只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

木造復元“天守”現存“と”太鼓櫓、後段は”二の丸御殿”と”櫓門”の「掛川城(1)

静岡県掛川市

歴史と城主

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初で、それは現在の「掛川古城」でした。

 

その後「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込み、「家康」は「掛川古城」を本陣にして攻め立てます。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、「家康」が関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主交代が有りました。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

立地は、中小河川によって形成された沖積平野にある標高57mの独立丘陵にある平山城です。

 

丘陵最頂部に「天守丸」を置き、「本丸」をその南側下の前面に配置し、「二の丸」「三の丸」等主曲輪がそれを取り囲む「梯郭式縄張り」を採用していました。これは「山内一豊」によるものです。

 

城山の南を流れる「逆川」を「外堀」として取り込み、その内側には「松尾丸」と「内堀」によって「本丸」を防衛していました。

 

主要部分の昔の配置図(現地に掲出) ↓

縄張り絵図(デアゴスティーニ「日本の城」より) ↓

 

本丸>

復興「四足(よつあし)門」前の階段を上がると、右手には「三日月堀」が水を湛えています。正面には「本丸」跡の入口である「本丸門」跡の石垣が構えます。

 

復興「四足(よつあし)門」 ↓

「三日月堀」 ↓

 

お城に近づくにつれ、「天守」と共に目に入る「太鼓櫓」(市指定文化財)が「本丸門」石垣南側の「荒和布(あらめ)櫓」台の上に1955年に現存移築されて建っています。一重目の建物が多聞櫓風でその上に望楼が付き、外壁は下見板張りで柱を見せる「真壁づくり」、内部に「太鼓」が置かれて時を刻んでいた櫓です。

 

「荒和布(あらめ)櫓」台の上に現存移築された「太鼓櫓」(市指定文化財) ↓

現存移築され「太鼓櫓」(登城路から見下ろす) ↓

 

その下を通り抜け入場券を購入して入った前の花壇広場が「本丸」跡で、「本丸御殿」が建ち並んでいた場所です。そして、左下には堀代わりの「松尾池」が「本丸」南側を守備していたようですが現在は失われています。

 

「本丸(本丸御殿)」跡 ↓

 

「天守」へは右側のつづら折れになった「登城路」を上っていき、途中に建っていた二重櫓の「腰櫓」台跡から「登城路」は向きを変え、土塀が石段に沿って上がっていきます。

 

「天守」への「登城路」 ↓

「登城路」沿いの復元「土塀」 ↓

 

登り切った所には「冠木門」が築かれていますが、そこには当時、櫓門が建っていた「天守下門」跡になります。

 

「冠木門」が建つ場所が「天守下門」跡(「天守」から見下ろす) ↓

 

「天守丸」周囲には白壁の土塀が控柱を伴って取巻き、深さ45mで日本で第3番目(※)の深さだという大きな石の上に井桁がある「霧吹き井戸」が横たわります。この井戸は、「家康」が「今川氏真」を攻めた時に、ここから霧が吹きだし城を見えなくしたという伝説がある井戸です。

 

「天守丸」跡を取巻く復元の「土塀」 ↓

「霧吹き井戸」 ↓

 

 <天守外観>

「天守」は、三重四階の「望楼型」、東西両側に「張出り」を設け、南側には「付櫓」で大きく見せる工夫を行うと同時に、二重目の出窓には「唐破風」を付けて壁には「華頭窓」、最上階には周囲を「廻縁・高欄」を施して格式を上げています。

 

1854年の「安政東海大地震」で倒壊し、1994年に木造復元されました。

 

前述のように、張出し、付櫓、出窓が付随していますので、見る方向によって様々な見え方がする「天守」で、面白みが有ります。以下、様々な方向からの写真を掲載しますのでどうぞご覧ください。

 

1階の東西「張出し」が良く解る写真(南面) ↓

「唐破風」、出窓の「華頭窓」、「廻縁・高欄」が良く解る(「本丸」跡=南面から見上げる) ↓

「付櫓」と「登城路」の「土塀」が良く解る(南東方向から) ↓

1階の東「出張り」が良く解る(東南からやや東方向、「二の丸御殿」から見上げる) ↓

1階の東「出張り」が良く解る(東からやや北東方向、「下台所」跡付近から) ↓

ライティングされている薄暮の「天守」(南東方向) ↓

 

「天守」を支える「天守台」は5~6段の石垣であまり高くはなく、「打込接(うちこみはぎ)・乱積み」となっています。

 

「天守台」  ↓

 

「天守」西側と東側1階の「天守台」との間には、「忍び返し」を設えています。これは、当時設備されていて復元したのか、それとも「山内一豊」が「高知城天守」で採用した「忍び返し」を当城の復元に当たって採り入れたのかは不明です。

 

「天守」西側に設えた「忍び返し」 ↓

 

「天守」館内へは「付櫓」から入城します。復元されて30年余りにもなりますが、内部の木造はまだ美しいままです。

 

「付櫓」からの入館 ↓

 

天守内部>

1階の天井が高く、階段も急角度で、周囲は「武者走り」を設けています。隅の天井には「火打ち梁」で耐震強化を図っています。

 

非常に高さのある1階と急角度の階段 ↓

2階から見下ろす1階 ↓

1階の武者走り ↓

1階の「石落とし」 ↓

1階天井の隅に施された「火打ち梁」 ↓

 

2階は梁が低いですが、窓が多く明るいフロアになっています。

 

天井は低い2階 ↓

2階壁面に「狭間」 ↓

2階から3階への階段 ↓

 

最上階は、四面に開放的な大きな窓を設けて、窓越しには周囲を取り巻く「擬宝珠」付きの「廻縁・高欄」が目に入ります。また天井には天井板が張られています。

 

最上階の開放的な窓 ↓

最上階を取巻く「廻縁・高欄」 ↓

最上階の板が張られた「天井」 ↓

 

「天守」を下りて「二の丸」跡へ向かいましょう。「本丸」跡と「二の丸」跡の間には、「三日月堀」よりも大きな「十露盤(そろばん)堀」が横たわります。

 

「十露盤(そろばん)堀」 ↓

 

次の「掛川城(2)」では、重要文化財の「二の丸御殿」や復元された「大手櫓門」等をみていきたいと思います。

 

 

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