只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

死角を無くす五角形の水城、藤堂高虎により近世化された「宇和島城(1)」

(愛媛県宇和島市)

●城主と歴史

10世紀中ごろに「藤原純友の乱」で「橘家」が砦を築いたのが最初と言われ、「西園寺家」傘下の土豪や「西園寺家」の居城となりますが、「長宗我部元親」の猛攻を受けます。

 

そして1585年の「秀吉の四国攻め」で「元親」は降伏し、「小早川隆景」の所領となりますが、その後は城主が頻繁に変わり、1595年に、築城名手の「藤堂高虎」が入城して「近世城郭」として城の大改修を行い1601年には「天守」を完成させます。

 

完成と同時に、移封となりますが、その後に入城した「富田家」が所領没収となると幕府直轄地となり「高虎」が部下を代官として派遣します。

 

その後、「仙台城」を本拠として領地経営を進めていた「伊達政宗」は、「大坂の陣」の恩賞で、長男である「秀宗」に「宇和島城」10万石が与えられました。従って、「仙台城」は弟の「忠宗」が次ぐことになりました。以降、「伊達家」のお城として幕末・維新まで続き、途中、1671年には「伊達宗利」が老朽化した城の大改修を完成させています。

 

現在の層塔型と高虎が築いた望楼型 ↓

 

●お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

 北西二辺を海に面した「海城」であり、「不当辺五角形」の形をした縄張りでした。攻撃する敵方が、四角形と思い込んで攻撃をかけると不意に五角形面から虚を突けるように、設計されていました。

 

曲輪図 ↓

城山マップ ↓

 

「三の丸」には、「コの字」型に「内堀」を巡らして「藩主御殿」が置かれ、9基の櫓と6基の門が築かれていました。城外へは「追手門」「搦手門」「黒門」「矢筈(やはず)門」の4門あり、その内「黒門」と「矢筈門」は直接海へ出られるようになっていました。

 

最高所には、「帯曲輪」に囲われた「本丸」と「二の丸」を置き、「本丸」後方は断崖絶壁となっていて、西から南にかけての中腹には「代右衛門丸(だいえもんまる)」「藤兵衛丸(とうべえまる)」を置き、更に低いところに「長門丸」「井戸丸」を配置する「梯郭式」曲輪になっています。

 

「追手門」と「搦手門」は、「コの字型」の「内堀」側の線上に置かれました。

 

今回は、麓の「三の丸」から見ていきたいと思います。

 

<三の丸>

まず「追手門」は大きな櫓門で桝形を形成して、太平洋戦争前まで現存していましたが、空襲で焼失してしまい、現在は櫓台で使用されていた大きな石を「大手門跡碑」として利用されています。

 

追手門跡碑(昭和20年7月の空襲で焼失) ↓

追手門古写真(城内の写真より) ↓

 

「追手門」の南西方向にあった「搦手門」は、櫓と門で桝形を形成していましたが、現在は松の木が生えているだけです。

 

搦手門跡 ↓

 

次に「追手門」の北西方向の海沿いには、「黒門」とその脇には、上部に漆喰を残し殆んど板で覆われた「黒門櫓」が監視をしていました。現在は、市街地の道路になっていてその面影は全くありません。

 

黒門櫓跡付近 ↓

黒門櫓と黒門古写真(城内の写真より) ↓

 

「黒門」から少し山麓沿いに、堀で囲われた「三の丸御殿」が建っていて、ここで政務が行われていました。 跡地には、現在郵便局を始め各種の建物の敷地となっていて、その面影として、「桑折(こおり)家武家屋敷」が移築されている場所の裏側に石垣が残っています。

 

三の丸石垣(三の丸御殿跡付近) ↓

御殿いの井戸(三の丸御殿内にあつた) ↓

宇和島城 桑折(こおり)家武家屋敷(1952年に桑折家より移築) ↓

桑折家長屋門裏側からの登城道(井戸丸経由) ↓

 

<各曲輪-式部丸、代右衛門丸、長門丸、山里丸>

「天守」がある山上へは、二か所から上ることができます。一つは、日本でも最大級の立派な現存「薬医門」である「上り立ち門」(重文)を潜り、正面に「式部丸」の石垣を見ながら登城します。

