只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
現存、復興、模擬の建造物が10基も見られ城泊も可能な「平戸城」
(長崎県平戸市)
●お城の歴史と城主
「松浦家」は、室町時代に水軍として成長し、戦国時代には「隆信」と息子「鎮信(しげのぶ)」とともに、壱岐、平戸、松浦半島を支配して、平戸を拠点とした海外貿易で財をなしていました。
「隆信」の後を継いだ「鎮信(しげのぶ)」は、「関ケ原の合戦」では東軍についたことから領土を安堵されました。1613年に完成間近になったお城を火事で一部焼却しました。これは、「鎮信」が「豊臣家」と親交が深かったので、敢えて幕府の嫌疑を反らす為と言われています。暫くは対岸に居館を築いていました。更に、鎖国によって「平戸」は一気に寂びれました。
五代藩主「松浦棟(たかし)」の時に、「鎮信」が破却していたお城を、1707年に幕府の許可を得た上で、「山鹿素行」が起した「山鹿流」軍学の理論に乗っ取って再建されました。この時代にお城の再興は珍しくこれは「徳川家」との姻戚関係があった事と東シナ海警備の必要があったからと言われています。ただ、「天守」は上げられず「二の丸」に建っていた「乾櫓」を天守代用としました。
そして「松浦家」は「平戸城」を拠点に、幕末・維新まで当地の統治を続けました。
●お城の特徴と概要
<立地と縄張り>
「武家諸法度」の規定がある中で、江戸時代中期に築城が認められるのは異例なことでしたが、「松浦家」は「徳川家」との姻戚関係があったことや、東シナ海からの国防の観点から許可されたようです。
「山鹿流」の理論とは、①屈折を多く ②城郭はなるべく小さく丸く ③第一は水、第二に山険にして四方谷深く ④峠は続かず などで、「平戸城」ではほぼそれに忠実に再現したようです。
標高53mの「亀岡山」が「平戸港」に突き出して三方を海で囲われる「梯郭式」の「平山城」であり「海城」でもありました。
最高所にあった「本丸」には、現在「沖見櫓」台跡の上に「模擬天守」が建っていますが、「本丸」は戦時に使用する「詰の丸」として位置づけられていました。
そして「二の丸」には、藩主の「御殿」と天守代用の「乾三重櫓」が上げられていました。現在は、その場所に三重の「乾櫓」が復興されています。
縄張図 ↓
<本丸>
「本丸」や「二の丸」跡には数多くの現存・復興、模擬城郭建造物が建っています。
右より模擬天守、模擬櫓、見奏櫓(対岸城下より) ↓
後から紹介する「狸櫓」「北虎口門」を潜って坂を上っていくと「本丸」の入口に「櫓門」が見えますが、復興門で窓もガラス窓になっていて味気ないです。本来は右側に櫓があり更にはこの門は桝形となっていたので出口の門があったのですがそれらは再建されていません。
復興本丸正門 ↓
「本丸」には、「天守」が建てられなくて「二の丸」跡に建っていた三重三階の「乾櫓」を「天守代用」としました。
従って現在1962年(昭和37年)に建てられた鉄筋コンクリートの三重五階「複合天守」は模擬「天守」であり、「沖見櫓」台跡上に建てられたモノです。
外観は、1重目が「下見板張り」で、2重目と3重目が「白漆喰総塗籠め」で1重目が3階建てになっています。また、南面3階は「切妻破風」の「出窓」を設けていてアンジュレーションをもたしています。
そして最上階には、「廻縁・高欄」を設けて遠望を良くしていて、まさに観光用の「天守」となっています。眺めは頗る良く「平戸湾」や「東シナ海」を一望できます。
模擬天守(北面から、右は付櫓) ↓
模擬天守 ↓
平戸桟橋付近(天守より望む) ↓
まず「本丸」から北東にかけては、二重二階下見板張りの「見奏(けんそう)櫓」や「懐柔(かいじゅう)櫓」が建てられ、これらの櫓はいずれも復興されています。「見奏櫓」は急な崖の上にあります。
