只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
世界遺産で大手門からの天守群迄の登城路に現存城郭建造物が建ち並ぶ「姫路城(1)」
(兵庫県姫路市)
「姫路城」は、「日本100名城」に選定されているだけでなく、「世界文化遺産」にもなっていて多くの城郭建造物が現存し、その全てが「国宝」「重要文化財」指定されていると共に、石垣や堀等も多く残っています。従いまして、2〜3回では紹介しきれませんので、数回に分けて紹介していきたいと思います。
「姫路城」の歴史は古く1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。
「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた「中国攻め」に際して、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。
「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。
「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。
「池田家」が「鳥取城」へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。
この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石(現在価値で1石=10万円とすると100億円)で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。
左からリの二渡櫓・一の渡櫓・チの櫓、乾小天守、西小天守・天守 ↓
「姫路城」は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。
「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩※」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後はやっと藩主が定着しました。
※「松平直矩」を題材として「引越大名の笑い」(杉本苑子作、講談社文庫)
藩主の中の「松平直矩※」は、引越大名と言われる程、転勤が多かった大名です。
「直矩」は、父親「直基(なおもと)」が「山形」藩主でありましたが、「姫路城」へ転封となって任地へ向かう途中に逝去したので、「直矩」が急遽「姫路」藩主となります。しかし、まだ幼少であったので「姫路」を任されないということで、新潟県の「村上城」への移封(転勤)となります。その後は、次のようになります。
播磨姫路藩主→越後村上藩主→播磨姫路藩主(再)→豊後日田藩主→出羽山形藩主→陸奥白河藩主
因みに、「直矩」は「越前松平家(家祖は、結城秀康-家康の次男で秀吉に養子に出された)」です。
2019年に上映した日本映画では、この「藩主」がモデルになりました。生涯7回もの国替えをさせられ、「引っ越し大名」とあだ名を付けられた実在の大名「松平直矩」をモチーフにした「土橋章宏原作」の小説『引っ越し大名三千里』が映画化されたものです。「松平直矩」は、「及川光博」が演じて「星野源」「高橋一生」「高畑充希」等が出演してました。
「姫路城」全体が、1993年に「世界文化遺産」として登録されました。その前には、天守や小天守が国宝指定されていますし、多くの城郭建造物が重要文化財に指定されています。
※「国宝」が8棟、「重文」が74棟
姫路城内曲輪絵図 ↓
1964年に昭和の大修理が行われ、2015年には平成の大修理が行われました。
<立地と縄張り>
「姫路城」は、「姫山」(東側)と「鷺(さぎ)山」(西側)という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて、「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭(かかく)式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。
「豊臣秀吉」が、中国攻めの拠点として「黒田官兵衛」から献上された「姫路城」は、「姫山」に築かれ「天守」は三重だったようです。
「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこには「本丸御殿」がありました。そこから少し下には「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていて、現在は「百間廊下」と呼ばれる「多門櫓」が北西周囲を取り囲む形で現存しています。
姫路城曲輪絵図 ↓
「三国濠」の南側にある重文「菱の門」は、以上の曲輪に出入りできる唯一の門となります。その南側の広大な広場には、西側に藩主が住む「三の丸(御居城)」が、東側には藩政を執り行う「三の丸(向御屋敷)」が、更に東側には「御作事所」が置かれていました。そして、「三の丸」の南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。
姫路城曲輪図(西側からのぞむ) ↓
更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。
北側から時計回りに「野里門」「久居門」「内京口門」「不明門」「総社門」「中ノ門」「くまたか門」「埋門」「車門」「市ノ橋門」「勢隠門」「清水門」が備わり、現在でも石垣等が残っています。更にその周囲外堀沿いにも門を構えていました。
総構えの曲輪図 ↓
<内曲輪から天守群へ登城>
