あるときはエンジニア、またあるときはゲージュツ家、そしてまたあるときはバス運転士、その実体は心理学者(臨床心理・人間科学)でもあるバス次郎のブログへようこそ!!
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こんにちは( ◠‿◠ )
久しぶりの ”雑” テーマ記事です💦
今日は以前にもどこかの記事で書いたような記憶があるのですが、父の死と共に父から言い渡された遺言の一部のことについてちょっとだけお話ししたいと思います。
3年前のある日のこと。父が亡くなる3ヶ月前くらいに父から言われたこと。
「お寺のことと墓守を頼むな」と言われたこと。
このときに書類を渡され目を通したものの規約やら管理料の領収書やらがあっただけ。このときはまだ墓守の重大さんなんてまったく考えてもいませんでした💦
墓守って一体何をすれば良いものなのか?
自分のことだけでなく親戚のことも考えなければいけないし・・・。大変面倒。
日常的に墓守がやることはお墓のお掃除や檀家として寺への寄進やお布施、法要の準備や執行、その他諸々一族のお墓に関する一切のことなどを一族を代表して取り仕切るのが墓守の仕事なんだけど・・・。
やっぱりよくわからない!!
ネットで調べましたよ。
誰が墓守する?
墓守の何たるかは大体理解しました。では誰が墓守するの?
やっぱり長男であるバス次郎なのか?
民放897条の祭祀財産の相続では以下のように規定されています。
系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する。ただし、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する
この条文を読む限り祖先の祭祀を主宰すべき者が継承する、つまり長男のバス次郎ということになります。そして但し書きの条文では被相続人である父の指定を受けた者とはバス次郎のことであり、これを読む限りではどっちみち墓守はバス次郎がやらなければならないということになるんだよね。法律的にはね・・・。
ご先祖の歴史を知ることが墓守の最初の仕事
バス次郎が知っている限りでは現在のお寺は和歌山県和歌山市と東京都港区にそれぞれお墓があります。
それらのお寺やお墓をこれから先どうするのかということがバス次郎の悩みというより父やご先祖の悩みでもあったのです。
その問題を代々引き継がれてきました。結局、150年以上ずーっと誰も手をつけてこなかったのでバス次郎の代で決着をつけたいと思うのですが、事はそんなに簡単なことではありません。何しろ150年以上誰も出来なかった訳ですから・・・。
そのあたりの歴史的な背景を含めて我一族のことを少しだけお話しします。
バス次郎一族の元々の出自は三河国(現在の愛知県豊川市)だそうです。
この最初の方?は江戸時代は東照宮(家康のこと)に仕えていたそうです。その後武蔵国に移り住み慶長◯年にお亡くなりになります。そして、その子は三河国で生まれ東照宮長慶院を歴任し大番を務め紀伊大納言徳川頼宣(紀州徳川の祖)に仕えたのがバス次郎一族の紀州の出のはじまりのようです。
もしかしたらと言うよりか、現在の愛知県豊川市や埼玉県所沢市にもお墓があるはずですがまだ確認が出来ていません。
天正18年8月、豊臣秀吉の命令により、徳川家康が関東のあるじとして江戸城に入城しました。
江戸城に入った家康は、関東周辺の支配を固めるため、三河国から連れてきた家臣たちを江戸近辺の要所に配置しました。
主要な街道や河川沿いには上級家臣である大名が、また、江戸の近郊には旗本などの中下級家臣が領地を与えられ、居住するようになります。
このような話しは父からも聞いていたので間違いないと思います。
そして本家となるのが紀州であり紀州にお寺があるのは頷けます。なぜ江戸にもお寺があるかと言うと、紀州藩の最後の当主である14代当主 徳川茂承の時代に戊辰戦争がありその際に藩兵を新政府軍に差し出したとする説と父から聞いている一年ごとにある紀州藩江戸屋敷への参勤(廃止になる前頃には3年ごとに参勤だったようです)により幕末を迎え(参勤交代制度が廃止になる)そのまま江戸に住み着いたとする説があります。
