只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
”指月山”を背後の守りとして梯郭式で海防に注力した縄張りを持つ城郭「萩城(1)」
(山口県萩市)
●お城の歴史と城主
この地は、元々「吉見家」が居城していていました。「毛利家」の始祖「毛利元就」は、安芸国の国人から一代で中国地方全土を制圧して有力戦国大名にのし上がり「吉田郡山城」(広島県安芸高田市)を中心に勢力拡大を図りました。
一方「吉見家」は、戦国時代に「指月山」に出城を築きますが、1554年以降はその「毛利元就」に仕えます。
「毛利元就」の息子達「毛利隆元」「吉川元春」「小早川隆景」の三人は「毛利の三本の矢」で有名ですが、長男「隆元」は、「元就」よりも先に逝去したことでその息子「輝元」が後を継ぎ、叔父の「小早川隆景」のフォローの下で、室町幕府将軍「足利義昭」を支えて「織田信長」と戦いました。
その後「信長」が「本能寺の変」で亡くなり、中国地方を攻めていた「豊臣秀吉」と和睦してからは、豊臣政権下で重要な役割を果たし勢力を延ばして、五大老までに昇りつめます。
しかし「関ケ原の合戦」で西軍の総大将として担ぎ上げられた「毛利輝元」は、戦後、9ケ国あった領地が「長門・周防」二か国に減封となり、幕命によって「毛利家」が日本海側の「萩」に築城することを決められたことで、「吉見家」はこの場所を「毛利家」に譲ります。
「毛利家」にとっては、辺鄙な土地に築城させられ、また築城に際しては城石の件で重臣が処罰を幕府から受けるなど、「毛利家」は非常に幕府に対する恨みを積年重ねていて、新年挨拶には必ず重臣が「倒幕の準備が整いました」と言い、それに対して藩主は「時期尚早である」と応えたというエピソードが伝わります。
「毛利家」は当初、外様の有力大名として警戒されましたが、幕府と表向きは協調を図りました。しかし、江戸中期以降は、藩政改革を積極的に採り入れ、教育にも熱心に取り組み下級藩士の登用も図りました。特に、幕末藩主「毛利敬親(たかちか)」の時には、「長州藩」が「薩摩藩」とともに倒幕勢力となりました。
●お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
「萩城」は、「日本海」と「指月山」を背後の守りとした「梯郭式」の城郭で、「指月山」を囲む型で「本丸」が置かれ、更にそれを「二の丸」が囲い、その南側に「三の丸」を構える構成となっています。指月山の山頂にも、「本丸」と「二の丸」が配備されています。
「詰丸」部分の模型 (旧厚狭毛利家萩屋敷長屋中間部屋内に置かれた萩城模型の一部) ↓
「本丸と二の丸の一部」部分の模型 (同上) ↓
「二の丸東」部分の模型 (同上) ↓
山頂に「詰丸」と呼ばれる軍事施設と山麓には「本丸」を中心とした政庁施設が配備されている構成は、「元就」が居城としていた山城の「吉田郡山城」と「輝元」が築城した平城の「広島城」を組み合わせたような縄張りのようです。
指月山(詰丸があった、143m) ↓
<本丸>
「本丸」へは、「本丸内門」で手前の土橋「極楽橋」で「内堀」を渡って入城します。
「本丸内門」を挟んで、向かって右側(東側)へは土塀(石垣)が延びて「月見櫓」が建ち、左側(西側)へは「土塀」の先に「天守」が建っていて「本丸」の南西隅になります。
月見櫓跡から本丸表門跡、土塀跡、天守台跡(手前から内堀越し) ↓
天守台と極楽橋 ↓
月見櫓跡石垣(内掘越し) ↓
極楽橋から本丸内門跡を臨む ↓
本丸内門桝形 ↓