復興の見奏櫓 ↓
特に「懐柔櫓」は、2019年に平戸市や日本航空、設計事務所アトリエ、民泊会社などとの共同企業体が改修して、宿泊施設として事業を2021年(令和3年)4月1日から1日限定で城泊が可能となっています。
復興の懐柔櫓 ↓
復興の懐柔櫓(天守より見下ろす) ↓
<二の丸>
また「本丸」の西側で「二の丸」の北西側を守る門と櫓として、平櫓の「狸(たぬき)櫓」と「北虎口門」及び平櫓の「地蔵坂櫓」が築かれていました。
現在では、「狸櫓」とその北側の土塀下の石垣が現存であることと、「北虎口門」は改変されてはいるものの、平戸城内では貴重な現存建造物あります。
「北虎口門」は、その名前の通りに外側へ折れ曲がる門で、門上には庇が付き丸瓦には松浦家の家紋「松浦星(まつらぼし)」(梶葉紋もある)が付いています。それに土塀で繋がっているのが「狸櫓」です。
北虎口門(現存、外側から) ↓
北虎口門(現存、内側から) ↓
北虎口門の門扉(1704年築当時のもの) ↓
「狸櫓」の謂れは、狸がこの櫓に住み着いていて、藩主に命乞いをしたことから命名されたとか。
狸櫓(現存、内側から) ↓
狸櫓内部 ↓
狸櫓外部から ↓
土塀(現存、狸櫓から続く) ↓
「狸櫓」から「本丸」跡に延びる「土塀」ですが、石垣に設けられた「鉄砲狭間」が見所です。白壁は昭和時代に造られた壁ですが、当時は「土塀」にも「狭間」があって石垣と土塀の二重に設けられた上下二重の「狭間」でした。
石垣に見られる「二重狭間」 ↓
また、二重二階下見板張りの「地蔵坂櫓」も復興されていて、「乾櫓」と「北虎口門」との間に中間点にあります。
地蔵坂櫓(復興) ↓
天守代用の三重三階「乾櫓」は、鉄筋コンクリートで復興されていて「続櫓」が付随しています。当時は、「二の丸御殿」を守る櫓として位置づけられていました。現在は、売店などに利用されています。
乾三重櫓(復興) ↓
乾三重櫓(復興) ↓
二の丸御殿跡 ↓
「二の丸」跡を南に降りていくと「二の丸大手櫓門」が構え、更に下ると西側から南側にかけて囲むように設けられた「三の丸」の出入口として「一の大手門」が備わっていました。この二つの門で守りを固めるとともに、「大手櫓」によって「一の大手門」に睨みをきかせていました。
二の丸二の大手門跡 ↓
二の丸二の大手門跡へ至る入口 ↓
お城から平戸城下へは復興された「幸橋(さいわい橋)門」を潜りますが、その前に流れる「鏡川」には、石造りアーチ橋で重要文化財に指定されている「幸橋(さいわいばし)」が架かっています。
幸橋門(復興) ↓
幸橋(石造単アーチ、重文) ↓
<城下>
城下は、鎖国前に海外貿易港として発展した証である「オランダ商館」跡や「オランダ坂のオランダ壁」「六角井戸」が見られます。
また「教会と寺院が見える坂」には、「ザビエル教会」「光明寺」「瑞雲寺」が建ち並び、その光景はしばしば観光パンフレットやポスターにも使用される風景であります。
オランダ商館跡 ↓
オランダ商館跡の船着場 ↓
オランダ坂のオランダ塀 ↓
六角井戸(県史跡) ↓
教会と寺院が見える坂(ザビエル教会、光明寺、瑞雲寺) ↓
ザビエル教会とソテツ ↓
「松浦家」の私邸として1893年(明治26年)に建てられた「鶴ケ峯邸」を活用した「松浦史料博物館」には、「松浦家」伝来の資料や美術品が展示されていますので、なかなか目にすることが出来ない貴重なモノを見ることができます。
松浦史料博物館(旧松浦邸) ↓
松浦史料博物館(旧松浦邸) ↓
「平戸城」は、現存と復興と模擬の建造物が10基もあり、対岸の城下町から眺める姿は、当時の姿を彷彿するものがあります。



































