只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
”信長”が天下統一を掲げたお城でルイス・フロイスも記述した「岐阜城」
(岐阜県岐阜市稲葉山)
●城主と歴史
「織田信長」が、「岐阜城(当時は、稲葉山城)」を天下統一の偉業に踏み出すお城としたのが1560年代後半ですが、それに至るまで様々な「稲葉山城」奪取の攻防がありました。
JR「岐阜駅」前に立つ「織田信長像」 ↓
「稲葉山(現在は金華山)」に砦が築かれたのが1201年、その後15世紀中頃に美濃の守護代であった「斎藤家」が城を修復して居城としますが、その家臣であった「長井家」が城を奪います。その「長井家」の息子であったのが「斎藤道三」で1533年に城主になります。
「斎藤道三」絵(隅櫓内資料館に掲出分) ↓
「斎藤道三」の娘(濃姫)を妻として娶ったのが「織田信長」でしたが、「道三」は嫡男の「義龍」に殺害されたことで、「岳父」を殺害された「信長」は「岐阜城(稲葉山城)」を攻めます。「義龍」の嫡男「龍興」が城主となり「信長」の攻撃を交わしますが、城内の謀反によって当城が「信長」のものとなりました。
「斎藤義龍」絵(隅櫓内資料館に掲出分)
● お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
標高329mの「稲葉山(金華山)」山上の「山城」と、麓の「城館」で構成されていて、特に「織田信長」時代には、麓の拡充を行いました。
山上の「山城」の曲輪は、「稲葉山(現在、金華山)」の尾根を利用した「連郭式」のお城で、「天守」に向かって徐々に登っていきます。途中、座敷があった「台所」から「土橋」を渡って「天守」に繋ぎます。
岐阜城山頂の曲輪 ↓
一方、山麓の「信長居館」は、西側山麓の槻谷(けやきだに)入口に建てられ、この曲輪を「千畳敷」と呼ばれます。「信長」時代には、壮麗を極めた四階の「楼閣」があったことを、宣教師であった「ルイス・フロイス」が1569年に訪問した時の記録として「日本史」に記載があります。
<山上部分>
現在、麓から登城コースが5箇所ほどありますが、最も簡単なのはロープウエイを使用する方法です。
金華山山頂に聳える復興「天守」 ↓
山上のロープウエイ降車で降りると、「天下第一の門(冠木門)」があります。これは、当時の遺構跡に建てられたものではなく、後世、「織田信長」が「岐阜城」を皮切りに天下統一の偉業を目指した事を湛えて建てた門らしいです。
天下第一の門(模擬「冠木門」) ↓
まず最初に巨石が転がる「伝一の門」跡は、その左上にあった「太鼓櫓」が「一の門」を監視していたようです。櫓台はゴツゴツした岩で「太鼓櫓」跡には、現在レストランが建っています。(※「伝」とは、伝説、言い伝え)
伝一の門跡 ↓
太鼓櫓台跡(現在上にレストランが建つ) ↓
「伝一の門」跡を通り抜けた細長い敷地は「馬場」跡です。そこから少し上がった所には、尾根をV字カットした「堀切」(切通しとも)を設え、簡単に「天守」まで行かせない仕掛けが設けられています。現在はその上を朱色の橋が架けられています。
馬場跡 ↓
堀切(切通し)跡 ↓
「堀切」を渡る朱色の橋 ↓
そこを通り抜けると「伝二の門」跡が構えていて、その中が「伝下台所」跡敷地となります。現在「伝二の門」跡には「冠木門」が入口として構えています。
「伝下台所」は、宣教師「ルイス・フロイス」の著書によると、若い貴人数100人程が生活をしていた座敷だそうで、「信長」支配下の領主の子供たちを住まわせていた場所のようです。
伝二の門跡に建つ模擬「冠木門」 ↓
伝二の門・伝下台所跡 ↓
階段を上がり平地になっている「台所」を経ると、真正面に「天守」が現われ攻め上がってきた敵に対しては脅威を与える造りとなっています。
「台所」跡から見える復興「天守」
「土橋」手前から望む復興「天守」 ↓
「台所」跡から「天守台」までを繋ぐ細長い「土橋」の土台両壁面には「野面積み」の「高石垣」が積まれています。この「高石垣」は東側下にある道から見上げることもでき、その脇には「井戸」が残ります。また、「土橋」手前を西側へ下りた所にも「井戸」があります。
台所跡と天守台を結ぶ土橋側面の高石垣
「土橋」下から見上げた「石垣」 ↓
石垣東下の「井戸」 ↓
「土橋」手前の西下にある「井戸」 ↓
<山上部分 天守>
現在建っている模擬天守の「天守台」の石垣は、「野面積み」で隅石の積上げがありますが、「算木積み」が未発達の時代の様子がよくわかります。発掘調査で現在の天守台の西側に織田信長時代の「天守台」が見つかったとのニュースもありましたが、長さ180㎝、高さ70㎝ですので僅かな発見です。
1579年建築の「安土城」の天守が「織田信長」が造った最初の「天守」と言われていましたが、「岐阜城」の方が日本最古の可能性が高いとも指摘されています。