「天守」は、五重五階の望楼型「天守」が建っていました。「天守」は石垣から出っ張った「張り出し」を採用し、北側へは「多聞櫓」とも繋がった「複合式天守」でもありました。「本丸内門」までは土塀で繋がり、土塀下には「雁木」を築いていました。
天守台(本丸内門前極楽橋より) ↓
西側からのぞむ天守台 ↓
天守台の礎石 ↓
天守台と土塀跡(東側から) ↓
土塀下の雁木 ↓
天守続櫓跡石垣 ↓
「天守」の瓦は寒暖の差に強い赤瓦を採用したそうです。「天守」の幕末から明治初めにかけての勇姿は、古写真で知られるところで、その大きな模型もJR「東萩」駅前にデーンと据えられていましたが、倒壊の恐れが出てきたとのことで2022年9月に35年の雄姿が解体されました。
天守の古写真(城内掲出の写真より) ↓
東萩駅前の萩城天守模型(2022年9月に解体済) ↓
「本丸」の中には「本丸御殿」が建てられていましたが、現在はその跡地に初代藩主から12代藩主まで祀った「志都岐山(しずきやま)神社」が建てられ、その前には藩校「明倫館」前の「万歳橋」の遺構が移築されています。
藩校「明倫館」前の万歳橋の遺構(志都岐山神社前) ↓
更に、元々「毛利敬親(たかちか)」の別邸で幕末にはそこで国事を画策したという茶室「花江茶亭」(1887年にここへ移築、入母屋造り茅葺)や「旧梨花家茶室」も移築されていて、御殿がない所へ多くの遺構が集められているのは非常に親切でいいことだと感心しました。
花江茶亭(藩主別邸にあった茶室) ↓
花江茶亭(藩主別邸にあった茶室)の庭園 ↓
旧「梨花家」茶室 ↓
<二の丸>
「本丸御殿」の東北側で下記に記載の海側沿いに建てられた櫓との間の敷地は「二の丸」ですが、そこに「満願寺」が建てられ、南側には「東園(とうえん)」と呼ばれる庭園が拡がっていました。現在でも、鬱蒼とした場所で庭園跡やその池が残っています。
東園跡 ↓
更に「二の丸」は、「本丸」の東側から南側にかけて囲っていて、特に「指月山」麓の日本海側沿いから「二の丸」の南西側にかけて、北から「山中櫓」「三摩地院櫓」「万願寺櫓」「荒川櫓」「紙櫓」「時打櫓」「塩櫓」「華櫓」「青海櫓」「八間櫓」が建ち並び、日本海側沿いにあった各櫓の櫓台を現在でも見ることができます。
日本海側砂浜へは、「潮入門」跡から出ることができ、南側にかけては石垣がズーと延びてその上に復元された土塀が海岸沿いに美しい曲線を描いています。
潮入門跡石垣 ↓
二の丸東側石垣と復元土塀、奥には紙櫓跡(手前、潮入門跡から) ↓
二の丸東側石垣(海側) ↓
一方、砂浜を北側に進みますと、どんどんと石が大きくなり、ゴツゴツした岩の上を歩いて行かないと櫓台にたどり着かないですが、海沿いの石の上をそろりそろりと進みますと、まさに海しぶきを受けて、恐怖を感じながらの写真撮影となりました。しかし「山中櫓」までは足を延ばすことができませんでした。
三摩地院櫓台跡 ↓
満願寺櫓台跡と菊ケ浜海岸 ↓
荒川櫓台跡 ↓
紙櫓台跡石垣(奥の出っ張り部分) ↓
時打櫓台跡石垣 ↓
「三の丸」への出入口には、「南門」と「東門」が構えられ、いずれも枡形を形成、特に「南門」は二重枡形という凄く堅固な構えになっています。
二の丸南門跡 ↓
二の丸南門正面に「毛利輝元像」 ↓
二の丸南門跡(二重桝形) ↓
東門跡 ↓
次回「萩城(2)」では、「三の丸」と簡単に「城下」を巡って見たいと思います。
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