只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

原爆で倒壊後外観復元された”天守”は今後木造復元化する「広島城(1)

広島県広島市

城主と歴史

「広島城」の成り立ちですが、戦国時代末期に「吉田郡山城」を拠点に中国・九州の一部の9か国までに及ぶ勢力を伸ばした「毛利元就」の孫にあたる「毛利輝元」が、「吉田郡山城」では交通の便が悪く統治しずらいとのことで、1591年から「太田川」のデルタ地帯に築城を開始しました。

 

「輝元」は築城に当たって、「豊臣秀吉」が築いていた「聚楽第」や「大坂城」に感銘を受けていたことから、それに匹敵するお城と城下町を1599年に完成させました。

 

しかしながら「関ヶ原の合戦」では、「輝元」は西軍の総大将に担ぎ上げられ、敗戦の責任を負わされて「萩城」へ移らされました。

 

次に入城したのが「福島正則」で49万8千石の大大名で入封しました。善政を敷いていたものの、「豊臣家」との繋がりが強いこともあって、何かと幕府からの軋轢もありました。特に台風後の普請で大規模な改修を行ったり、その後の改修でも幕府への届け出の不備を衝かれ、「正則」の謹慎・転封に続き、「福島家」は改易となりました。

 

その後に入封したのが「徳川家」との関係が深い「浅野長晟(ながあきら)」で、以降幕末・維新まで「浅野家」が統治します。

 

「日清戦争」では「大本営」として使用され、「明治天皇」もここに7ケ月も滞在しました。しかし、現存で存在していた「天守」は、「太平洋戦争」における原子爆弾投下による爆風で一瞬にして倒壊しました。

 

●お城の概要と特徴 

<立地と縄張り> 

「広島城」の縄張は、「本丸」と南側に配置した馬出的な「二の丸」を「内堀」が囲み、その東・南・西側をコの字型の「三の丸」で囲みます。

 

更にその周囲を「中堀」、そして「外郭」が取り巻く形になっています。「三の丸」西側から「外郭」西側に食い込む形で「馬出」的な区画が設けられました。

 

「外郭」の北・東・南の外側には「外堀」が掘られ、西側の「外郭」外側は「太田川」によって防備されるという徹底した構えとなっていました。

 

縄張り図(城内掲出分から、黒ポチは「櫓」配置) ↓

 

<本丸天守群>

「本丸」には、北西隅に「連結式天守」が置かれ、五重五階の「大天守」に南側と東側に三重三階の「小天守」が「走櫓(渡廊下)」で連結していました。「天守」へは、「渡廊下」から入り、更に「天守」に付随する切妻屋根の「付櫓」に階段で上がって1階に入城しました。


「天守」は「望楼型天守」で、望楼型にしては珍しい重・階一致の天守です。外観は、「下見板張り」で最上階に「高欄・廻縁」が巡っています。

 

外観復元「天守」南面(出入り口は付櫓風玄関) ↓

外観復元「天守」南西方向から ↓

外観復元「天守」西面 ↓

外観復元「天守」北面 ↓

外観復元「天守」北東方向から ↓

外観復元「天守」東面 ↓

戦前の古写真(「天守」東面には「走櫓(東廊下)」部分が残る) ↓

 

最上階の出入口両脇の壁には「華頭窓」を設けるなど古式で優美さがありました。また二重目の入母屋でない面には「比翼千鳥破風」を、三重目には各面に「千鳥破風」が据えられているので装飾性も富んでいます。

 

現在建っている「天守」は、外観復元のコンクリート造りで1958年に再建されたもので、南面から「天守」に入場できるように付櫓風の玄関になっています。また、戦前の古写真でも存在が判る「天守」東面の「東廊下」部分は復元されていません。

 

なお「天守」は、老朽化で建て替えの為に2026年3月に閉館しています。予定では2049年頃に木造復元する案が有力だそうです。

 

望楼部分(廻縁と華頭窓が見える) ↓

最上階出入口両脇の「華頭窓」 ↓

二重目の「比翼千鳥破風」と三重目の「千鳥破風」 ↓

復興コンクリート造りの「天守」最上階 ↓

復興コンクリート造りの「天守」の途中の階 ↓

「本丸上段」に展示されている「天守」の「礎石」 ↓

 

「天守」の南側と東側には、「走櫓(渡廊下)」台と「小天守」台の石垣が残ります。

 

「天守」南側の「南小天守」跡と「走櫓(南廊下)」跡 ↓

「南小天守」台 ↓

「天守」東側の「東小天守」跡と「走櫓(東廊下)」跡 ↓

復元「天守」と「東小天守」台石垣  ↓

 

<本丸上段>

次に「本丸」は上段と下段の構成となっていて、全体の2/3の上段には「本丸御殿」が置かれ、下段には「馬場」や「米蔵」として広い空間を取っています。また下段の北側、東側、西側の細長い所は「帯曲輪」となっていました。

 

「本丸上段」絵図(城内掲出分) ↓

「本丸御殿」図(城内掲出分、下が北) ↓

「天守台下帯曲輪」の石垣 ↓

「天守台」と「天守台下帯曲輪」の石垣(「内堀」西側越えで見る) ↓

 

現在の「本丸」跡ですが、元々全ての面で石垣が築かれていた「本丸上段」は、「福島正則」が幕府から無断修復だと咎められて自ら取り壊したと言われ途中から土塁になっている箇所が残されています。そして西面の一部と北面以外は崩されて土塁にして、現在もそのまま土塁となっています。

 

「本丸上段」北側の石垣と「北帯曲輪」跡

「本丸上段」石垣の算木積み

 「福島正則」が壊したと謂われている跡(「本丸上段」北東隅)

石垣を壊して土塁にした「本丸上段」東側

石垣を壊して土塁にした「本丸上段」跡(上側)と「本丸下段」跡(下側)

 

そして丁度中央辺りには、「日清戦争」時に建てられた「大本営」の二階建て洋風建築跡の礎石を見ることができます。これも、原爆の爆風で倒壊しました。

 

大本営跡 ↓

 

<本丸下段>

「本丸下段」の南西「馬場」跡には、「広島護国神社」が建ち、東側には「裏御門(東門)」があってこちらは東側の「三の丸」へ土橋で繋がる外枡形の櫓門がありましたが、現在も櫓門の櫓台の立派な石垣が残ります。

 

「本丸下段」の馬場跡に建つ「広島護国神社」 ↓

「裏御門(東門)」前の「本丸上段」から「本丸下段」へ下りる石段 ↓

「裏御門(東門)」跡石垣(「外郭」側から「本丸下段」方向) ↓

 

「本丸」には、西北隅に「天守」が建ちましたが、他の三隅には二重櫓が建ち、その間にも櫓が2~3基が築かれ、現在でもそれらの櫓台が残り「内堀」の水面に浮かんで綺麗に見えます。

 

「本丸北東隅櫓」台 ↓

「本丸」跡東面の並ぶ櫓台(複雑に屈曲する石垣)と「内堀」 ↓

「本丸南西隅櫓」台 ↓

 

「二の丸」跡への出入口には「中御門枡形」が残ります。原爆投下の火災焼失時の赤くただれた石垣を目の当たりにすることができます。

 

「本丸中御門」跡石垣 (枡形に折れる) ↓

「本丸中御門」跡石垣と「土橋」(奥が、「本丸下段」跡) ↓

 

次回「広島城(2)」では、馬出し的な「二の丸」、そして城内に造られた大名庭園「縮景園(しゅっけいえん)」、そして外郭の遺構を見て行きます。

 

 

 

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