只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
麓の”山下ノ丸”では復元”中ノ御門”や御三階櫓台等が見られます「鳥取城(1)」
(鳥取県鳥取市)
●歴史と城主
1500年中頃、「久松山(きゅうしょうざん)」に「山名氏」が砦を築きました。そして1573年に、因幡守護の「山名豊国」は守護所をここへ移します。
その後、「毛利氏」の傘下になりますが、「織田信長」軍との間で籠城戦が行われ、特に1581年の「羽柴秀吉」による兵糧攻めでは、お城の中は凄惨を極め多くの餓死者を出して毛利方の「吉川経家」の自刃と引き換えに開城されました。
豊臣政権下では「宮部氏」が入城し、近世城郭に改修して山頂や山麓に石垣や櫓などを築きました。
「関ケ原の合戦」後は、「池田輝政」の弟「長吉」が入城します。その後は、「池田家」のお城となりますが、複雑な家系統の中で城主が替わりました。
「輝政」には三人の息子がおり、正室の子「利隆(としたか)」、「徳川家康」の孫「忠雄(ただかつ)」と「忠継」がいました。「利隆」は、「輝政」の遺領42万石と「姫路城」を継ぎましたが、その中から10万石を「岡山城主」の「忠継」に与えられました。
「利隆」が亡くなった時にその子「光政」が幼少であったので、幕府としては重要な拠点「岡山城」を任すには幼過ぎるとのことで、1617年に「光政」は鳥取藩主とされ「鳥取城」に入城し、「岡山城」には「忠雄」が入城します。
その後、「岡山城主」であった「忠雄」が亡くなると、今度は「忠雄」の子「光仲(みつなか)」が幼少であったので、「岡山藩と鳥取藩の領地交換」を幕命によって指示され、「鳥取城主」だった「光政」が「岡山城」に入城し、逆に「光仲」が「鳥取城主」となりました。その後、「光仲」の系統が幕末・維新まで鳥取を統治することになります。
●お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
中世城郭を改修して近世城郭化した「山上(さんじょう)ノ丸」と、1617年に入城した「池田光政」が整備した「山下(さんげ)ノ丸」を構えました。
「山上ノ丸」には、「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」があり「本丸」には付櫓が付随する二重の「天守」(当初は三重だったが望楼部分を無くして二重に)が建てられていました。
一方「山下ノ丸」には、城下と繋ぐ「北ノ御門」「中ノ御門」「南ノ御門」を改修して、「二ノ丸」「三ノ丸」「天球丸」を置き、「二ノ丸」には天守代用の「御三階櫓」を建てると共に、「菱櫓」「走櫓」「角櫓」を配備して藩主「居館」を置きました。
「三ノ丸」は1716年以降に、藩主「居館」が置かれるようになりました。「天球丸」は、「池田光政」の伯母「天球院」が居住する為に造成された曲輪で、「三重櫓」が建っていました。
「山下ノ丸」の縄張り絵図 ↓
<丸の内>
「丸の内」は東西長く、「北ノ御門」「中ノ御門」「南ノ御門」3つの門がありました。
「中ノ御門」(2021年復元)は「水堀」に架かる「擬宝珠橋」(2018年復元)とともに最近復元されました。「擬宝珠橋」を渡り高麗門形式の「中ノ御門」を潜ると、右に折れる枡形になっていて「渡櫓門」(2025年復元)が建ちます。
久松山の前に並ぶ「仁風閣」「御三階櫓台」と復元「擬宝珠端」「中ノ御門」 ↓
高麗型式の復元「中ノ御門高麗門」 ↓
高麗型式の復元「中ノ御門高麗門」の門扉 ↓
復元「中ノ御門渡櫓門」(枡形内から) ↓
復元「中ノ御門渡櫓門」 ↓
「北ノ御門」は、石垣のみ残っていますが、「南ノ御門」は遺構は無くその前には「吉川経家」像が立ちます。
「北ノ御門」跡 ↓
「南ノ御門」は遺構は無くその前に「吉川経家」像 ↓
「北ノ御門」跡を入ってすぐ右手には「米蔵」等が建っていた「丸ノ内」跡で、復元された「中ノ御門」まで続いています。
「丸ノ内」跡と「内堀」 ↓
「北ノ御門」跡の左手の敷地には「鳥取県立博物館」が建ちますが、そこも山麓から「城代屋敷」跡、「上厩(かみのうまや)」跡、「米蔵」があった「丸ノ内」跡であった場所です。
「鳥取県立博物館」の敷地が「城代屋敷」跡、「上厩(かみのうまや)」跡、「米蔵」跡 ↓
