昨日、福岡市南区平和の平和南緑地保全地区展望台より博多湾の先に玄界灘の孤島の小呂島が見えた。
えっ!?この何処に?
拡大してみると、博多湾に浮かぶ志賀島(右)と能古島(左)の間に確かに!
平和南緑地保全地区展望台より小呂島が見えることに気づいたのは昨年の8月のことだった。
今回は小呂島の歴史について書いてみたい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%91%82%E5%B3%B6
Wikipediaにあるように、福岡市
『小呂島の名が文献上に登場するのは鎌倉時代のことである。島の氏神である七社神社の棟札には、宗像郡東郷村の住人の名がある[5]。建長4年7月12日の『関東御教書』には筑前国志摩郡となっており、宗像大社の社領であった島に関して、中国系博多商人であった謝国明が妻の地頭を名乗って領有権を主張した[6]ことで領地争いになり[7]、宗像社雑掌が鎌倉幕府に社役対捍を訴え、幕府が謝国明に戒告したことを記録している。』
福岡市と宗像大社はかなり離れている筈だ。
ところが、、。
玄界灘の海に出てみると、世界遺産の海の正倉院と呼ばれる沖ノ島と小呂島は同じくらい陸から離れていることが分かる。
沖ノ島、大島、宗像と書かれた3点が世界遺産となった「『神宿る島』宗像•沖ノ島と関連遺産群」である。
小呂島の歴史は鎌倉時代から知られているというので、大和朝廷時代からの沖ノ島とは歴史が完全に異なる。
しかし、宗像大社の威光が小呂島にまで及んでいたということだろう。
「謎多き古代や秋の小呂島」
ハイジャン男