只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

日本最高所にあり山の地形と石垣を最大限に活用した山城岩村城(1)

岐阜県恵那市

城主と歴史

12世紀後半に「加藤氏」が城を築いたとされ、その後「加藤氏」は「遠山氏」と名乗ります。そのうち「遠山影任(かげとう)」は、「織田信長」に臣従し、1570年に「武田方」から攻められますが、その時には「明智光秀」が援護撃退します。

 

「影任」が亡くなったので、「信長」の五男「勝長」をその養子としますが、「影任」の未亡人(「信長」の叔母)は、幼少の「勝長」に代わって女城主として采配を振るいました。

 

しかし、武田方の「秋山信友」は、再度攻城を行うとともに女城主に求婚してそれが受け入れられたことで「勝長」が人質として甲斐へ送られてしまいます。これに激怒した「信長」は、「岩村城」を攻めて奪還するとともに、「信友」とともに女城主も処刑しました。

 

その後は、「本能寺の変」で「信長」とともに死んだ「森蘭丸」の兄「森長可(ながよし)」が城主になって城を改修しますが、「小牧・長久手の戦い」では「羽柴方」で憤死し、その弟が入ります。しかし「関ケ原の合戦」では西軍で戦ったので攻撃を受け、戦後は「松平(大給)家乗」が入ります。

 

その後、「丹羽家」が入封して4代続きますが、1702年に再度「松平(大給)家」が入ってからは藩主が定着し、幕末・維新まで続きます。

 

お城の概要と特徴

「岩村城」は、山麓の「藩主邸」、山上の「山城」、城下の「伝統的建造物群保存地区・岩村町」の3つから構成されています。今回は、まず「藩主邸」を見てから「山城」へ向かい、最後に城下を少し散策してみます。

 

<藩主邸>

「明知鉄道」の「岩村駅」から城下の「伝統的建造物群保存地区・岩村町」を抜けて約30分で到着します。

保存地区から「常夜燈」のある所を左に曲がり、更に右に曲がった所に藩校「知新館」跡があり、その前にある藩政時代に藩校生徒が喉を潤したという井戸「温故の井」が残ります。

 

藩校生徒が喉を潤した「温故の井」 ↓

 

「藩邸」跡の少し手前から石垣の段が見られ、関連建物が建っていたと思われますが、すぐ前には、「藩主邸跡」に建つ復興「太鼓櫓」が建っています。

 

復興の「御正門」「平櫓」そして現存移築された藩校の「知新館正門」と共に邸跡西隅に並んで建つ姿は、我々観光客をお迎えするように謙虚に見えます。

 

復興「太鼓櫓」と復興「御正門」 ↓

復興の「御正門」 ↓

復興の「太鼓櫓」「御正門」「平櫓」 ↓

現存移築された藩校「知新館正門」 ↓

 

「御正門」の階段を上って拡がる広場は非常に広く、奥に建つ「岩村歴史資料館」は小さく見えます。戦国時代には、山上の「本丸」を居城としていましたが、1601年に入城してきた「松平家乗」はこの山麓に居館を設けました。

 

「藩主邸宅」跡(奥に「岩村歴史資料館」、右は現存移築された「知新館正門」 ↓

 

「岩村歴史資料館」手前の少し判り難い所には、江戸幕府の儒家である「林大学頭」の「林淡斎」が、藩主「松平乗保」(老中で78歳まで存命の長寿大名)に寄贈した灯籠が立ちます。これは、江戸藩邸にあったもので、昭和47年に「松平家」が岩村へ寄贈したものですが、わかりづらい所に立つのが残念です。

 

儒家「林大学頭」の「林淡斎」が、藩主「松平乗保」に寄贈した灯籠 ↓

 

<山城の縄張り>

「本丸」は、山頂721mの最も標高が高い場所に置かれた山城で、山の形や急峻な地形を巧みに利用しながら縄張りを行い、曲輪は、「本丸」「二の丸」「東曲輪」「帯曲輪」「出丸」「八幡曲輪」を設けています。

 

