只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

連郭式曲輪の“本丸”~“三の丸”まで高石垣で固めた防御力ある「明石城

兵庫県明石市

お城の歴史と城主

「大坂の陣」の戦功で明石、三木など10万石を与えられた「小笠原忠真」に、「徳川秀忠」から西国大名に睨みを効かせる目的で明石にお城を築くよう命じられました。

 

1619年に「建部政長」等を普請奉行として派遣し、普請費用も幕府が全面的に負担し、「三木城」「船上(ふなげ)城」「高砂城」等の部材も使用しながら1620年に完成しました。

 

因みに、「小笠原忠真」は、「徳川家康」の曾孫にあたります。1632年「忠真」は「小倉城」へ移封となり、その後は「戸田松平家」「大久保家」「藤井松平家」「本多家」等の譜代大名が入城し、1682年以降は「越前系松平家」の「松平直明」が入城し、以降「越前松平家」が幕末・維新まで領有します。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

お城は、西側から東側へ「捨曲輪」「稲荷曲輪(西の丸)」「本丸」「二の丸」「東の丸(旧三の丸)」が一直線に並ぶ「連郭式」縄張りで、特に「本丸」から「東の丸(旧三の丸)」にかけては、南側、北側ともに高石垣で防御を固めています。また北側には堀を伴う「北の丸」を置いて北側からの守りも固めています。

 

また、この連郭式の高石垣の南側の平地は「本三の丸」と呼ばれて下屋敷となっていましたが、1628年の「本丸」の火災以降は、「本丸」に御殿を再建せず、この場所に居屋敷を建てて藩主の御殿替わりになります。

 

最後の砦となる「本丸」~「東の丸(旧三の丸)」の各曲輪は、万一、西国外様大名が攻めてきても、「明石城」で食い止めるとの強い意思が感じられるお城となっています。

 

「天守」は建てられずに、「天守台」だけが五重天守が建てられる規模の大きさで「坤櫓」の後ろに築かれています。

 

ただ睨みを効かす為に、本丸の四隅には三重櫓を建て、二重櫓6基、平櫓10基の大城郭でした。

 

縄張り絵図 ↓

現在地図と縄張図 ↓

<本丸跡内の現存「三重櫓」>

当初の「本丸」は「本丸御殿」が置かれ四隅に「三重櫓」を配置し北から東、南側にかけて「多門櫓」が築かれていたようですが、現在は、「巽櫓」と「坤櫓」の二基が残るだけで、いずれも重要文化財に指定されています。

 

本丸跡 ↓

本丸跡周囲を取巻く石垣(多門櫓台跡) ↓

 

前述のように、対「西国大名」対策として急ごしらえの築城だったこともあり、「坤櫓」は「伏見城」から移築されたものだそうです。

 

四基の内、三基は明治34年まで残っていましたが、残っていた「乾櫓」の痛みが激しくて解体されました。また、1995年の阪神淡路大震災では櫓台の崩落と櫓の傾きがあったことから、曳家工法で櫓を移動させて石垣の積みなおしが行われ、現在は元の位置に復元されています。

 

乾櫓台 ↓

艮櫓台 ↓

 

現存二基の「巽櫓」(南側から見て右側)と「坤櫓」(南側から見て左側)は、三層三階の層塔型で白漆喰総塗籠で同じような様相をしていますが、よく見ると右左は少しずつ異なります。最も大きな違いは、「巽櫓」の正面は「平側」(建物の側面)である一方「坤櫓」の正面は「妻側」になっていて変化をつけています。

 

その他の特徴的な違いですが、

・「巽櫓」→初重正面に軒唐破風、二重目正面に千鳥破風、初重西面に千鳥破風、二重目西面に破風なし、北面初重破風なし、北面二重目千鳥破風、北面には窓が全く無し

 

「南大手門」跡桝形から「巽櫓」(右)と「坤櫓」(左) ↓

「巽櫓」(正面南面は平側) ↓

「巽櫓」(南下から見上げる、初重に軒唐破風・二重目に千鳥破風) ↓

「巽櫓」(東面側から見る、奥に「坤櫓」) ↓

「巽櫓」(北東側から、北面には窓が全くない) ↓

「巽櫓」(西面) ↓


 

・「坤櫓」→初重正面に千鳥破風、二重目正面に軒唐破風、初重東面に破風なし、二重目東面に重ね破風(軒唐破風上に千鳥破風)、北面初重千鳥破風、北面二重目破風なし

 

「坤櫓」(正面南面は妻側) ↓

「坤櫓」(西面を見上げる) ↓

「坤櫓」(北東側から、最上階の入母屋内妻側が赤く見えるのは「木連(きづれ)格子)」の為) ↓

「坤櫓」(本丸跡の北東側から、右は天守台) ↓

「坤櫓」(東面、二重目には軒唐破風上に千鳥破風を重ねた「重ね破風」) ↓

「坤櫓」と「巽櫓」の間を繋ぐ「土塀」 ↓

 

<本丸内の天守台>

本来であれば「天守台」は表に出る場所に積上げますが、敢えて奥まった場所に築いていることから、最初から「天守」を建てるつもりはなく、10万石の格式だけを保つ目的で積上げられたと言われています。

 

「天守台」の高さは高くなく、石を若干加工した「打込接」で「乱積み」になっています。また、隅石は最高技術水準ではないですが「算木積み」が採り入れられています。

 

