只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

近世軍学に基づき星型に近い曲輪を導入、三の丸大手〜二の丸北・西の「赤穂城(1)

兵庫県赤穂市

城主と歴史

「江戸城」の「松の廊下」で「吉良上野介」に対して刃傷を起こし「忠臣蔵」の原因を作った「浅野内匠頭(長矩)」の二代前、所謂祖父である「浅野長直」(5万石)が1645年に、「池田家」(3万5千石)2代の後に赤穂の地に入封して城づくりを進めて1661年に完成したのが「赤穂城」です。

 

この時代の新たな築城は非常に珍しいですが、「長直」は国替えの際に、当時の将軍「徳川家光」から内々に築城許可を得ていたようでした。そして、近世軍学を反映した星型に近い曲輪を導入させたものでした。

 

しかし前述のように、1701年に「長矩」の江戸城に於ける刃傷事件で切腹、「浅野家」はお家断絶となって「赤穂城」は、「脇坂安照」の家中の者が在番となりました。

 

その後は、「永井家」1代、1706年からは「森家」2万石のお城として、幕末・維新まで続きました。

2万石という石高のお城にしては広大で立派なお城でしたので維持が大変だったと思います。ただ、赤穂藩は塩が取れたので、その収入で賄っていたと思われます。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「甲州流」や「山鹿流」の近世軍学に沿って築かれて星形に似た曲輪で「横矢掛かり」を多用し、輪郭式と梯郭式を併用した平城であり海城でした。

 

現在の「千種川」の三角州の先端の砂州上に築かれその形内に展開されています。「本丸」は星形に近い多角形で周囲を石垣と堀で囲われています。「本丸」の南東部に「天守台」が築かれましたが「天守」は置かずに石垣で築かれた本丸城壁には、門が3基、櫓1基を配備する他に隅角には櫓台状の石垣の上に土塀を築いた「横矢桝形」を置いて各所から横矢を掛けるようにしていました。

 

「二の丸」は、「本丸」を輪郭式に取り囲む曲輪で門3基、櫓5基を置くとともに、円環状の平面である広大な曲輪内を石垣と土塀の仕切によって南北二つに区画して防衛機能を固めていました。

 

また「二の丸」の半分が海に面していたので船着場の雁木等の備えも有りました。

 

「三の丸」は、「二の丸」北側に配置され海部分を除く曲輪外周には石垣を設けて城下町との区切りとしていました。「大手門」は「三の丸」の北側に設けられ、右折れの「内桝形」で高麗門と櫓門と出桝形形成をしていました。

 

では今回は「大手門」から入城して「三の丸」跡を見た後に、「二の丸門」を通るとすぐ右手(西側)に拡がる「二の丸庭園」を見て、「本丸」跡をグルっと見た後に東側から南側にかけて周囲を取巻く「二の丸」跡を見て行くコースをとりたいと思います。

 

「赤穂城跡 縄張り絵図」 ↓

「赤穂城跡 縄張り絵図」 ↓

 

<三の丸>

「三の丸」の入口は「大手門」とそれを監視する「大手隅櫓」があり、「赤穂城」の紹介には必ずこの二つの城郭建造物が紹介され、「赤穂城」の代名詞的な存在です。

 

外観復元の「大手隅櫓」と「大手門高麗門」 ↓

 

「高麗門」形式の「大手門」前には堀に架かる橋が有りますが、これを渡ると右折れの枡形となり、その正面には「鏡石」が添えられています。

 

外観復元の「大手門」(高麗門形式、中は右折れの枡形) ↓

大手橋から外観復元の「大手隅櫓」 ↓

 

ここの「大手門」は、「高麗門」とセットで「櫓門」が建っていたのかどうかは、櫓門台がないので有無は不明です。ただ、「大手隅櫓」が内側にも睨みを利かせているようですので置かれなかったのかもしれません。

 

右折れした正面には「番所」風の建造物が建てられていて、その前を左折れした正面には「大石神社」の社殿がのぞめます。その敷地は、「大石内蔵助」の屋敷地だった所で、神社は1912年に創建されました。そして、赤穂藩歴代藩主と赤穂義士が祀られています。

 

番所風建造物と「大手隅櫓」 ↓

大石神社社殿が見える ↓

 

