只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中ですが、現在は近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

現在は近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。

 

今回は「八王子千人同心屋敷」(宮城県登米市迫町佐沼の「城門」をお届けします。

 

「八王子千人同心」とは、「武蔵国八王子」の幕府領に駐在した「徳川家」の家臣団で、江戸時代には、200〜500石級の「旗本」やその下の家臣でした。主に、甲斐方面からの警備や治安維持によって江戸防衛を担っていた軍団ですが、「江戸幕府」内での組織内で兵農一体の珍しい制度でした。

 

そもそも、「徳川家康」が1590年の関東入国の際に「旧武田軍団」を中心に「大久保長安」が組織化して、1600年に入ると1組100人ずつで10組編成され合計1000人に拡充されました。その頭は「千人頭」と言われ10人(家)が従事しました。

 

「八王子千人同心」は、10人の「千人頭」の集合体で「お城」は持たない組織ですが、江戸を東部から守るという大きな役割を持った組織という観点で見ると、「お城」にも価(あたい)するモノだと思い、今回その「千人頭」の屋敷門が移築された門を紹介します。

 

「千人頭」の1家であった「中村左京屋敷門」が、「観音寺山門」(東京都八王子市万町)に移築現存されていますので紹介します。

 

「観音寺山門」に移築現存されている「千人頭」の「中村左京屋敷門」 ↓

「観音寺山門」に移築現存されている「千人頭」の「中村左京屋敷門」 ↓

「千人頭」の「中村左京屋敷門」前に立つ説明板 ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中ですが、現在は、「近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

冒頭でも記載しましたが、「近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を北から順番に紹介しています。

 

今回は「米沢城」(山形県米沢市の城主だった「上杉家」の「廟所門」をお届けします。

 

まずは「米沢城」の歴史ですが、古くは12世紀末に「長井家」がこの地の地頭となります。その「長井家」は14世紀後半に「伊達家」に滅ぼされ、「伊達家」本拠地のお城となり、「伊達政宗」はこのお城で産まれました。

「秀吉」による奥州仕置きによって、「伊達政宗」は「岩出山城」に移されたので、その後は「蒲生家」の支配地、続いて会津120万石「上杉景勝」の領地となりその家臣「直江兼続」が入城します。

しかし「関ケ原の合戦」の東北版「慶長出羽合戦」によって、西軍だった「上杉景勝」は30万石に大幅減封されて「米沢城」の城主となります。

 

その後、1644年に3代藩主「綱勝」が嗣子も養子も無く急死した為に無嗣断絶の危機になりましたが、なんとか「綱憲」を末期養子として立てて幕閣に認められました。しかしペナルティとして15万石に減封され、以降、幕末・維新まで「上杉家」が15万石で統治します。

その中で9代藩主「上杉治憲(鷹山)」は、質素倹約と殖産興業を推し進めて、藩政を立て直しました。

 

「米沢城」の立地と縄張りは、1608年に「上杉景勝」からお城の改修を命じられた「直江兼続」が、土塁中心の輪郭式で「本丸」「二の丸」がほぼ長方形、その周囲を「三の丸」で囲う近世城郭に大改修しました。

 

 

今日紹介する「上杉家廟所門」が並ぶ「上杉家廟所」は、「米沢城」の西北西約1.3㎞の場所にあります。

 

「上杉家廟所」の敷地南入口に建つ変形「冠木門」は、冠木上に瓦が乗り、更に両脇の柱の頭にも瓦が施されています。その門を潜り杉木立に囲まれた参道を進むと、静寂で凛とした空気が感じられます。

 

敷地入口に建つ変形「冠木門」 ↓

 

真直ぐな参道の突き当りが「廟所」となりますが、真正面に建つ「上杉謙信廟所」を中心に左右に12代藩主「斉定」までの歴代藩主の廟所が整然と立ち並んでいます。

 

参道の突き当りに建つ「謙信廟」 ↓

 

特に参道の突き当りに鎮座している「謙信」の「御霊屋」前の「廟所門」は立派な門が建っています。

 

「謙信」の「御霊屋」前の「廟所門」 ↓

 