事情は異なりますがどちらにしても江戸に住み着いたことには変わりなく江戸に住み着いた頃より今の寺の世話にになっているようです。そのような経緯があって本家と分家が距離も離れた和歌山と東京にあるようです。
バス次郎の想い
父から継いだ墓守。
歴史を知るとご先祖は気の毒だったと思います。
江戸への参勤あるいは戊辰戦争がなければ生まれ育った紀州の地で人生を終えることができたはずです。そして、江戸に住居を構え定住することも無かったと思います。
心情として故郷へ帰りたくても帰れない無念があったのではないかと察します。
父が亡くなる前に言っていた言葉。
「紀州へ一度でいいから行きたかった。
本家のご先祖様へご挨拶しておきたかった」
そんな父の言葉とご先祖の想いを150年以上の時が経ってしまいましたがバス次郎の代でなんとか紀州への帰郷を実現出来ないものか。墓守の役を仰せつかった以上はなんとかこの大役を果たしたいと考えたのでした。
現実は厳しいことばかり
だけど現実には厳しいことがいっぱいあります。
その一つが江戸時代に確立された檀家制度。
檀家制度が150年以上経っている現代においても引きずられていることを実感しています。その問題とは寺との関係が続いている限り寺を維持するために檀家は寺へ寄進や布施をしなければなりませんがその金額も年々高額になってきています。
実際、四十九日法要や百日法要、3回忌などの法要を執り行ってもらうには毎回寺へ数百万円納めます。なので、四十九日法要と百日法要だけは仕方ないにしてもそれ以外はもう寺へは”お気持ち”として御喜捨する程度で済ましているというのがバス次郎の本音と実態です。
そして一番問題なのが檀家を辞めたくても辞められないこと。
バス次郎が実際に東京にある寺の住職に聞いた話しをします。
ここに眠るご先祖をバス次郎の故郷でもある和歌山の寺へ返してあげたいと上述した内容のことを住職へ相談したところ返ってきた言葉に驚きを隠せませんでした。
離壇料 500万円 + 石屋代 100万円
合計で600万円支払えば離壇できますと言われました。
今時こんな話しがありますか?
空いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
呆れて物が言えません。
これが仏門に身をおく住職の言葉ですか!!
腐り切っています!!
結局、檀家でいるにしても離壇するにしても寺が困らないように出来ているだけの話し。すべての宗派の寺の檀家でこのようなことが起きている訳ではないと思いますが、神聖な仏教を汚れた葬式仏教、ビジネスへと変えた檀家制度に大きな疑問を感じるのです。
この点に関してお友達ブロガーのある方に相談させていただきましました。
離壇費用に関しては法的な根拠を伴うものなので弁護士の先生に依頼した方が良さそうとのこと。そして移転元の寺と移転先の寺が同じ宗派であれば比較的スムーズな話し合いで離壇ができるかもしれないとのことでした。
それと寺の特殊性の問題もご指摘頂きました。
さらに、離壇にいついての相談はその宗派の本山で相談出来るとのことでしたので誰に相談してよいか分からなかったバス次郎にとって少し明るい兆しが見えてきました。
ここではあまり詳しく移転元の寺のことは書けませんがちょっと特殊なんですよね。
そんなこともあってかなり厳しい状況であることには変わりないですが、どこに相談すれば良いかが分かったことで安心できました。
また仮に離壇できたとしても和歌山の寺へ移すための手続きや新たなお墓を作るために掛かる費用や移転先のお寺にお支払いする費用などもあり前途多難な状況です。
この他にもいろんな問題があります。
生きている人が引っ越しするよりも亡くなったご先祖を引っ越しさせるほうが難しいのかな?なんて思います。
150年以上もご先祖が解決出来なかったことが、バス次郎の代で何とかしようと思ったことがそんなに甘くないことを思い知ったのであります。
この先どうなることやら・・・。
今日はこの辺で。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。