JR「姫路駅」から北に向かって真っすぐ通る「大手道」の丁度突き当たった所に「高麗門」がありますが、その位置に「大手門」が構えていました。現在の「高麗門」は、1938年にRC造りの復興「大手門」として再築されたものです。その前に「内堀」に架かる「桜門橋」は2007年に木造で復元されています。
JR「姫路駅」から北に向かって真っすぐ通る現在の「大手道」(天守より) ↓
復興「大手門」と「桜門橋」 ↓
復興「大手門」(江戸時代のものとは形状など違う) ↓
復興「大手門」を抜けますと広場が拡がり右手奥に動物園がありますが、この広大な芝生の敷地が「三の丸」跡で「三の丸」跡からの天守群の眺めは良く、天守群を中心とした「姫路城」の写真がよく紹介される位置です。
「三の丸」跡から見る「天守群」 ↓
時々、天守群に対してプロジェクトマッピングや夜のライトアップが行われて観賞できる場所やイベントとして利用されます。
夜のライトアップされた天守群 ↓
夜のライトアップされた天守群 ↓
夜のライトアップされた天守群 ↓
夜のライトアップされた天守群 ↓
さて、登城する際に通る「三の丸」から「二の丸」へ進む正門である重文「菱の門」ですが、桃山建築の名残りがある「華頭窓」、「武者窓」は漆塗りの格子に飾り金具、真壁造りで格式ある門で「伏見城」からの移築という伝承があります。
菱の門(桃山建築の名残-華頭窓、漆塗りの格子に飾り金具、真壁造り)
菱の門(壁は「真壁造り」) ↓
「菱の門」の「番所」 ↓
「いの門」から望む「菱の門」 ↓
「菱の門」の右手には四角形をした「三国濠」が水を豊富に湛え、正面には「土塀」が建ちます。「三国」の由来は、「池田輝政」が淡路・播磨・備前の三国の領民に掘らせたのでこの名前が付いたと言われています。
三国濠と二の丸の土塀 ↓
その脇の突き当りには重文「いの門」が、左に曲がると重文「ろの門」が構えています。「いの門」は第二関門で門形式は「高麗門」ですが、単独で建つのではなく片側が板塀、もう一方は石垣に繋がっている珍しい形の高麗門です。姫路城では、門は平仮名で「いろはにほへと」で管理し、櫓は片仮名で「イロハニホヘト」と番号付けがされています。
いの門(菱の門の北側の第二関門、高麗門で両側は石類) ↓
ろの門(いの門と同形式の高麗門、多聞塀に囲まれた武者溜りあり) ↓
次に構えるのが枡形になっている重文「ろの門」で、それを潜ると「天守」と「西天守」を見ながら白い土塀に沿って坂をあがります。この坂はよく映画やドラマで使用される場所です。
「ろの門」から「はの門」に上がる坂 ↓
その突き当りに櫓門形式の重文「はの門」があります。中央の物見用の大きな格子窓からは「菱の門」まで見渡せます。「はの門」(櫓門)の礎石を良く見ると「転用石」が使用されています。「転用石」というのは、墓石、五輪塔、宝篋印塔、石臼、石仏等の本来の石そのものでないものを素材として使用しているものをいいます。
櫓門「はの門」 ↓
「はの門」柱の礎石は転用石 ↓
「はの門」を潜り抜けると、小さな曲輪になっていて右上には「にの門続櫓」(嘗ては「ロの櫓」)が「はの門」を監視していますが、その一重目の「軒唐破風」の中央に「十字紋」の瓦が見られます。これは、現在では「キリスト教」とは関係なく「魔除け」ではとのことです。
「にの門続櫓」の「軒唐破風」に付く「十字紋(赤丸内)」 ↓
その下を天守群方向へ進み、右側へ折れて坂道を上る途中の場所から真正面には「ニの櫓」「天守」「乾小天守」「西小天守」が重なって見えて覆いかぶさるような感じを受けます。
「ニの櫓」と天守群を見上げる(「にの門」前から) ↓
坂道の行き当たりから今度はピンカーブで折り返して逆方向の坂を上りその行きついた所には重文「にの門続櫓」(昔は「ロの櫓」と言った)の下に門を設ける櫓門形式の重文「にの門」が建ちます。天井が低く、敵方が攻めてきたら天井を外して槍などで攻撃ができるようになっています。「にの門」内の階段を上がると「ロの櫓」が構えていて出口となっています。
にの門(櫓門、鉄板張りの門扉)後ろには「にの門の続櫓」(過去は「ロの櫓」といった)
「にの門」の内部 ↓
「にの門」と出口は「にの門続櫓」(天守群から見下ろす) ↓
「ロの櫓」から出た所は小さな曲輪になっていてその中を直進したところには、白壁が建っています。白壁と石垣の間には埋門形式の「ほの門」があります。
ほの門(埋門)を潜ると本丸跡 ↓
それを潜ると「曲輪」になっていて、「天守」への導入道が二手に別れます。一つは、左手に繋がる「渡櫓」群に沿って行くルートと、もう一つは「ほの門」右手に建つ「築地塀」から迂回するルートがあります。
油壁「築地塀」と「水一の門」 ↓
ここで「築地塀」について触れておきますが、「豊臣秀吉」が築城した「姫路城」の遺構と言われていて、白壁とは違う土壁で粘土と砂利ともち米のとぎ汁で混ぜて固めた「油塀」になっています。
天守へ向かう道はもう一つありますが、現在は通行禁止となっています。天守群の北側の断崖絶壁に沿って美しい曲線を描きながら建てられている重文「渡櫓群」は「イの渡櫓」「ロの渡櫓」「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」「ホの渡櫓」「ヘの渡櫓」が繋がりその間には二重櫓「ホの櫓」が挟み込まれています。
これらは、「中曲輪」北側の「シロトピア記念公園」から遠望するとまるで軍艦のように見える「天守群」の北面を眺めることができます。
「イの渡櫓」と「ロの渡櫓」(北側からの防衛に使用) ↓
「ニの渡櫓」の曲線屋根 ↓
左から「ハ・ニの渡櫓」「ホの櫓」「ホの渡櫓」(腰曲輪の断崖に沿った構造) ↓
「ハ・ニの渡櫓」「ホの櫓」 ↓
「ヘの渡櫓」 ↓
「ヘの渡櫓」の内部 ↓
「シロトピア記念公園」からの「天守群」と「渡櫓群」の眺め ↓
次回「姫路城(2)」では、「築地塀」の脇に有る「水一の門」から「天守群」へ登城していきます。
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