他の藩主は「棟門」風の小さな「廟所門」ですが「銅板葺き」屋根、門扉は「透かし戸」という細かい所まで拘った「廟所門」が各「御霊屋」前に建っていて、それがまた整然と並ぶ姿は美しさを増幅させています。

 

「謙信廟」から向かって右側の「廟所」 ↓

「謙信廟」から向かって左側の「廟所」 ↓

その内の一つの「廟所門」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中ですが、現在は近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

現在は近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。

 

今回は「佐沼城(要害)」(宮城県登米市迫町佐沼の「城門」をお届けします。

 

古くは鎌倉時代に「藤原秀衡」の家臣「葛西(かさい)家」の支配下にありましたが、戦国時代に「大崎家」の持ち城となりました。

 

その後「木村家」が城主の際に一揆が生じるなど不安定な時期を経て、江戸時代に「伊達家」の所領となりますが「一国一城の令」後は要害として存続させ「津田家」が入城します。1757年に「津田家」から「亘理(わたり)家」が城主となって幕末・維新まで続きます。

 

以前にも記載しましたが、「要害」とは「仙台藩」において膨大な家臣団を維持する為に、家臣に土地を直接支給する「地方地行制」を採っていて、その拠点の一つとして「要害」と命名されていました。他には規模や機能に応じて「所」「在所」「在郷」に区分されていたようです。

 

「佐沼城(要害)」の縄張りは、下記図を見ると良く判りますが、東側に「佐沼川」が流れ、「居館」が建つ「本丸」やその他の曲輪周囲は沼地で囲われているといった守りの堅固なお城だったようです。

 

「佐沼城」復元絵図(現地に掲出の絵図) ↓

 

 

 

現在は、この絵図の東側になりますが、「旧亘理家」と呼ばれている邸宅があります。

 

「佐沼亘理家」9代目当主「亘理隆胤(たかたね)」が「佐沼要害」から移り住んで、「古鹿山房(ころくさんぼう)」と称して広く文筆活動をおこなった建物です。

 

「旧亘理家」の「主屋」 ↓

 

その「旧亘理家」の明治前期に建築された「棟門」型式の「表門」が建っています。「切妻造り」の「鉄板葺き」の屋根に両脇に「板葺き」の「袖塀」が付きます。また欄間には、「伊達家」の2種の家紋「九曜」「三引両」の彫刻が並べて掲げられています。

 

「棟門」型式の「表門」 ↓

「棟門」型式の「表門」(「袖塀」の屋根は「板葺き」)↓

欄間には「伊達家」の2種の家紋「九曜」「三引両」が並ぶ ↓

「棟門」の「欄間」と「天井」 ↓ 

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

 

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中ですが、昨日も記載しましたように、ここで「近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介しています。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

冒頭でも記載しましたが、「近畿の城門」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を北から順番に紹介しています。

 

今回は「佐竹南家湯沢館」(秋田県の「城門」をお届けします。

 

鎌倉時代に「小野寺氏」が「湯沢城」を築いたと謂われこの地は「小野寺氏」が統治していました。

 

しかし「豊臣秀吉」による「奥州仕置」によって「最上義光」が代官として領有権を主張したことで「小野寺氏」と争いとなりその結果「湯沢城」は落城します。

 

1602年に、出羽国へ転封となった「佐竹氏」が「最上氏」と領土交換をすることで「佐竹南家」の領地となりました。

初代領主「佐竹義種」が「湯沢城」やj城下の整備を行うも「一国一城の令」で廃城となり、その後は麓に「館」を設けて居城しました。


「湯沢城」の立地と縄張りは、「古館山(ふるだてやま)」と呼ばれる標高約200mの丘陵地帯に築かれた中世の山城です。「本丸」「二の丸」「五社壇(ごしゃだん)」「馬場」「見張台」などが置かれました。前述のように、1620年に「一国一城の令」に従い、麓に「湯沢館」を設けました。

 

「湯沢館」は、現在の「湯沢市役所」の敷地となっています。

 

