愛媛県西条市の廃校休校巡り(2014/08/14) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。


西条市(さいじょうし)は愛媛県中東部の都市です。

2004年西条市、東予市、小松町、丹原町が合併して新・西条市が誕生しました。

愛媛県内では、久万高原町、西予市に次ぐ第3位の面積を有しており、
南には西日本最高峰の石鎚山、北には瀬戸内海と、海と平野と山が

揃った風光明媚なところです。
同市出身の有名人には、眞鍋かをり ( タレント)等がおります。

 



西条市街から松山市方面へ国道11号を進むと

 

程無く中山川沿いに桜三里(さくらさんり)の看板が見えます。

桜三里は、愛媛県東温市から西条市に至る

金毘羅街道(讃岐街道)の峠道の通称であり桜の名所となっています。

赤い屋根の民家の奥の道を山側へ入って行きます。

 

千原小学校2

 

 

千原小学校1

 

 

千原小学校3

 

 

千原小学校7

 


千原小学校6

千原小学校4

千原小学校5
千原(ちはら)小学校(1972年閉校)

旧丹原町千原集落にある平屋建ての木造校舎です。

千原地区は、かつで鉱山で栄えた集落ですが、煙害と産業構造の変化により

1960年に廃鉱となり、鉱山関係者も他地域へ流出しました。

そして、1972年千原小学校も廃校となり、東隣の鞍瀬小学校に統合されました。

人影も無い山の中に広場があり、入口には「千原児童遊園」の看板もあります。

閉校後は、児童遊園として使用されていたようですが、

広場に遊具もなく遊園としての面影もありません。

なぜか屋根が2色に分けられた古い校舎は、農具の格納庫となっていました。

錆びた大八車が骨董品のように展示されていました。

 

鞍瀬小学校1

鞍瀬小学校4

 


鞍瀬小学校6


鞍瀬小学校5

鞍瀬小学校2

鞍瀬小学校3
鞍瀬小学校(2001年閉校)

国道11号を西条方面に戻る途中で、県道153号に入り

鞍瀬川に沿って南下します。

沿道から高台に赤い屋根の講堂が見えましたが、

校舎はすでに姿を消していました。

校庭は綺麗に整備されており、当日は盆踊りの会場となっていました。

校庭には二宮尊徳像の姿はなく、本を掲げた野口英世の少年像がありました。

1991年度の在校生徒は18名でした。

鞍瀬川の清流2
鞍瀬川の清流

 

明河小学校1

 


明河小学校2


明河小学校4

明河小学校3
明河(みょうが)小学校(1982年閉校)

鞍瀬川の上流にある最果ての村が明河集落です。

県道153号もこの集落で行き止まりになります。

鞍瀬川のせ清流を横に眺めつつ、集落へ下りて行きます。

2階建ての民家のような外観から、遠方からは校舎と見えませんが

地元の方に訊いて、かつて小学校の講堂であったことを確認しました。

かろうじて判読できる校名を刻んだ石碑がその証です。

閉校後は集会所として使用されていたそうですが、建物の裏に回ると

波板屋根が幾つも継ぎ接ぎされており、現在でも使用に耐え得るのか

不明です。

 

加茂小学校1

 


加茂小学校4


加茂小学校2

加茂小学校3
加茂小学校(1995年閉校)

再び国道11号に戻り、西条市街から国道194号を南下します。

西条市荒川地区に古い鉄筋校舎が残っています。

山間集落ですが、重厚な2階建ての校舎です。

1991年度の在校生徒は僅か6名でした。

校舎が大きく見えましたが、多過ぎるほどの教室は

何に使っていたのでしょうね。

 

浦山小学校1

 

国道194号を西条市街方面に少し戻り、県道12号を黒瀬湖へと進みます。

途中の「浦山口」バス停を左折し次の目的地を目指します。

 

浦山小学校2

 

柳瀬橋

黒瀬湖から流れ出る加茂川を渡って山奥に入って行きます。

そして、人家も無い寂しい道程を進みます。

 

浦山小学校3

 

正しい道程か不安になりかけた頃、小学校の案内が見え、

ほっとしました。

生徒達の作品も左折を案内しています。

 

浦山小学校4

 

更に奥へと入っていくと、再び不安になってきましたが、

再び生徒達の卒業記念作品が掲げられており

安心しました。

自然保護のポスターをよく見ると2000年の作品です。

平成12年ですから、それほど遠い昔でもありません。

このような秘境ともいえる場所に、どこに集落があり

どのように通っていたのでしょうか。

気になります。

 

