安芸市は、県都高知市から東へ約40キロに位置する田園都市で、
市の南部を横断する国道55号を中心に県東部地域最大の市街地を形成しています。
南は土佐湾に面し、北は四国山地を背にし、徳島県と接しています。
市内の中央部には安芸川・伊尾木川が南流し、その流域に安芸平野が広がっています。
物部村(ものべそん)は、高知県の北東部、物部川の源流域に位置していました。
日本一のゆず産地と知られる村です。
2006年3月1日、土佐山田町・香北町と合併し、香美市となりました。
面積の約95%を山林が占め、林業や柚子の栽培などの農業、それを使った特産品が主な産業です。
剣山国定公園のエリア内にあるべふ峡など、四季折々の自然が楽しめる地域です。
また、陰陽道や古神道の一つといわれるいざなぎ流が伝わる地域としても有名なほか、
平家の落人伝説も残っています。
土居村(現在の安芸市土居)の大地主であった畠中源馬は
時計に興味を持ち、明治20年(1887年)ごろアメリカ製の八角掛時計を取り寄せて
分解・組み立てを繰り返し、やがて自作の時計を作ることを思い立ちました。
独学で全てのパーツを一人で作製したといわれております。
当時は殆どの人が時計を持っておらず、周囲の田園で農作業に従事する人々が
時間を知るのに役立っていたとのことです。
野良時計を見た後、安芸川に沿って北上し、
栃ノ木集落から支流の尾川川に沿って上流へ進みます。
道路が狭くなってきた頃、沿道の左手に鉄筋3階建ての校舎が目に付きました。
小学校中学校が一体となった校舎です。
コンクリートの壁は長年の風雨のためか黒ずんでおりましたが、
校舎自体は堅固でしっかりとした感じです。
校庭であった空き地は稲作に転用されており、黄金の稲が収穫を待っていました。
田んぼの向かいには、小さな木造校舎がありましたが、講堂として利用されていた
ものと思われます。現在は、農機具倉庫と化していました。
一帯は林業が盛んな地域でした。山の尾根からワイヤーロープを
吊って谷間を一直線に運搬できたので便利でした。
このような索道が山間部で随所に張り巡らされ、活発に木材を切り出して
市場に運んでおりましたが、林業の衰退に伴い姿を消しました。
時折、沿道から錆び付いた残骸を見ました。
上尾川小学校から一旦、栃ノ木まで戻り、県道210号へ入り
安芸川上流に向って畑山方面に進みます。
手前の寺内集落付近で、張川林道との分岐点に突き当たりますが、
畑山温泉へとは行かずに張川に沿って右折します。
ほどなく、舗装は途絶え、ダートと水溜りの泥濘の道が続きます。
張川林道と別れ、正藤川に沿って奥へ進みます。
畑山小学校正藤分校へ登る場所
(左手の山の斜面にゆず畑が見える。)
ここに来る途中、林道が上下に分かれて迷う場所がありました。
ちょうどその頃、猛暑の中の低速走行でバイクの水温計がレッドの少し下まで
上がってオーバーヒートになりかけた状態でした。
エンジンも熱中症になりそうです。
このような人影も無い山奥でバイクが動かなくなったら大変です。
一旦バイクを降りて、まず上の道を10分ほど歩き、
目印のゆず畑がなさそうな気配だったので、
下の道を進みました。(バイクは正常に回復)
ほどなく突き当たり、ゆず畑と作業小屋、そして偶然にも、
ゆずの手入れに来られた方に遭遇しました。
林業の衰退により廃村となったため、住民は一人もいません。
廃村マニアには有名な場所です。
手入れされたゆずの木をくぐり抜けて登っていきます。
廃村家屋群の突き当たりには、建物が3棟(奥に外観が整ったものが1棟、
手前に左右崩壊しかけた2棟)ありました。
手前の2棟は、かつて1棟の校舎だったのですが、中央が崩壊して無くなり
分裂してしまったそうです。
崩壊した校舎の中は、農家の作業道具等が散乱しておりましたが、
壁に破れかけたアルファベット表が見え、学び舎であったことが判ります。
数軒の廃屋しか残っておらず、どこから生徒達が通学していたのか尋ねたところ、
さらに奥の中ノ川集落からも尾根を伝って通っていたそうです。
林業が盛んな頃、営林署関係の子弟、家族が多く住んでいたそうです。
正藤集落(廃村)は、秘境中の秘境です。
それなりの覚悟が必要です。
一旦、張川の分岐点まで戻り、畑山温泉方面に向います。
橋を渡ってほどなく「畑山創作の里」という看板が見えました。
その奥に白い鉄筋校舎と青い屋根の体育館がありました。
山奥にしては近代的な校舎です。
ここでも小学校中学校が一体となっておりました。
現在は、宿泊交流施設として利用されております。
舞川小学校(1963年閉校)
畑山地区から林道を舞川方面に進みます。
ランプの無い昼でも真っ暗な弓木隊道を抜けると香美市です。
物部村に通じる県道にぶつかり北上すると程なく舞川キャンプ場が
見えてきます。
その高台の奥に平屋建ての木造校舎がありました。
閉校後の歳月を感じないほどに綺麗に保存された状態です。
通常ならば、老朽化に伴い崩壊してもおかしくないはずですが、
大切に維持・管理されていることが判ります。
当日はキャンプに来た家族連れで活気がありました。
永瀬ダム
物部町の中心地である大栃地区は、物部川と上韮生(かみにろう)川が
堰き止められ、幾つもの橋が架かり、風光明媚なところです。
大栃橋を渡り、国道195号と分かれ、上韮生川に沿って県道49号を北上します。
橋の歩道にはカラフルな提灯が吊るされ、当日は盆踊りが開催されるとのことでした。
旧物部村の中心地の大栃から北部は旧上韮生村だった地域です。
対岸に民家が集中しており、橋が生活の生命線であることが判ります。
某引越し社のCMで見たような光景です。
県道217号に入り程なく2階建ての経年劣化した鉄筋校舎が
見えました。
ベランダの手すりも錆び付いており歳月を感じます。
現在は、木材の倉庫として利用されているようです。
五王堂地区からさらに上流へ入って行きます。
川辺に下りると、枯れ草の残った校庭に2階建ての美しい木造校舎が
ありました。
薄いピンクの板張りの壁が当時のままの佇まいです。
山奥の集落に川のせせらぎが心地よく聴こえていました。
別府(べふ)小学校(1996年閉校)
久保小学校から、大栃まで戻り、国道195号を東へ進みます。
美しい渓谷美や紅葉の素晴らしい別府峡は温泉もあり、
四季折々に風情のある場所です。
しかしながら、別府地区は県境に位置し交通の不便な場所です。
別府峡温泉を過ぎて程なく、集落の高台に校舎がありました。
国道から石垣の坂道を登っていきます。
青い屋根の体育館は近代的な建物ですが、校舎はその一段上にあり、
渡り階段で結ばれておりました。
その木造校舎はとても味わい深く、一層存在感がありました。
1991年度の在校生徒は僅か6名でした。