現在、「城址公園」内にポツンと「四脚門」型式の「城門」が建っていますが、「佐竹南家の門」とのことで多分「佐竹南家の別邸」の「門」ではないかと思います。

 

説明書きによると、1980年の「湯沢都市計画道路御屋敷線工事」の為に、「湯沢南家」所縁の地に「城址公園表門」としての移転したと、記載がありました。

 

「別邸」或いは「下屋敷」であっても、城主の寛ぐ場所として生活をしていたとのことで、「城門」として採り上げました。

 

公園の表門として移築された「四脚門」型式の「佐竹南家の門」 ↓

公園の表門として移築された「四脚門」型式の「佐竹南家の門」 ↓

公園の表門として移築された「四脚門」型式の「佐竹南家の門」 ↓

この先の山が「湯沢城」(ここからが登城口) ↓

現在の「佐竹南家湯沢館」跡は「湯沢市役所」敷地 ↓

武家町名残の「内町」「荒町」の武家屋敷通り  ↓

武家町名残の「内町」「荒町」の武家屋敷通り  ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中で、「三重県」まで進んできました。

 

ここで「近畿」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を紹介していきたいと思います。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

冒頭でも記載しましたが、「近畿」に進むのを一旦ストップして、今までお届けし忘れていた「城門」を北から順番に紹介していきたいと思います。
 

本日は「角館(かくのだて)城」(秋田県仙北市の「城門」をお届けします。

 

「角館城」は、戦国時代に「戸沢氏」が移り住んだお城です。

 

「関ヶ原の合戦」後の1602年に北浦郡を去った「戸沢氏」に代わり入部した「蘆名義広(盛重)」が「角館城主」(城趾は古城山(ふるしろやま))となり、現在の「角館」の元となる町割を行いました。

 

1615年の「一国一城の令」に伴い1620年に山上のお城は廃城となりました。のちに城主は麓の屋敷に居住し、防衛のための町割りを行いました。

 

1656年に「蘆名氏」が断絶すると「佐竹北家」の「佐竹義隣」が「角館」へ入部し、以後幕末・維新まで続きました。

 

「角館城」遠景(麓の「侍屋敷町」から望む) ↓

侍屋敷町通り ↓

侍屋敷町通り ↓

 

 

現在、「角館城」南側一帯は「蘆名氏」や「佐竹氏」家臣たちによって造られた「侍屋敷」が建ち並び「小京都」と呼ばれています。

 

そして「角館城」の残されている「城門」は、「天寧寺(てんねいじ)山門」に移築されている「薬医門」型式の「城門」です。

 

「天寧寺(てんねいじ)山門」に移築されている「薬医門」型式の「城門」 ↓

「天寧寺(てんねいじ)山門」に移築されている「薬医門」型式の「城門」 ↓

「天寧寺(てんねいじ)山門」に移築されている「薬医門」型式の「城門」 ↓

 

当寺は、武家屋敷の町割りを最初に手掛けた「蘆名家」の菩提寺で、お寺の裏手には三代で断絶してしまった芦名氏の墓所があり、墓碑が立っています。

 

「蘆名家」墓所 ↓

 

「武家屋敷通り」には、「上級武士」「中級武士」「下級武士」の建物が残っていて、それぞれの生活状況が見れると共に、ひとつの城郭を成しているようです。

 

ここで一部の「武家屋敷門」だけを紹介しておきます。

 

上級武士だった「石黒家」の「屋敷門」 ↓

上級武士だった「青柳家」の「屋敷門」 ↓

中級武士だった「岩橋家」の「屋敷門」 ↓

中級武士だった「河原田家」の「屋敷門」(明治期に造り直し) ↓

下級武士だった「松本家」の「屋敷門」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

 

今回は「宇陀(うだ)松山城(陣屋)」(三重県宇陀市の「城門」をお届けします。

 

南北朝時代に国人の「秋山家」が築城したのに始まりますが、1585年に「豊臣秀長」が「大和郡山城」に入ったことから、豊臣系の家臣(伊藤氏→加藤氏→羽田氏→多賀氏)が城主となります。

 