浦山小学校5

 


浦山小学校6
山林の隙間から遠方に校舎らしき建物が2棟見えました。

それにしても、かなりの山奥です。。


浦山小学校7

やっと入口に辿り着きました。

坂道を下りるのですが、石ころや落ち葉や枯れ木に埋もれており

バイクもハンドルを取られ転倒しそうになりました。

誰も通行しないので、整備もされていません。

昼間でも暗い山林の中、不安な坂道を下りていくのは、

かつて紀伊半島奥地を巡っていたとき、

和歌山県旧日置川町(現:白浜町)の辺境、大瀬小学校の入口を

思い出しました。案内はこちら(浦山小学校)が大きくて立派ですが。

 

浦山小学校8

 

 

浦山小学校10

 

 

浦山小学校11

浦山小学校9
浦山小学校(2010年休校)

 

狭い校庭の向こうに遊具や校舎の横顔が見えましたが、

一帯は雑草が埋め尽くし容易に近付くことはできません。

人の出入りを拒むような雰囲気が漂っており、かつて訪ねた徳島県穴吹町の山深い廃校舎、

長尾小学校の記憶が蘇りました。

1991年度の学校総覧では休校中となっていますが、

道中で見たポスターから、2000年には再開していたことになります。

そして、2010年に再び休校となっています。

山深い周囲の環境や校舎を取り巻く現状からは、再開の道は遠いように

思われました。


加茂川の清流1


加茂川の清流2
再び県道12号に戻り、加茂川に沿って上流へと進みます。

エメラルドグリーンの透明度の高い清流です。

 

大保木中学校1

 

 

大保木中学校7

 

 

大保木中学校3

 


大保木中学校8



大保木中学校9

大保木中学校6

大保木中学校5

大保木中学校4
大保木(おおふき)中学校(1988年閉校)

加茂川沿いの対岸に「石鎚ふれあいの里」という宿泊・食事施設が見えてきます。

橋を渡りそこに向う途中の高台に、校庭と校舎があります。

一部改装されてはいるものの、玄関や廊下、教室は往時の面影を

残しています。

グリーンの校章も健在です。

校庭に西条市と大保木村の合併記念碑がありました。

調べると、大保木村は愛媛県東予地方の新居郡にあった村で、

1956年(昭和 31年)に、加茂村、新居浜市大生院の一部とともに西条市に編入合併され、
自治体 としては消滅しましたた。

「ふき」や「ほき」は険しい崖という意味で、大保木の名称もそれに由来すると思われます。
昭和30年代には3000人以上が暮らし、主に林業や農業が行われていました。
小学校も兎之山、黒瀬、大保木、高嶺、西之川にあり、大保木中学校もありました。
林業の衰退などとともに人口が減り、黒瀬ダムの完成によりさらに500人近くの人が村を去りました。
今は公民館および市の出張所として活用されています。

 

高嶺小学校1

 

 

高嶺小学校2

 

県道12号から対岸にある「石鎚ふれあいの里」

清流加茂川を眺めながら、バーベキューや飯盒炊飯が楽しめます。


高嶺小学校6


高嶺小学校5




高嶺小学校7

高嶺小学校3
高嶺(たかね)小学校(1987年閉校)

「石鎚ふれあいの里」として第二の人生を送っている木造校舎です。

簡易宿泊施設として改装されてはいますが、当時の面影が残っています。

中庭に小学校跡の石柱、ブロンズ像がありました。

校舎の手前には売店がありましたが、この建物も旧学校施設として

利用されていたものと思われます。

当日は、夏休みを河畔で過ごす大勢の家族連れで賑わっていました。

廃校休校巡りで訪ねた者は私一人だったに違いありません。。

 

高嶺小学校高宮分校2

 

 

高嶺小学校高宮分校1

 


高嶺小学校高宮分校5

高嶺小学校高宮分校4

高嶺小学校高宮分校3
高嶺小学校高宮分校(1979年休校、1980年廃校)

陽が傾き始めたこともあり、急いで最後の目的地に向いました。

石鎚山ロープウェイ入口を過ぎて少し奥へ入った場所に

小さな白い校舎が残っていました。

廃校後は「西条少年自然の家」として再利用されていたのですが、

現在は、作業用の倉庫として使用されているようです。

狭い校庭には重機が数台置かれ、ものものしい雰囲気です。

ただ重機は校舎を解体するのでなく、付近の道路か崖の補修のようです。

安心したところで、日が暮れた校舎を後にしました。