さきほどの南川小学校と比べて外観が非常に美しいのは、

2012年に修繕されているためです。

小学校を甦らせるため、地域の人たちが自ら地元の木材等の資材を持ち寄り、
ボランティアで教室2部屋を修繕し、小学校の復活に取り組んだそうです。

外観は往時の趣を残しており、映画やドラマのロケに利用されています。

普段は、地域高齢者の交流の場となっております。

1991年度の在校児童は20名でした。

 

飯能市から県道61号を北上し、尾越町(おごせまち)を経由して

ときがわ町に入ります。

都幾川沿いに県道172号西へ進みます。

西平地区に入り、モダンな木造校舎が目に留まりました。

 

丸窓もあり洒落たデザインです。

 

校庭側から見ると大きな校舎です。

 

旧平小学校(2004年閉校、現:萩ケ丘小学校)

地元の豊富な森林資源を活用して建築された木の香りの する木造校舎です。
2004年(平成16年)3月31日で閉校した山間部の「大椚第一小」と「大椚第二 小」を

統合する形で「平小学校」となり、その後「萩ヶ丘小学校」と改名されました。

在校児童46名の小規模校です。(2016年4月)

 

県道172号は、都幾川上流に進むと隘路になります。

大野地区から都幾川温泉方面に向かいます。

急な坂道を上った場所に2階建ての木造校舎があります。

 

広大な校庭の奥に引いて撮ると、先ほどの木造校舎と

3階建ての白っぽい鉄筋校舎が連結されています。

職員室等のある管理棟でしょう。

さらに、右手に見えるアーチ屋根の建物は体育館です。

 

閉校記念碑

 

明治5年開校の古い歴史のある学校です。

大椚(おおくぬぎ)とは、大野地区および隣接する椚平(くぬぎだいら)地区の

頭文字を採った校名ですね。

 

大椚(おおくぬぎ)第一小学校(2004年閉校)

山に囲まれた高台に立つ木造校舎は、役目を終えて静かに

余生を送っているようです。

校庭で遊ぶ児童等にチャイムや音楽を響かせたトランペットスピーカーだけが

誰もいない校庭をじっと見つめていました。

1991年度の在校児童は47名でした。

なお、隣接する椚平地区にあった大椚第二小学校は、すでに取り壊されて

跡地に「くぬぎむら体験交流館」という施設が建っています。

 

西平交差点から県道273号を北上し、小川町に入ります。

腰越(こしごえ)地区の腰上公会堂の隣にこじんまりとした平屋校舎が

あります。

 

現在は、「文化財整理室」として使用されています。

 

いくつかの錆びた遊具が狭い校庭に残っています。

 

大河小学校腰越(こしごえ)分校(2007年閉校)

大河小学校には、他に青山分校(1979年閉校)、古寺分校(1983年閉校)が

ありましたが、校舎は現存していません。

唯一残っている腰越分校は、改修されてはいますが、

明治43年築の木造校舎は、校舎自体が文化財と言えるでしょう。

1991年度の在校児童は17名でした。

分校とはいえ、ちょっと窮屈な感じがしますので、他に棟があったと思われます。

 

JR八高線を横切り、小川町東部の下里地区に向かいます。

集落の中にありますが、案内板の通り進めば容易に到着します。

 

校舎に往時の表札が掛っています。

 

赤い屋根の平屋校舎がL字型に並んでいますが、

樹木に囲まれて長閑な雰囲気です。

 

左手の校舎は、数本のトウジュロが立ち並び南国風の空気が

漂っています。

 

右手の校舎は、青いトタン屋根の玄関が2か所あります。

軒下の花壇にマリーゴールドやサルビアが咲いていましたが

往時から育てていたものでしょう。。

 

下里分校は、TVアニメ「のんのんびより」の主人公達の通う小中学校のモデルと

なったことで知らています。

アニメファンが多く訪れるそうですが、当日は人影もなく閑散と

しておりました。

 

校内も往時のままです。

廊下も手入れが行き届いており、綺麗に清掃されていました。

 

校庭に残る遊具

雑草が芝生のように校庭を埋め尽くしています。

 

小川小学校下里分校(2003年休校、2011年閉校)

アニメの舞台に廃校が使用されることは、校舎や取り巻く環境が

綺麗に保たれ、校舎の再利用に繋がるという意味で

喜ばしいことです。

多くの木造校舎は、取り壊されていく運命にあるからです。

一方で、人知れず自然に埋もれ朽ち果てていく校舎に

郷愁を覚える小生にとっては、「延命」(修繕・改修)を施さず

静かに見守りたいとの複雑な思いもあります。。

下里分校は、まだまだ長い「余生」を楽しんているようです。

1991年度の在校児童は73名でした。

 

小川町と隣接する嵐山町に向かいます。

鎌形地区に入ると、独特の洋風建築物が目を引きます。

左側の手前にピンクの2階建て鉄筋校舎、正面奥に巨大な木造校舎です。

 

赤茶色の瓦屋根、薄い水色の外壁の校舎はシンメトリー(左右対称)で

均整がとれて綺麗ですね。

基礎に赤レンガを積み上げた洋風の建築形式は、

19世紀の末にアメリカで流行したシンプルスタイルまたはコロニアルスタイルとも

呼ばれています。

 

高い柱の端正な玄関ポーチです。

その上の屋根の妻に赤十字が施されてていますが、

教会ではありません。

 

旧鎌形小学校(2007年閉校、現:嵐山幼稚園)

由来を調べたところ、1905年(明治38年)日本赤十字社埼玉県支部の初代社屋として、

さいたま市(旧浦和市)に建築されていたものを、1983年(昭和58年)嵐山町に

移築・復元したものです。

初代社屋は明治時代の埼玉県の洋風建築物を代表するものとして知られており、

埼玉県指定有形文化財となっています。

現在は、幼稚園として使用されておりますが、このような美しい校舎とともに

過ごしたことを誇りに思うことでしょう。