「関ケ原の合戦」後は、改易になった「福島高晴」の後に「織田信長」の息子「信雄(のぶかつ)」が、この大和国と関東の上野(こうづけ)国併せて5万石で入ります。

 

「信雄」は、「上野国」の所領を四男「信良」に与え、残った大和国2万8千石を自分の隠居領として統治しました。その後この地を5男が次ぎますがその2代後にお家騒動が起こり、準国主格であった家格がはく奪されしかも減封となり、兵庫県の「柏原(かいばら)陣屋」に移封となります。

 

当城に対して破城命令があり「小堀政一(遠州)」が実行しましたが、その際に克明な破城の様子を伝える文書(資料)を残しています。

 

「宇陀松山城」の立地と縄張りは、最高所である標高473mに「本丸」と「天守郭」が置かれ、周囲は急斜面になっています。南面下には細長い「帯郭」が西側から東側にかけて横たわり、その中間的な所には「南虎口」が置かれています。

 

そしてその先には、「大御殿」「二の丸」が配備されていて、「二の丸」との出入り口には「大門」が監視の目を光らせています。それらを取り囲むように、北東と北西に二箇所の「御加番郭」「虎口郭」、そして南西には「御定番郭」が配備されていました。

 

「宇陀松山城」の縄張り図(現地に掲出図) ↓


お城の破城命令で「幕府領」に替わっていく中で「在郷町(ざいごうまち)」として繁栄しましたので、現在は「商業地」として江戸時代の雰囲気を色濃く残している「重要伝統的建造物群保存地区」になっています。

 

現在、山麓の城下に建つ門と城外に移築された門があります。

 

現在城下に残る「城門」は、「福島高晴」が居城した時に建築されたとされる「高麗門」型式の「西口関門」です。

 

壁以外が全て黒く塗られていたので「黒門」とも呼ばれ、門扉は上下格子状になった古い形式です。両脇に「袖壁」が建ちます。建造物群保存地区の入口として相応しい立派な「城門」です。

 

「高麗門」型式の「西口関門」「西口関門」 ↓

「高麗門」型式の「西口関門」と桝形(現存) ↓

「高麗門」型式の「西口関門」「西口関門」 ↓

「高麗門」型式の「西口関門」「西口関門」 ↓

「高麗門」型式の「西口関門」(門扉は格子状)  

 

もう一つ城外に移築された「城門」は、お城のあった場所から遠く離れた大阪市内の「法楽寺山門」(大阪市住吉区田辺)で「薬医門」型式の「城門(陣屋門)」です。

 

「織田家」時代の「門」で、非常に立派で両脇に「脇戸」が付く「袖塀」を伴っています。因みに「本堂」も「陣屋殿舎」が移築されています。

 

「法楽寺山門」に移築された「薬医門」型式の「陣屋門」 ↓

「法楽寺山門」に移築された「薬医門」型式の「陣屋門」 ↓ ↓

「法楽寺山門」に移築された「薬医門」型式の「陣屋門」 ↓ ↓

「法楽寺山門」に移築された「宇陀松山陣屋」の「殿舎」 ↓

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

 

「藤堂家」のお城や陣屋が続きます。今回は「伊賀上野城」(三重県伊賀市)の「城門」をお届けします。

 

1585年に、「豊臣秀長」の臣下であった「筒井定次」が「天正伊賀の乱」で焼け落ちていた守護所に築城しました。

  

1608年に失策が多い「筒居定次」を改易して「藤堂高虎」が入城、「徳川家康」から「伊賀国」と「伊勢津」に22万石が与えられます。そして当時「大坂城」に居住していた「豊臣秀頼」などの西方に対する備えもあって、1611年に「伊賀上野城」の拡張工事を開始します。

 

しかし1612年の台風によって、建設中の五重「天守」が倒壊してしまいます。更に、1615年の「大坂夏の陣」によって「豊臣家」が滅亡し、敢えて「天守」を再建をする必要性もなくなり「天守台」だけが残されました。

 

「藤堂高虎」は、転封に伴い「伊賀上野城」に「今治城」で建てた「層塔型無破風の天守」を移築する予定でしたが、「家康」から「丹波亀山城」を築城する命を受けたので「今治城天守」をそこへ移築したそうです。