 

上り立ち門(重文)の正面 ↓

上り立ち門(重文)の裏面 ↓

式部丸石垣 ↓

「式部丸」跡の横矢が掛かる石垣 ↓

「式部丸」跡内の「井戸」 ↓

 

「式部丸」の上に迫り出した石垣を持つ「代右衛門(だいえもん)丸」の曲輪を見上げながら登った所が、「長門丸」の曲輪になります。こちらには、「長矢倉」「西角矢倉」等の多聞櫓が周囲を取り巻いていたようで、礎石や櫓台が見られます。

 

「代右衛門(だいえもん)丸」の石垣 ↓

代右衛門丸の矢倉石垣 ↓ 

長門丸北面石垣 ↓

長門丸の長矢倉跡 ↓

長門丸西角矢倉石垣  ↓

長門丸北角矢倉石垣  ↓

 

「長門丸」から、もう一段高い所に向かう道があり「雷門」を抜けた所に「藤兵衛(とうべえ)丸」があり高石垣で築かれています。

 

現在は1845年に建てられた武器庫「山里倉庫」が現存するとともに、奥には、「穂積陳重(のぶしげ)・ハ束兄弟の生家長屋門」が移築されています。

 ※「穂積陳重(のぶしげ)」とは、日本初の法学博士の一人、東大法学部学学長、中央大学法学部の前身の創立者

 

藤兵衛丸石垣、奥にみえるのは「山里倉庫」 ↓

雷門跡 ↓

藤兵衛丸内の「山里倉庫」(1845年築の建造物、現在「城山郷土館」) ↓

「山里倉庫」(現城山郷土館)内部 ↓

藤兵衛丸跡に建つ「山里倉庫」 ↓

 

その他、「藤右衛門丸」跡敷地内には「穂積家長屋」が移築されています。この家は、民法の父と言われた「穂積陳重(のぶしげ)と、憲法学者となった「穂積八束」が居住していた長屋です。

 

「藤右衛門丸」跡内に移築されている「穂積家長屋」 ↓

 

<井戸丸>

「二の丸」に入る「二の門」手前にはもう一か所の城下から登れる登城道が辿り着き合流します。この道は、「三の丸御殿」が拡がる所から、途中井戸がある「井戸丸」の曲輪を通り、「三の門」を潜って上るルートになります。

 

「井戸丸」には、城内の水源である大きな「井戸」があり、この場所は厳重に保護されていて「井戸丸門」を設け更には「井戸丸矢倉」を設けて監視の目を光らせていました。この井戸の石の縁には「金石文」と言われる「幕末に作り直した記録」が刻まれた跡が残されています。

 

「井戸丸門」を設け更には「井戸丸矢倉」 ↓

井戸 ↓

井戸の石に縁には「金石文」 ↓

 

<二の丸>

「藤兵衛丸」から更に登った所に「二の丸」に入る「二の門」がありますが、その手前から見上げる「本丸」跡の櫓台の石垣に特徴が見られます。

 

御書物矢倉跡(正面)と御弓矢倉跡(左) ↓

 

「本丸御弓矢倉台」の石垣が上下積み方が異なるのが見られ、上が「切込接」下が「野面積み」でそれを見ながら「二の丸」門跡から「二の丸」へ上がって行きます。

 

「本丸御弓矢倉台」の石垣 ↓

二の門跡 ↓

二の門跡から天守をのぞむ ↓

二の丸跡 ↓

 

「二の門」を通り「二の丸」にたどり着き、更に「一の門」である「櫛形門」を抜けるといよいよ「本丸」になります。「櫛形門」は「切込接」の石垣で良く残っています。

 

一の門(櫛形門)跡 ↓

一の門(櫛形門)跡(二の丸跡方向) ↓

 

<本丸>

「櫛形門」の前には「本丸御台所」が建っていてその礎石が残ります。「本丸」周囲には、「御弓矢倉」「南角矢倉」「御鉄砲矢倉」等が取り巻いていたようでその跡が残ります。

 

本丸御台所跡 ↓

本丸南角矢倉跡 ↓

 

「宇和島城(2)」では、重要文化財「天守」を内外からジックリ見て行き、その後「三の丸」等を巡って行きたいと思います。

 

 

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