LIVEの妙機を剣に学ぶ その① | 日々のあわ

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僕らのぼやき

歌を歌ったり、料理を作ったり
自転車で走ったり、日曜大工をしたり
お酒を飲んだり、飲まれたり、絵を描いたり
人生のテーマを考えたり、タナゴ釣りをしたり
あとは...、なんか色々考えてます

小野次郎右衛門忠明

前名 神子上典膳

この人は、戦国時代から江戸時代にかけての剣術家です。剣客マニアとして語ると、果てしない長文になってしまうので、ここは簡潔に。通称「剣の神様」「剣聖」と呼ばれる「伊藤一刀斎景久」を師とし、徳川将軍剣術指南役を務め、その流派「小野一刀流」は、後の世に代々受け継がれて、現在の「剣道」になりました。徳川の二代目将軍、徳川秀忠と真田昌幸、幸村の親子との戦い。かの有名な「上田城攻め」。
この攻防戦における秀忠軍中の戦功者「上田の七本鎗」の中の一人に数えられています。もっとも、小野忠明は、この時に本陣を守る立場でありながら、勝手に前線の戦闘に参加し、職場離脱であるとして、「蟄居閉門」を命じられています。(城中の明かりもない部屋に閉じ込められ、一ヵ月くらい?謹慎処分ということ)

小野忠明の問題になった行動を説明しますと...

前線「ぬおーっ!うわーっ!ぎゃーっ!」

秀忠「真田め...、予想以上にやりおる、こんなにも手ごわいとはっ」
「えーいっ!何をしておる!忠明殿!」

忠明「はっ!それでは、わたくしめがっ!おりゃ~っ!」

秀忠「まっ、まて!忠明殿!待たぬか! あれ?戻ってこぬかっ!」

忠明「おりゃ~~っ!とう!やあ!おりゃ~っ!」



バッサバッサ バッサバッサ!

真田軍「わー、逃げろー!うわっ、やめて!痛い!ぐわーっ!」

こうして、一刀流忠明の剣技は冴え、忠明の行く手にいくつもの屍が出来たのです


彼は、剣技をもって秀忠に仕える身であるわけですが、それ以上に一介の剣士。戦闘を見守るだけでは耐えられなかったのでしょう。後の「大阪の陣」でも同じ失敗を繰り返し、再び蟄居閉門を命じられていま
す。こうした人間味溢れる、小野忠明が以前から好きで、僕の心の糧となっているのであります。誤解さ
れる言い方かもしれませんが、いつの時代も人と(組織・政治的なもの)交われない、交わろうとしない、そ
んな人。他人から見れば、「変わりもの」「へんくつ」「がんこ」。いわゆる芸術家の人達に多いとは思います。感覚、直感型の人(不器用でもある?)。小野忠明もそんな人だったのでしょう。実績から見ても、
あまり出世はしてません。同じ将軍家指南役の「柳生宗矩」は、一万石。忠明は、頑張ってもわずか800石くらい。世渡り下手な人だったみたいです。けれど、小野忠明の生き方は共感できるものが、数多くあって、それは僕の音楽面に多くの影響を残しています。「剣禅一如」という言葉がありますが、「剣の道
も禅の道も極めれば一緒」というのが、この思想であり、その心妙は音楽でのLIVEの心構えや、在り方、心得に通じるものがあります。江戸時代中期、昔のように強ければ強いだけ良しとされる剣客の時代というのは終りを告げ、剣の道は「殺人剣」ではなく、人を生かす「活人剣」として生まれ変ろうとしていました。けれど、こうした流れが「魅せる剣技」、「剣客商売」といった、堕落の道に成り下がっていったと思われます。いわゆる、剣客と言うのは、師から伝えられた兵法目録にしたがって修行し、それをマスターすれば「免許皆伝」になるわけですが、小野忠明から言わせてみれば、「そんなものは、戦いでは役に立たない」。事実、徳川家康公から、自身の「一刀流」について問われた際に、こう答えています。「一刀流は、どこかの流派と違い、構えたら打つ。その名の通り一刀のもとに相手を倒す流儀である。型や構えに工夫をこらす近年の流儀とは違います。構えたら打つ。これが兵法の基本である。」と、少々手厳
しい答え。つまり、小野忠明の心得をまとめると、こういう事じゃないかな

敵と立ち会ったらば、第一に打ち果たす事を考えなさい
どんな武器にせよ、どんな構えにせよ、それは勝つための武器であり構えでなければならない
同じ戦いは二度とない、だからこうすれば勝つという型が存在するはずもない
斬れば勝ち、斬られれば負け、それが勝負というもの
いくら構えや、太刀打ちの型を何百知っていようと
斬られてしまえば、なんの役にも立たない
そんな事よりも、大切なものがある

けれど、型や構えを無視してしまっては、流派の資格に欠けることになりますが、その欠けるところに兵
法の進化があると、小野忠明は気づいていたのでしょう。これは、音楽のLIVEの心得として、すごく大切なものだと思います。「剣」「歌」土俵は違えど、同じLIVEには変わりない。心の揺らぎ、音の揺らぎ、それは自分自信そのもの。自分に勝つか、負けるか、それあっての聞き手の方々。自分の体調の悪さ、プライベートの悩み、PAの音の悪さ、そんなものは楽屋に置いていくものであり、ステージには必要ない。
明日の自分だったら、昨日の自分だったら、きっとうまく歌えるはずなのに..。けれど、そこには「明日や昨日なんてなく、ましてや今日もない。あるのは今という一瞬だけ。それがLIVEというもの」
そういうことを、小野忠明は伝えたかったのです。


小野忠明次郎右衛門

付け加えると、剣の腕前は相当なもの。最後に、こんなエピソードがあるそうです。


師の伊藤一刀斎からの推薦で、将軍家剣術指南役に抜擢された、小野忠明こと神子上典膳。初めて、時の
将軍家康公に会った際に、御前の前で武芸を披露しました。けれど、その時家康公は特に召し抱えることはなかったという。小野忠明は、失意のまま江戸にしばらく滞在していました。そして、ある日。小野忠明が滞在していた宿の近くで、剣を振りまわし、悪事を働いているものがいるという話しを耳にしました。小野忠明は、すぐに事件の場所に駆けつけましたが..。あいにく、この日の忠明は体調が悪く朝から寝込んでいたのです。いつもの剣の冴えは無く、その悪党に押すに押されました。「もはや、これまでかっ」などと思ったのでしょうか?忠明は、態勢を崩し小さな溝に足を取られました。しかしその瞬間、偶然にも握っていた剣が、相手の腹を貫き助かったのです。すると、その話を聞きつけた家康公から、「是非と
も、将軍家剣術指南役に」との命がきました。不思議がる、小野忠明と家康の家臣達。どうして、あの時に、召し抱えなかったのか?と尋ねると、家康公は次のような返答をしています。


最初に、典膳殿の武芸を見た時
あまりに人間離れしていて、天狗が妖術でも使っているのかと思った
今回の事件で危なかったと聞き、初めて人間の技であるとわかった

小野忠明の凄すぎるエピソードでした

今回は覚えている限りの小野忠明のエピソードを紹介しました
間違ってたら、すいません(笑)

では、