 

縄張り

高石垣になった「本丸」と「御城」を北の端に置いてその周囲を「内堀」で囲みます。「内堀」内の西側は「本丸」、東側は「御城」と呼ばれた「城代屋敷」になっていました。そこは、元々「筒井家」が築いた「筒井古城」の跡地でした。

 

そして東側から南側、西側にかけて「二の丸」が囲い、更にその周囲(東から南、西にかけて)を大きく取囲む、「梯郭式縄張り」になっています。

 

縄張り図 ↓

縄張りと城内建造物解説(天守内に掲出、赤丸は下記の門の位置、緑丸は下記記載の当時の門位置) ↓

 

 

「城門」は城内に残る門は僅かで、まず伊賀と言えば忍者ですが、その忍者屋敷とお城の間に移築されている門が「棟門」型式の「御殿内の門」と謂われています。

 

非常にちっぽけな門ですが、屋根は「丸瓦」を使用し、「冠木」には大きな「藤堂家家紋」の「蔦(つた)」が付いていて「御殿」内の「門」だったようです。

 

ただ「蔦紋」は江戸時代には大流行した家紋で、大名から旗本迄160以上の家が使用し、更には町人までその人気が及んだとの事です。この「門」は本当に当城の「御殿」内の「城門」だったのでしょうか・・・。

 

城内移築された「棟門」型式の「御殿内の門」とか ↓

城内移築された「棟門」型式の「御殿内の門」とか ↓

冠木には大きな「藤堂家」の「蔦紋」が付きます ↓

 

次に、「大手門」をイメージして凄い高さのある「白鳳門」と呼ばれる「高麗門」風の模擬「城門」がお城に向かう道に建っています。この道の突き当りに「本丸」に入る「表門」があった所ですが、現在そこが「大手門跡」と呼ばれ「上野城碑」碑が立ちます。

 

「白鳳門」と呼ばれる「高麗門」風の模擬「城門」 ↓

「白鳳門」と呼ばれる「高麗門」風の模擬「城門」(この突き当りに「大手門跡」と呼ばれる「上野城碑」碑が立つ) ↓

「白鳳門」と呼ばれる「高麗門」風の模擬「城門」 ↓

「大手門跡」と呼ばれ「上野城碑」碑が立つ(実際は「本丸表門」跡) ↓

 

しかし実際には、「伊賀上野城」の大手は東西二カ所あって、各々「多聞櫓」を伴う「桝形構造」になった非常に立派な「大手門」が建っていました。その古写真や構造図は現在でも城内で掲出されて見ることができます。

 

古写真「西大手門」(天守内に掲出) ↓

「西大手門図」(天守内に掲出) ↓

「西大手門図」(天守内に掲出) ↓

古写真「東大手門」(天守内に掲出) ↓

 

最後に、「西大手門」近くに建っていた藩校「崇広堂(すうこうどう)」がありました。

 

この藩校は、1821年に、伊勢津藩10代藩主「藤堂高兌」の時代に、伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育する為に、伊勢津藩の藩校「有造館」の支校として建てられました。

 

現在は、72畳の広さがある「講堂」の他に、小玄関、有恒寮(ゆうこうりょう)、台所棟が建ちますが、その出入口である「表門」「御成門」が建っています。

 

特に「長屋門」型式の「表門」は現存で、門部分と門扉や瓦屋根付きの「出格子窓」が朱塗りにされているので「赤門」と呼ばれていて、白壁との対照で美しいです。

 

藩校「崇広堂」の「長屋門」型式の現存「表門」(「赤門」と呼ばれている) ↓

藩校「崇広堂」の「長屋門」型式の現存「表門」(「赤門」と呼ばれている) ↓

藩校「崇広堂」の「長屋門」型式の現存「表門」(「赤門」と呼ばれている) ↓

 

その門沿いの土塀には、藩主等が御成りの際に使われる現存「御成門」が建ちます。外からしか見れなかったので門形式は確かな所は判りませんが、「棟門」のように見えます。

 