天守下の石垣(算木積みが未発達) ↓
天守台の野面積み石垣 ↓
「天守」に関してですが、現在のモノは望楼型の復興「天守」で1956年(昭和31年)に建てられたものです。しかし驚くことに、これは2代目の模擬「天守」で、その46年前の1910年(明治43年)には、日本最古の復興「天守」として建てられたものがありました。それは残念なことに、1943年(昭和18年)に失火で焼失してしまいました。
復興「天守」 ↓
復興「天守」入口(東面) ↓
1910年築の日本初の復興天守(「隅櫓」風の資料館に掲出) ↓
1910年築の日本初の復興天守(「隅櫓」風の資料館に掲出) ↓
因みに、現在建っている最古の模擬復興「天守」は、1928年(昭和3年)に築城された「洲本城」です。
その18年も前に「岐阜城」が復興建築されていることを考えると、当時日本の中では、戦国時代を治め天下統一を果たそうとした「織田信長」という人物を大いにリスペクトしたい、その偉大な人物が建てた「岐阜城」は是非とも復興させたいという機運があったのではないかと思います。
更に「天守」についてのお話ですが、「織田信長」時代の「天守」であるのか、その後1584年に入城した「池田輝政」時代の「天守」であるのかはわかりませんが、「岐阜城」の「天守」は、現在の岐阜駅南側に拡がる「加納城」の天守代用の「御三階櫓」として、江戸時代初めに「徳川家康」によって行われた「天下普請」の「加納城」築城の際に移築されました。
その時の古文書や「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図が残っていたことから、それを参考にして再築されたのが、現在の「岐阜城」の復興「天守」だそうです。
岐阜城天守を奥平信昌が加納城へ移築した際に記された絵図 ↓
復興「天守」は、三層四階で最上階からは、濃尾平野を一望できる素晴らしい風景を見渡すことができます。
天守内 ↓
天守内展示の「信長南蛮具足」 ↓
天守最上階 ↓
天守最上階展望 ↓
天守から下界を見る ↓
「天守」から出て東側に少し下った所に「隅櫓」風の資料館が建ちます。その中で最も興味を引いたのは、先程の明治時代に建てられた復興「天守」の写真及び「加納城」の「御三階櫓」の立面絵図です。
隅櫓風の資料館 ↓
<山麓部分(信長居館)>
さて、ロープウエイで山麓に下りると「信長居館」跡を見ることができます。
この山麓の「居館」は、西側山麓の槻谷(けやきだに)入口に建てられ、この曲輪を「千畳敷」と呼ばれます。「信長」時代には、壮麗を極めた四階の「楼閣」があったことを、宣教師であった「ルイス・フロイス」が1569年に訪問した時の記録として「日本史」内に記載があります。
信長居館の宮殿と奥座敷絵図 ↓
ロープウエイから見下ろす山麓の信長居館跡 ↓
1984年から発掘調査が行われ、2012年(平成23年)の居館跡発掘調査では、かなりのことまでが発掘調査によって分ってきたようで、当時の「信長居館」をコンピューターグラフィック(CG)によって再現されています。
発掘状況(現地で掲出-随分前のモノです) ↓
前述の宣教師「ルイス・フロイス」の文献「日本史」に書かれた「驚くべき大きさの石垣、1階に20室もの部屋がある、内部は純金で縁どって豪華絢爛であり、前廊の外には四つ五つの庭がある」等が証明できたようです。
宮殿と奥御殿のCG(天守内に掲出) ↓
四階建て宮殿CG(天守内に掲出) ↓
「信長居館」跡は、入口に模擬「冠木門」を建てて、「斎藤氏」時代の遺構なども見ながら「千畳敷」跡へクランクした通路で誘導されます。「千畳敷」跡「虎口」部分にも石垣を積み、横矢も掛かる石垣部分も見られます。
信長居館跡の入口に建つ冠木門 ↓
クランクした通路 ↓
信長居館跡 (稲葉山城時代の遺構も見られる、斎藤氏時代の遺構) ↓
信長居館跡 (千畳敷の入口) ↓
信長居館跡 (千畳敷の入口の石積み) ↓
信長居館跡 (初期の石垣、入隅と出隅になり横矢を導入) ↓
「千畳敷」と言われる平坦な敷地には、「四階建ての宮殿(山麓御殿)」を始め「前廊下と歩廊下が併設した大広間」、「劇場風の建物」、「内庭」などが配備されていたようです。また金箔が貼られ瓦を持つ建物も存在していたようです。
信長居館の中枢について ↓
金箔飾瓦が付く建物があった場所から庭園方向 ↓
信長居館跡 (千畳敷跡内の庭園跡) ↓
更に、「千畳敷」の奥の山裾には「千畳敷」から廊下を伝って「奥座敷」を設けたり、滝を造って庭園にしています。
信長居館(奥座敷跡方向) ↓
「織田信長」が、後に建てる「安土城」は、この「信長居館」で色々と試されて造られた建造物や庭園、石垣が導入されたものと思われます。
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