「鳥取県立博物館」の敷地から道を挟んで東側の広大な敷地には「仁風閣(じんぷうかく)」という立派な洋館が建っています。これは、1907年(明治40年)に後の「大正天皇」になる「嘉仁(よしひと)皇太子」が行啓時に宿泊したそうで、「旧池田家」がそのために建築したそうです。
重要文化財「仁風閣」 ↓
「仁風閣」の裏には、 1863年に12代藩主「池田慶徳」が、若くして先代藩主の未亡人となった「宝隆院(ほうりゅういん)」を慰める為に造園した「宝隆院庭園」があります。 そして庭園内には、「宝扇庵」という「扇御殿化粧の間」が建っていて、それが城内に唯一残る江戸時代後期築の城郭建造物ということで重要文化財に指定されています。
「宝隆院庭園」と「宝扇庵」という重要文化財「扇御殿化粧の間」 ↓
<右膳ノ丸>
「城代屋敷」跡の脇の石段を上がって右に折れると高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」が建っていて「右膳ノ丸」の出入口になります。この門は廃藩後も現存していた門で1975年(昭和50年)に強風で倒壊しましたが、後年に復元した門です。
高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」 ↓
高麗門形式の「西坂下御門(中仕切門)」 ↓
「右膳の丸」跡 ↓
<二の丸>
この門を潜って坂道と石段を上がっていくと、右手真上には「御三階櫓」台が聳えています。その左脇の「裏御門」跡を通ると「二の丸」跡に上がれますが、「角櫓」台下からも「二の丸」跡へ上がるルートがあります。
「二の丸」跡の石垣と聳える「御三階櫓」台 ↓
「裏御門」跡(「二の丸」跡から見下ろす) ↓
「角櫓」台は、いかにも古さが分かる「野面積み」で積まれ、「武者返し」の勾配も先端部分で急に上を向いています。
「角櫓」台(「右膳ノ丸」跡側から) ↓
「角櫓」台の脇を上がった所が「二ノ丸」跡です。丁度入口付近にはこのお城の特徴でもある「登り石垣」を見ることが出来ます。「登り石垣」は、「彦根城」「洲本城」「米子城」「松山城」で見ることができ、山城或いは平山城の山腹に石垣による構築物を造ることによって、攻め手が左右移動しずらくなるのを狙っている仕掛けです。
「登り石垣」 ↓
「登り石垣」横から上へ ↓
「二ノ丸」跡は東西長く、江戸時代初期には藩主が居住し、家老たちが政治を行う「藩主御殿」が建っていました。また山麓沿いは「石切場」が広範囲に残っていて、当城の石垣はここから調達されたものであることが分かります。
「二ノ丸」跡(東方向) ↓
「石切場」(西側) ↓
当時「二の丸」跡の南側には、「櫓」が西側から「角櫓」「御三階櫓」「走り櫓」「菱櫓」が建っていて、特に「御三階櫓」は天守代用ということで立派な姿であったことが古写真から想像できます。
古写真「御三階櫓」(現地にて掲出) ↓
「御三階櫓」は1617年頃築の三重三階建ての櫓で、山陰地方初の「層塔型天守」、1階の敷地面積は14.5㎡と非常に大きく、下見板張りの外壁には妻側各階に大きな「竪格子連子窓」が付いています。1693年の大火で山上の天守が焼失後は天守代用となりますが、1720年に焼失しました。しかし再度再建し1736年に竣工しています。
「御三階櫓」台と手前は「裏御門」跡の石垣 ↓
「御三階櫓」台上 ↓
更に「御三階櫓」の東側には平櫓の「走り櫓」が、東端には二重二階の「菱櫓」が建っていました。
「走り櫓」跡 ↓
「菱櫓」台 ↓
「菱櫓台」上 ↓
「菱櫓」台(手前)と「多門櫓」台 ↓
その後方には「多門櫓」に繋がる「表(鉄)御門」が建っていて、現在でも「菱櫓」台から「多門櫓」台、「表(鉄)御門」の石段付きの立派な石垣を目にすることができます。
「菱櫓」台と「多門櫓」台 ↓
「表(鉄)御門」跡の石垣 ↓
「鉄御門」跡の石垣 ↓
更に「表(鉄)御門」入口付近東側には非常に珍しい「登り雁木」が採用されていて、斜めの敷地に巧く斜めの雁木を用いています。
手前に「登り雁木」、奥の石垣は「天球丸」跡 ↓
「登り雁木」 ↓
次の「鳥取城(2)」では、当城最大の特徴「巻き石垣」や「天球丸」跡を見た後は、山城部分の「山上ノ丸」跡に登り眺望を楽しみます。
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。
もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。



































