只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
中小藩主に分不相応な大城郭が築かれ”島原の乱”の遠因となった「島原城」
(長崎県島原市)
●城主と歴史
この「島原城」は、1637年に「天草四郎」などが籠城して「島原の乱」の中心城となった「原城」とよく間違えられます。
しかし、その発端となったのが、当時「島原城主」だった「松倉重政」と嫡男「勝家」が、農民に対する圧政によって大規模一揆を引き起こしそれがきっかけで波及したことです。
天草四郎像(北村西望作)と巽三重櫓 ↓
圧政の原因は、4万石(後には6万5千石)の中小規模の城主にも拘わらず、分不相応の非常に立派なお城「島原城」を築城したことから財政難が生じ、それを補うべく税負担を重くしたこと、加えてキリシタンの弾圧を強めたからだったようです。
「島原の乱」の責任を負って「松倉勝家」が斬首となり「松倉家」は取り潰されました。その後は譜代大名の「高力家」「松平(深溝-ふこうず)家」「戸田家」の後に再度「松平(深溝)家」が入城した後は、幕末・維新まで統治が続きます。
後半の「松平(深溝)家」の「松平忠恕(ただひろ)」の時ですが、1792年に「普賢岳眉山(ふげんだけまゆやま)」による噴火と大崩落によって「島原城」や城下が埋没する壊滅的大被害を受けた「島原大変肥後迷惑」が起こります。
この時の火山性地震や山の崩落による海への土砂流入が、対岸の「肥後」まで津波が波及して大惨事をもたらしたそうです。
手前眉山(まゆやま)、奥は普賢岳(本丸と二の丸間の堀から) ↓
市内に立つ 島原大変(1792年)の200年供養碑 ↓
●お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
南北に長い長方形で、堀の外側南端には枡形を備えた「大手門」を構え、南側から「本丸」「二の丸」「三の丸」が繋がる「連郭式」の縄張りでした。
そして「本丸」と「二の丸」は各々共に、水堀で囲われていました。特に、「本丸」は「二の丸」から「廊下門」でのみ繋がっていて、いざという時には、「廊下門」を切り落として籠城できるようになっていました。
城絵図(城内に掲出、右が南側、左が北側) ↓
築城時は前述のように4万石にも拘わらず、五重の層塔型「天守」を始め、往時には5基の「三重櫓」、10基の「二重櫓」、38基の「平櫓」、数基の「多聞櫓」、更には10基の「櫓門」など、大城郭に匹敵する城郭建造物群で覆われたお城でした。
「松倉家」による築城開始が1618年で、「一国一城の令」が発布された後の築城であったことから、周囲の「加藤家」や「島津家」等の外様大名に睨みを利かす目的や攻撃をしかけられた時用の堅固さを求められていたからだと思われます。
<本丸>
「本丸」には、「天守」を中心に「丑寅三重櫓」「巽三重櫓」「西三重櫓」が置かれ、周囲を「腰曲輪」が取巻いています。特に、南東隅は「横矢を掛ける」折り重なった石垣によって「水堀」を越えて攻め入る者たちを攻撃できる態勢となっています。
現在は、上記「天守」を含め3基の「三重櫓」や「城壁」が外観復興されていて、櫓内の中は資料館として使用されています。
「本丸」跡の総石垣は良く残り、「土塀」は復興ですが、その下の石垣は「屏風折れ」と言われる「横矢掛り」となっていて高石垣が美しい姿を見せてくれています。
屏風折れの石垣(横矢掛り、南東隅) ↓
本丸跡の石垣と復興土塀(横矢掛り) ↓
本丸跡の石垣と土塀(中は複雑な郭がある) ↓
本丸と二の丸間の堀跡(深い堀であった、左が本丸跡、右が二の丸跡) ↓
<天守>
「天守」は、破風を全く持たずに階を上がるにつれて逓減的に縮小していく「層塔型」、天守廻りに櫓を付けない「単独型」で、壁は「下見板張り」造り、最上階は「廻縁」を室内に取り込んだように、各々を「絵図」で描かれています。
また、その「絵図」では、天守は四重で描かれていますが、小さな腰屋根があったけれども幕府に対するカムフラージュの意味もあり、実際は五重だと考えられています。
しかし現在の「天守」はその絵図や色々な当時の記録等に基づいて復興されていますが、外観を5重にして、外壁は「下見板張り」にはせずに、1階の下部は「海鼠壁」を貼り付け、最上階は「廻縁」の「高欄」を採用して展望用となっていますので、非常に美しく均衡がとれた形になっています。
外観復興天守(西南より、五重七階) ↓
外観復興天守(北側から、五重七階) ↓
下から見上げる天守軒下 ↓
復興天守1階の海鼠壁 ↓
南東からのぞむ復興天守 ↓
<三重櫓>
「本丸」跡には「三重櫓」が三基も備わっていることについて前述しましたので、まずその「三重櫓」を順番に見ていきます。
「本丸」跡の南東隅にあるのが「巽三重櫓」で、無破風で白漆喰総塗籠めの層塔型です。こちらは、1972年という早い時期に復興されています。中は、「西望資料館」(北村西望-せいぼう、彫刻家)に使用されています。