藩校「崇広堂」の現存「御成門」と「表門」 ↓

藩校「崇広堂」の現存「御成門」 ↓

 

 

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

 

今回は「名張陣屋」(三重県名張市)の「城門」をお届けします。

 

「名張藤堂家」の陣屋は、「丹羽長秀」の三男で「藤堂高虎」の養子になった「藤堂高吉」が、1636年に2万石を得て名張に陣屋を築きました。「徳川家康」の命で「高虎」の後も「今治」に残っていたのを呼び寄せた感じの入城でした。

 

「名張藤堂家」は、「藤堂家」の支配下でありましたが、後に5千石を分与したので1万5千石で幕末・維新を迎えます。

 

「陣屋」でしたので「御殿」住まいでしたが、1710年の大火で焼失して再建した建物が明治時代になり取り壊しされました。その中で「中奥」「祝之間」「茶室」の「中奥き」に当たる部分で、明治時代以降も「名張藤堂家」の日常生活に使用されていた為に現存しています。

 

現在は、その残った「御殿」の一部の入口として「棟門」型式の模擬「仮門」が建っていますが、本来そこに築かれていた「長屋門」型式の「正門」は、近くの「寿栄(ひさか)神社」の「神門」に移築されています。

 

「陣屋御殿」の入口として建つ「棟門」型式の「仮門」(本来の門は「寿栄神社」に移築) ↓

「名張陣屋」の現存「奥向き」の一部(中央が「祝之間」) ↓

 

「長屋門」型式の「正門」が、「寿栄(ひさか)神社」の「神門」へ移築されたのは1935年でした

 

向かって左手は下部に格子窓を設けて外部を監視できるようになっていると同時に、その上にも格子窓を設けています。内部には「連絡用」の太鼓を置いた部屋があったので、この「正門」は「太鼓門」とも呼ばれていました。

 

また、右手の上にも窓があります。

 

左側は上下に「格子窓」があり、上が「太鼓音」が聞こえるようにしている ↓

左側にも高い位置に窓がある ↓

裏側はこのようになっています ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

 

今回は「田丸城」(三重県度会郡玉城町)の「城門」をお届けします。

 

南北朝時代に南朝の拠点として「北畠親房」が築城しますが、その後「織田信長」の伊勢支配の一環として、「北畠家」に「信長」の息子「信雄」を養子として入れさせます。

 

そして「田丸城」は大改修されて「稲葉重通」が城主となり、「関ケ原の合戦」では東軍で手柄を立てて加増されことから、更に大改修が行われて現在の姿になっています。

 

しかし1619年に、「紀州徳川家」の所領となり「徳川頼宣」の付家老「久野宗成」の領地となります。その後、「久野家」は「和歌山城」下に居住した為、幕末・維新までは「城代」を置いていました。

 

 

田丸城」の立地と縄張りは、丘陵上に建つ「平山城」ですが、周囲には「内堀」「外堀」を構えています。

 

丘陵部分の北側から南方向にかけて「北の丸」-「本丸」-「二の丸」が「連郭式」で繋がり、丘陵から下がった所に「三の丸」を構え、「内堀」と「外堀」の間には「代官屋敷」が置かれたようです。

 

縄張りがわかる城地図(北は右側、現地に掲出地図)  ↓

 

城内には、再移築現存で「長屋門」型式の「富士見門」がポツンと建っています。

 
当門は、「富士見台」へ向かう途中に構えられた「長屋門」ですが、城外へ移築の際に移築先で納屋として使用された為に、両脇の「侍溜」を分離されたようです。1984年に城外移築されていた当門を現在の場所に再移築されました。
 
屋根は、片方は「入母屋造り」、もう片方は「切妻造り」で、「侍溜」を分離の際に改変されたのでしょう。
 
移築先で両脇の「侍溜」が分離された「長屋門」型式の「富士見門」 ↓
移築先で両脇の「侍溜」が分離された「長屋門」型式の「富士見門」 ↓
移築先で両脇の「侍溜」が分離された「長屋門」型式の「富士見門」 ↓