天守台 ↓

「天守台」の上(南方向) ↓

 

本丸内の門

「本丸」の出入口は二か所あり、一箇所は「北の丸」へ下る「北門」、もう一つは「二の丸」と「本三の丸」へ出る「東門」でいずれも門跡の石垣が残ります。

 

本丸東門跡 ↓

本丸北門跡 ↓

 

<二の丸・東の丸(旧三の丸)等>

「二の丸」も最強の守備力を誇り南側は高石垣が続き、「本丸」に近い所から階段を上がると「二の丸虎口」の櫓門「大の門」があって、そこから「二の丸」に入城し、更に「本丸」へは「東門」から入城します。

 

本丸跡と二の丸跡の間の高石垣 ↓

二の丸跡の南側高石垣 ↓

二の丸虎口(大の門)跡 ↓

二の丸虎口(大の門、櫓門)跡 ↓

 

現在の「二の丸」跡は、木が茂り南側からの景観が良いのでベンチ等が置かれていますが、北側は土塁が東側に延びます。

 

二の丸跡 ↓

二の丸跡北側の土塁(左下は高石垣) ↓

 

当時「二の丸」東側には枡形となった門があり「東の丸(旧三の丸)」の出入口へ繋がり、現在もその石垣が残ります。また、その東側には細長い「東帯曲輪」が設けられて、「南帯曲輪」として「二の丸」「本丸」の高石垣の下まで延びています。また、「東帯曲輪」の東面の石垣には「刻印」が付いた石が見られます。

 

二の丸跡から東の丸跡への虎口石垣(手前が東の丸跡) ↓


東帯曲輪跡 ↓

東帯曲輪跡下から北方向 ↓

刻印付の石垣 ↓

東帯曲輪跡を下りた所から巽櫓と坤櫓を望む  ↓

「南帯曲輪」跡 ↓

 

「東の丸」の北側には、「北の丸」に繋がる立派な「東の丸北の門」の枡形石垣が見られます。

 

東の丸の「北の門」跡 ↓ 

 

<北の丸>

北側の縄張りは「北の丸」と呼ばれ、その大半が「桜堀」を施し鬱蒼とした森となっている上に、その南側には「本丸」と「二の丸」の高石垣が続きますし、東側には「薬研堀」と空堀の「箱堀」更に「横堀」「千石堀」が置かれていますので、なかなか近づくことが容易ではなかったと思います。現在は、東側から「箱堀」「薬研堀」「桜堀」が現存します。

 

箱堀(空堀) ↓

薬研堀 ↓

桜堀(本丸、二の丸の北側の高石垣下) ↓

本丸・二の丸跡北側の高石垣(桜堀から見上げる) ↓ 

本丸跡北側の高石垣(桜堀から見上げる) ↓ 

 

<稲荷曲輪>

「桜掘」から坂を上がり「万の門」跡を抜けると「稲荷曲輪」跡に出ます。また「本丸北門」から「稲荷曲輪」に降りるルートもあります。

 

「稲荷曲輪」は、「本丸」西側の一段下に設けられた大きい曲輪で、西側には「本丸」跡で「天守台」の石垣も見られます。そして東南隅には「櫓台」跡が残ります。

 

万の門跡(桜堀から稲荷曲輪への門、手前が稲荷曲輪跡) ↓

稲荷曲輪跡 ↓

稲荷曲輪跡(左上が本丸跡、天守台石垣) ↓

稲荷曲輪跡内で左奥に隅櫓跡 ↓

 

「稲荷曲輪」の南東隅からは、「南帯曲輪」或いは「本三の丸」に降りることができます。

 

三の丸へ下りる、坤櫓から北へ延びる土塀 ↓

 

<本三の丸>

高石垣の下側の広大な敷地には、東側に藩主の「居館」が設けられた「本三の丸」が置かれ、西側には「内堀」で囲われた「下屋敷」や「家老屋敷」がありました。現在は、その「内堀」全て埋められて公園の芝生や「第一野球場」の下になっています。

 

下屋敷跡(現 第一野球場) ↓

下屋敷跡 ↓

 

東側の「本三の丸」跡地には、「宮本武蔵」が「樹木屋敷」内に造園した庭が再現されていてその入口に当たる所に門が建てられています。

 

ここは、藩主「小笠原忠政」の命を受けた「宮本武蔵」が作庭し、樹木屋敷・泉水・築山・滝を設けた城主の遊興所として使用されました。 

 

宮本武蔵樹木屋敷入口 ↓

宮本武蔵造園の庭園 ↓

 

「本三の丸」には、中央に非常に大きな「南大手門(太鼓門)」枡形があり、東西にも枡形を導入した大きな「東(不明)門」「西(不明)門」がありました。そして「本三の丸」の南側、東側、西側にかけては、幅広の「中堀」で守られています。現在でも、満々と水を湛えていて、噴水から水が跳ね上がっています。

 

中堀(南大手門跡の西側) ↓

中堀(南大手門跡の東側) ↓

南大手門の枡形石垣 ↓

西不明門 ↓

東不明門 ↓

西不明門 ↓

 

JR山陽本線の「明石駅」からは、真北側に二つの櫓と土塀が美しく並ぶ光景を写真に納めることができるビューポイントであります。

 

JR山陽本線「明石駅」から望む ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村