京都市東山区の廃校休校巡り(2014/04/13,26) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。


東山区
東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつです。

区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街があります。
鴨川左岸の平野部は早くから市街化されていますが、

東山の西麓には大規模な寺社が林立しております。
人口は11区中最も少なく、65歳以上の高齢者比率は、
全国の政令指定都市の行政区の中で最も高いものとなっています。

同区出身のの有名人には、衣笠祥雄 ( 元プロ野球選手)や杉本彩 (タレント)がおります。


一橋(旧貞教)小学校1


一橋(旧貞教)小学校2


一橋(旧貞教)小学校3
貞教小学校(現:一橋(いっきょう)小学校)2002年閉校

日本初の学区制小学校制度である 「番組小学校」 の一つで、

下京第29番組小学校として 1869 年に開校した歴史のある学校ですが、
新設する東山小学校との統合に伴い、2002年に閉校となりました。。

「貞教」は正しく教え、または貞節を重んじることを教えるの意味をもつとされます。
この界隈は、京都らしい風情があふれる地区ですが、

京都市のなかでもとくに高齢世帯の増加が進み、
同時に年少人口の減少による、超少子高年齢の地区でもあります。
校門には、「貞教幼稚園」と「一橋小学校」の表札が左右にありましたが、

幼稚園は休園中のようです。

校舎は3階建て鉄筋校舎ですが、屋上に展望台のような塔屋があるのが特徴です。

古い校舎には、廃材を入れるコンテナが横付けにされており、カラーコーンで

仕切られ立ち入ることができなくなっておりました。

近い時期に解体されるのでしょう。

校舎の角に、「七條大橋」と刻まれた欄干の一部が見えましたが、

昔はここに橋が架かっていたのでしょうか、詳細は判りません。


鴨川の風景
鴨川(三条大橋付近)

満開の桜と春の陽気に誘われて、土手に座り寛ぐ人々の

姿が散見されました。


有済小学校7


有済小学校6


有済小学校1


有済小学校2

有済小学校3

有済小学校5
有済(ゆうさい)小学校(2004年閉校)

京阪三条駅から若松通りを東に進んだ場所にあります。

校舎の屋根の上に太鼓望楼が見えますが、大変珍しいものです。

1876年(明治9年)8月、校門入り口に近いところに太鼓楼兼望楼を作り、

火の見櫓として、半鐘を鳴らして、火事を知らせるとともに、太鼓をたたいて

番組(町組)内の人々に時刻を知らせたそうです。

各小学校にあった望楼は明治末までに姿を消し、
有済小学校にだけ残る日本唯一の文化財となっています。

校庭では、女子生徒達がテニスの練習をしておりましたが、

太鼓楼に劣らず活発な掛け声が響き渡っていました。

体育館の壁の横断幕には、「思い出 いっぱい 有済校」とありました。


新道小学校1


新道小学校2


新道小学校6

新道小学校5

新道小学校4
新道(しんみち)小学校(2011年閉校)

五条通りから大和大路通りを北へ400mほど進んだ場所に

あります。

正門玄関は、年季の入ったレンガ造りで壁が黒ずんで

おりますが、表札だけは手書き風の校名が黄金色に輝いていました。

校舎は鉄骨RC3階建て(一部4階)で、狭い校庭を囲むように

L字型に配置されております。

壁面には照明灯、防護フェンスネット、煙突や雨樋からの

配管等が取り付けられており、雑然とした雰囲気です。

現在は「新道児童館」として利用されております。


清水小学校1


清水小学校3


清水小学校2


清水小学校6


清水小学校7


清水小学校5

清水小学校4
清水小学校(2011年閉校)

東大路通りから清水寺へ向う坂道の途中に小さな校門と

入り口があります。

土産物屋さんが道の両側に軒を連ね、国内外からの観光客が

絶えない賑やかな通りですが、校門から奥へ入ると長閑な雰囲気が

漂っています。

卒業記念のモニュメントや夥しい数の自画像のレリーフが出迎えてくれました。

校舎は和風の建物を想像しておりましたが、縦長のアーチ窓や赤いスペイン瓦屋根の

洋風の近代的なものです。

京都市営繕課の設計で、1933年(昭和8年)に完成した校舎です。

人影も無い校庭の向こうには、地区のシンボルでもある八坂の五重塔を近くに

望むことができます。

和洋の両方の佇まいを感じることができる趣のある場所です。


修道小学校1


修道小学校6

修道小学校3

修道小学校2

修道小学校4
修道小学校(2002年閉校)

東大路通り馬町から路地を入ってすぐに赤レンガの校門が

見えましたが、

表札は、「京都市立白河総合支援学校東山分校」とありました。

修道小学校であったことを示す石碑には、

「東山小学校に後を託して伝統ある輝かしい歴史の幕を閉じた」と刻まれており

無念に満ちたものでした。

すでに東山小学校ではなく、支援学校に名前を変えており、

時代の移り変わりの速さを感じました。

一方、馬町地区では空襲を受けた悲しい歴史があります。

一般的に、京都は歴史的に価値のある街であるため、米軍の空襲は回避されたのだと

思われておりますが、実際はそうではなかったのです。

府の記録によると、1945年1月16日に1機のB29が京都市上空に飛来、

京都市東山区馬町付近に爆弾を投下した結果、死者34人、負傷者56人、

全焼・全壊31戸、半壊112戸の甚大な被害を受けたそうです。
同地区の修道国民学校や京都女子専門学校(現・京都女子大)も被害を免れませんでした。

学校の名前は移り変わっても、空襲を受けた歴史は風化することなく語り継がれて

いくことでしょう。