復興天守と復興巽三重櫓(1972年築、破風無しの層塔型) ↓
復興巽三重櫓(中は西望資料館、破風無しの層塔型) ↓
復興巽三重櫓の3階 ↓
続いて「丑寅三重櫓」は、「本丸」跡の北東隅に建てられ、こちらも無破風で白漆喰総塗籠めの層塔型ですが、「続櫓」が北側に付随しています。そしてその「続櫓」の各窓下には「石落とし」が設けられているのが特徴です。1980年に復興されて、中は、「民具資料館」に使用されています。
復興丑寅三重櫓 東面(1980年築、破風無しの層塔型、続櫓) ↓
復興丑寅三重櫓 北東から ↓
復興丑寅三重櫓 本丸側から ↓
「丑寅三重櫓」から「巽三重櫓」にかけて「土塀」で結ばれていて、横矢が掛ります。
復興巽三重櫓と復興丑寅三重櫓を結ぶ土塀 ↓
最後に「西三重櫓」です。この櫓が三基の中で最も古く1960年に築かれました。当櫓も無破風ですが白漆喰総塗籠めの層塔型で、1階の出入口が真中にあり切妻の屋根を伴います。
復興西三重櫓(1960年築) ↓
復興西三重櫓の三階内部 ↓
巽・丑寅各三重櫓を結ぶ腰曲輪 ↓
本丸復興土塀 ↓
<御馬見所>
「復興天守」の東側には、「御馬見所」という名称の建物があります。これは、「三の丸」にあったモノを後年移築したものです。幕末に城主(藩主)が、軍事訓練の視察用として造られもので、城郭建造物としては非常に珍しい建物で登録有形文化財に指定されています。
移築現存の御馬見所(藩主が藩士の訓練状況を視察する際の建物) ↓
移築現存の御馬見所 ↓
<二の丸・三の丸>
「本丸」から「二の丸」へは「廊下橋」を渡る1箇所のみで、その遺構として「廊下橋門」の枡形石垣が残ります。
廊下橋門跡石垣 ↓
二の丸から本丸の間の堀(廊下橋が架かっていた、奥が本丸跡) ↓
「二の丸」も出口が北側一箇所しかなく多くの櫓が隅に築かれていました。現在の「二の丸」跡には、「島原文化会館」等が建っていますが、「三の丸」との出入口だった「門」の枡形が残されています。
二の丸入口(三の丸から)虎口桝形の石垣 ↓
二の丸北側の堀跡 ↓
二の丸東側の堀 ↓
「三の丸」は、城主の「御殿」が置かれていました。現在の「三の丸」跡には「島原第一小学校」と「島原高校」の敷地として使用されています。
二の丸と三の丸(奥)とは土橋で繋がっていた ↓
<外郭>
以上が、「島原城」の中心部分ですが、「外郭」への入口となるのが「お城」の南東に位置する「大手門」で、現在でもその石垣が残っています。
大手門跡石垣 ↓
「三の丸」の中に湧水が湧く所があり城主の別邸としてそこに「常盤御殿」が建てられていました。そして、1821年にはその御殿の中に、藩校「稽古館」から医学分野だけを分離させて「済衆館」を取り込み、病院も併設していたようです。
御用御清水(三の丸の藩主居館へ流していた) ↓
御用御清水裏の清水 ↓
その場所は現在、「常盤御茶屋跡」碑が立ちます。そして「常盤御殿」の一部が、城主だった「松平家(深溝)」の菩提寺にもなっている「本光寺」に移築され、「常盤歴史資料館」として公開されています。
常盤御茶屋跡 ↓
三の丸に建っていた「常盤御殿」(現 本光寺資料館として再利用) ↓
別邸ではありますが、大名がくつろいだと思われる居室も移築されていますので、そのお殿様の姿を思い浮かべることができる貴重な部屋です。
常盤御殿居室内(本光寺資料館) ↓
<武家屋敷地>
「島原城」主郭の西側から北西にかけて、武家屋敷のエリアがありました。西側では武士たちの生活状況が良く解る「武家屋敷」や「生活用水」等を見ることが出来ます。
現在でも、南北に直線の小路が6本真っすぐに走っていて、それぞれに「江戸丁」「下の丁」「城西中の丁」「古丁」「下新丁」「上新丁」という町名で区分けされ、小路の間には全長407mもある「屋敷水路」が流れています。そして、その水路を中心に両脇は「背割り屋敷群」となっています。
まるで「江戸時代」の生活空間にタイムスリップしたような感覚を覚える通りです。
背割の武家屋敷 ↓
武家屋敷水路(下の丁、背割の屋敷群、所々に渡り石がかかる) ↓
武家屋敷水路(下の丁、渡り石) ↓
お城に近い通りの武家屋敷ほど石高が高い武家が居住していたようで、「江戸丁」の通りは、切込石垣塀や切込石垣の上に白壁の土塀を構えた立派な屋敷が見られます。
江戸丁の武家屋敷 ↓
江戸丁の武家屋敷 ↓
「下の丁」には、見学ができる武家屋敷が並んでいます。
1669年に藩主が福知山から移ってきた時に従ったという「篠塚家」は10石前後の武家で、茅葺の屋根の武家屋敷ですが主人部屋がある邸です。
篠塚邸 ↓
また、「山本家」の屋敷も茅葺で主人部屋は小さいながらも「床の間」と「違い棚」が設けられています。更に「松平家」草創以来の古い家柄で中・下級武士の「島田家」の屋敷も公開されています。
山本邸 ↓
島田邸 ↓
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