山上に向かうまでに、多くの門跡や櫓跡に遭遇し、石垣は総延長約1.7kmあり約4万個の石が使用されているという素晴らしい光景が目にできます。

 

縄張図 ↓

 

 

<八幡曲輪まで>

それでは登城口から、順番に上りながら紹介していきたいと思います。

 

登場口から「一の門」までは、「藤坂」と呼ばれる長い坂が続きます。途中、有事に備えて門を設ける「初門」は、非常に急で行く手を大きく曲げた箇所があります。「土岐門」辺りまでは、畳石が敷かれています。

 

藤坂 ↓

「初門」跡 ↓

 

各ポイントには、解説と併せて、どのような建造物がどのような配置で置かれていたかが解る絵図が掲出されているのと、解説板下のバーコードにスマホを近づけるとその当時のCG映像が映し出される仕組みとなっていて、非常にバーチカルに理解できるようになっています。

 

「一の門」は、櫓門が建ち、右には多聞櫓、左には土塀、手前は石垣を大きく張り出させて死角を作ったような所があり、現在は石畳に沿って石垣が続きます。また、右上の曲輪には「番所」を置いて監視していました。

 

「一の門」跡 ↓

 

そこから左へ階段を上がると第二の門である「土岐門」があり、「薬医門」か「四脚門」が建っていたそうです。門の名前の謂れですが、「土岐家」を破ってその戦勝の意味を込めて「土岐家居城」の門を移築したことから名付けられたらしいです。

 

「土岐門」跡内側から(下の方に「一の門」上の番所跡が見える) ↓

 

「土岐門」に続く第三の門が「追手門」で、手前には「畳橋」が空堀の上にL字型で架かり、その奥には「三重櫓」が睨みを利かせていました。「三重櫓」は、城内最大の建造物で、天守代用として、城下からも見えるような位置に置かれていました。

 

現在「畳橋」跡は道になっていますが、「追手門」跡の石垣や「三重櫓」の櫓台、「空堀」の一部は残されています。

 

「畳橋」解説 ↓

「追手門」跡と「畳橋」跡 ↓

三重櫓台 ↓

三重櫓台 ↓

 

ここを抜けると、両側の曲輪の間に真っすぐな道が延びていて、左側は「八幡曲輪」、右側には「竜神の井戸」を持つ大きな「曲輪」があります。

 

真っすぐな道の左側は「八幡曲輪」右側は「霧の井」がある曲輪 ↓

 

特に、右側の更に上段の曲輪内には、「霧ケ井(きりがい)」という城主専用の霊泉があって、敵が攻めてきた時に蛇骨を投げ入れると霧に覆われて城を守るという伝説がある井戸です。「霧ケ城」とも言われる当城名は、そこから付けられたもので、現在も、前述の「竜神の井戸」とともに健在です。

 

「霧ケ井(きりがい)」という城主専用の霊泉 ↓

 

左手の「八幡曲輪」も広く、その最奥部には「遠山氏」が崇敬していた「八幡神社」が造営されて「本殿・拝殿」と「八幡櫓」が建っていました。現在は、曲輪を囲う石垣と「八幡社」へ上がる階段が残る程度です。 

 

「八幡曲輪」内の「八幡神社」跡 ↓

「八幡曲輪」の石垣の算木積み ↓

 

<二の丸、東曲輪>

その斜め右手に拡がる曲輪が、城内最大の曲輪の「二の丸」で、番所、役人詰所、朱印蔵、武器庫、米蔵等が並んでいて、その中心部には「弁天池」が掘られていました。しかし現在は、木々に覆われて中まで入ることができない状態です。

 

「二の丸」より一段高い曲輪の角には「菱櫓」が建てられていました。ここは、敷地の角地ですが地形が方形となっていないことから、地形に併せて角度が90度を超えて拡がっています。

 

「菱櫓」台跡(丸みを帯びている、奥に「六段壁」が見える) ↓

 

この前には、二重櫓門の「俄坂(にわかさか)門」が建っていて、戦国時代までは「岩村城」の正門だったようですが、現在は、そこからの下り道の跡が見られる程度で石垣等もみることはできませんでした。

