昨日、福岡市南区老司の警弥郷橋の上に出て、パスに乗ろうか?としていたが、直ぐ上流にある老司の堰も見てみようと気が変わってしまった。
水量が多くなると、水を溜めないで流しているようだ。
こちらの堰湖では、マガモの留鳥が何羽か泳いでいた。
この老司の堰がいつ出来たのか?
昨年、初めて訪れた時に知った。
黒田長政が筑前一国の大大名になったのは、関ヶ原の戦い(1600年)以後のこと。
長政は、この地に足を運んだに違いない。
老司の堰を作って、敵が攻めてきたならば、那珂川の水を流して、下流を水攻めにしようと考えたらしい。
そのターゲットは?
小倉に不仲となった細川忠興がいる。
昨日の記事でも、細川忠興と黒田長政が不仲になったことは述べた。
鮭が遡上する南限の川、福岡県の遠賀川を挟んで睨み合っていたのだ。
しかし、1632年に細川忠興の子、細川忠利は、熊本一国の大大名となる。
元々、熊本は加藤清正の所領だったのだが、加藤忠広が改易となったためである。
この動画は、老司の堰の下流にある警弥郷橋から下流を眺めたものである。
この狭くなった流れ
老司の堰を切ったら濁流が一挙に下流へ達して博多の街は洪水になるという仕掛け
一度も老司の堰が切られることはなかった。
犬猿が隣り合うことがなくなったからである。
「秋の水平和な街の人のため」
ハイジャン男