その神社の東隅に当たる所には「大石内蔵助邸長屋門」が現存しています。前述の江戸からの早や籠(藩主が刃傷事件を起こし「萱野三平(※)」等が駆け付けた)はこの前に到着したそうです。(※)萱野三平宅邸は箕面市萱野に残っています)

 

「大石内蔵助邸長屋門」 ↓

 

この長屋門の斜め向かいには「近藤源八宅跡長屋門」が横たわります。この「近藤源八」とは、「赤穂城」の建築を担当した「甲州流」の軍学者「近藤正純」の子の屋敷門です。

 

「近藤源八宅跡長屋門」 ↓

 

「大石神社」神門前には、「赤穂浪士四十七義士の石像表門隊・裏門隊」と名前がつく石像四十七体がずらりと並んでいて壮観です。

 

「赤穂浪士四十七義士の石像表門隊」(向かって右) ↓

「赤穂浪士四十七義士の石像裏門隊」(向かって左) ↓

 

ここから「三の丸」跡が拡がり、この辺りには武家屋敷が並んでいた所です。現在は、原っぱの中にそれぞれ区画がされていてその前には、「赤穂義士」の邸宅だったことが判るように表示がされています。あの「磯貝十郎左衛門」宅跡もありました。

 

「磯貝十郎左衛門」宅跡 ↓

 

「塩屋門」は、「搦手門」の位置づけで、藩主「浅野内匠頭」が刃傷を起こしたことを伝えた「萱野三平」等の早駕籠はここから入城したそうです。

 

門の形式は「高麗門」で、桝形中には「太鼓櫓」が置かれて城下に時を告げていたようです。「塩屋門」跡の枡形内は雁木となり石垣も良く残っています。ここに建っていた「高麗門」は、現在、「浅野家」歴代藩主の菩提寺になっている「花岳寺」山門に移築されています。

 

「塩屋門」跡石垣 ↓

「塩屋門」の古写真(説明板に掲出) ↓

「花岳寺山門」(「赤穂城塩屋門」の移築、浅野長直が1645年建立、歴代藩主の菩提寺) ↓

「塩屋門」跡から大石神社の方に延びる土塁 ↓

 

また「塩屋門」跡の西南方向には、「西隅櫓」跡の櫓台とそれ続く石垣が残ります。

 

「西隅櫓」台 ↓

 

広々とした「三の丸」跡の遠く向こうには、「二の丸堀」に沿った石垣や櫓台が見えますので、その入口である「二の丸門」跡を目指します。

 

<二の丸(北側~西側の「二の丸庭園」)>

「二の丸門」は、元々は切妻の「櫓門」が建っていました。

 

「赤穂城」は「甲州流」軍学の「近藤正純」によって縄張りされましたが、1653年に「山鹿流」軍学の「山鹿素行(やまがそこう)」が手直しをした門だそうです。変更点は多分「門」の向きや桝形状態でしょうが今一つよく解りません。その脇には「山家素行」の胸像が立ちます。

 

「二の丸門」跡(正面に向かって左側=東側に櫓門) ↓

「二の丸門」跡の修築工事 中の写真(二の丸堀の西側と「北櫓」台、石垣の裏込石が良く分かる) ↓

「二の丸門」跡から「二の丸堀」の東側を見る ↓

「二の丸門」の古写真(城内説明板に掲出写真) ↓

山鹿流「山鹿素行像」 ↓

 

「二の丸」は、「本丸」の周囲を取り巻く「輪郭式」曲輪となっていて、非常に広い敷地を使用しています。

 

「二の丸門」跡すぐ右側の「二の丸庭園」入口には、「大石頼母助(たのものすけ)屋敷門」が移築されています。その中に造園された「二の丸庭園」は発掘調査に基づいて復元され、広々とした敷地内には大きな池とそこに浮かぶ2つの中島、東屋や舟倉を設け、周囲は「二の丸堀」側は土塁上に櫓も置かれ、平地側には「仕切土塀」や「仕切門」が備え付けられています。

 

復元「二の丸庭園」入口(「大石頼母助屋敷門」を移築) ↓

復元「二の丸庭園」内の「東屋(あずまや)」  ↓

復元「二の丸庭園」を取り巻く土塁と「二の丸北隅櫓」台 ↓

 

次回「赤穂城(2)」では、「本丸」跡、「二の丸(東側~南側)」跡を巡って行きたいと思います。

 

 

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