城外では、前日に「松坂城」でも触れましたが、「松坂城城門」が移築された「転輪寺南門」に対して「薬医門」型式の「田丸城城門」は「転輪寺表門」に移築されています。

 

屋根は「丸瓦」を使用して、門の両脇には「袖壁」が付随し片方には脇戸が付きます。

 

「薬医門」型式の「田丸城城門」は「転輪寺表門」に移築(袖壁片方に脇戸) ↓

「薬医門」型式の「田丸城城門」は「転輪寺表門」に移築 ↓

「薬医門」型式の「田丸城城門」は「転輪寺表門」に移築 ↓

 

「田丸城」は「野面積み石垣」の迫力が凄い見所ですので、写真を添付しておきます。

 

手前から「北の丸」「本丸」「天守台」の石垣が重なって見える ↓

「本丸虎口」跡 (斜め南方向、本丸の石垣が見える)  ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。

「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

 

今回は「松阪城」(三重県松阪市)の「城門」をお届けします。

 

「蒲生氏郷」が、当初「松ヶ島城」に入りますが、その後「松坂城」を築城し1588年に完成させます。

 

「豊臣秀吉」は、「小田原征伐」後の「奥羽仕置」を行うにあたり「氏郷」を陸奥会津42万石で入封させます。その後「服部一忠」が入るも「豊臣秀次」事件に連座させられ、後に入城した「吉田重勝」が現在のような城郭に仕上げました。

 

「大坂夏の陣」の後は「紀州藩」の直轄地になりますが、建造物は整備されず荒れるままになっていたようです。

 

 

松坂城」の立地と縄張りは、北は「阪内川」で防御を固めた丘陵地に立地して、北側の最上部の丘上には上・下段に分けた「本丸」を置き、「本丸上段」には「天守台」を置きました。

 

「本丸」を中心に東側に「ニノ丸」、西側に「きたい丸「、南側に「隠居丸」を配置し、丘の周囲を「三ノ丸」としています。「本丸」を中心とした渦巻き状の曲輪配置で「渦郭式縄張り」となっています。

 

城内図(「松坂城跡」碑脇に掲出、右上が「表門」) ↓

 

現在城内に残る「城門」はありませんが、曲輪「隠居丸」跡に江戸時代の国学者(文献学・言語学)だった「本居宣長(のりなが)」の移築邸宅があり「棟門」型式のような門が建っています。のようです。

 

移築「本居宣長邸宅」の「門」 

移築「本居宣長邸宅」の「門」 

 

城外を見ると、移築して再利用されている「城門」があります。

 

まず、「薬医門」型式の「城門」が「転輪寺裏門(南門)」(三重県多気郡明和町)に移築されています。因みに「転輪寺表門」は「田丸城」から移築されていますので、また「田丸城」のところで紹介します。

 

「松坂城城門」(明和町の「転輪寺裏門」に移築) ↓

 

「松坂城城門」(明和町の「転輪寺裏門」に移築) ↓

「松坂城城門」(明和町の「転輪寺裏門」に移築) ↓

 

城外にはもう一つ「城門」があって、「来迎寺裏門」(三重県松阪市)に移築されています。立派な「鯱」が上がっています。こちらへ訪問したのが大昔でして写真はアナログ、しかも写りも悪いので紹介するのが憚れると思いながら掲載しておきます。

 

写りが悪いですが「来迎寺裏門」(三重県松阪市)に移築の「城門」 ↓

写りが悪いですが「来迎寺裏門」(三重県松阪市)に移築の「城門」 ↓

 

それと、冒頭お城の歴史を記載した所で「蒲生氏郷」が当初入城していたという「松ヶ島城」の「裏門」が「龍泉寺山門」(三重県松阪市)に移築されていて、その写真も写りが悪いですが掲載しておきます。

 

「龍泉寺山門」に移築の伝「松ヶ島城裏門」 ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

イベントバナー

 

広告

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

Amazon(アマゾン)

 

 

お城のすべて

Amazon(アマゾン)

 

 

全国 御城印 大図鑑

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城めぐりの旅

Amazon(アマゾン)

 

 

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

Amazon(アマゾン)