 

「俄坂門」跡 ↓

 

さて「岩村城」の最大の見せ場である「六段壁」が真前に鎮座しています。見事なまでの段々で、元々は高石垣であったものが、江戸時代後期に石垣の崩落を防ぐために下段へ石垣を継ぎ足し、継ぎ足しを繰り返した結果出来た石段だそうです。

 

真正面からの「六段壁」 ↓

やや下から見上げた「六段壁」(左下には巨石) ↓

「東曲輪」後横から見上げた「六段壁」 ↓

「六段壁」ですが「七段壁」に見える(一番上は本丸「埋門」の門台か?) ↓

 

階段を上がり左手に拡がる「東曲輪」に上がると、そこは「本丸長局」の一段下にあたり、「本丸」に対する外枡形的機能を持たせていて、「二重櫓」が建っていました。現在は広場です。

 

「東曲輪」跡(南方向から) ↓

「東曲輪」跡から撮った「本丸長局埋門(ながつぼねうずみもん)」跡 ↓

 

<本丸>

「本丸長局埋門」は、「東曲輪」から「本丸長局=本丸下段」に入る門です。「本丸長局」とは、「本丸」の一部としての位置づけで一段下の曲輪(本丸下段)であって、細長い帯曲輪的に「本丸上段」を取り囲んでいました。そして「本丸長局」から「本丸」へ入る門は三か所設けられていました。

 

長局埋門(真ん中が帯曲輪の「長局」跡、右側が「本丸上段」跡の石垣) ↓

 

三か所の門の内、東側にある「東口門」が「本丸」の表門(正門)で、内枡形となっていています。絵図では、右側の石垣上は土塀が、左側の石垣上には左方向へ「多聞櫓」が延びていました。そして左に折れた先には、現在「礎石」が見られます。「東口門」は、「長局埋門」とセットで見るべきなのかもしれませんが、ここでは別モノとして記載します。

 

「本丸東口門」跡(内枡形で「長局」から「本丸」への入口) ↓

「本丸東口門」跡の礎石と奥が「本丸」跡 ↓

 

そして「本丸」の裏門にあたる門が、北側にある「埋門」でこちらは外枡形となっています。非常に複雑な構造です。現在も、良く石垣や礎石が残り、特に「野面積み」「打込接」「切込接」の三種の積み方の異なる石垣が見られる貴重な場所となっています。

 

「本丸裏門」にあたる埋門(ここが出口、奥の石垣は「打込接」か、左側の櫓台の左面は「野面積み」) ↓

「本丸裏門」にあたる「埋門」の礎石 ↓

「本丸裏門」(折れ曲って右へ下りる、正面の石垣は「切込接」のように見える) ↓

 

「本丸」は、結構広大で中心部分には建造物がなかったそうですが、北西隅に二重の「納戸櫓」が、南西隅には「二重櫓」がそれぞれ置かれ、西側と東側には「多聞櫓」が築かれていました。また、東南隅には「昇龍の井戸」が掘られ、岩村城内には17もの井戸が確保されていました。現在は、各櫓と多聞櫓跡の石垣が残り、「昇龍の井戸」も水を湛えています。

 

本丸絵図 ↓

「本丸」跡 ↓

本丸北西隅の「納戸櫓」跡 ↓

「本丸」跡南東隅にある「昇龍の井戸」 ↓

 

「本丸」跡東西からは遠くまで見渡すことができます。特に「本丸」西側から見下ろす、或いは見上げる絶壁の険しさには凄いものがあります。

 

「本丸」跡から城下を見る ↓

「本丸」跡の断崖絶壁の西面石垣 ↓

「本丸」跡の断崖絶壁の西面の「鉢巻・腰巻石垣」 ↓

 

<出丸、南曲輪>

「本丸」の南東には「出丸」曲輪があり、こちらには「二重櫓」の他に「太鼓櫓」や「武者隠多門」等が置かれていたようです。現在は、駐車場と管理事務所のような建造物が建ちます。

 

「出丸」跡 ↓

 

「本丸」跡の南下を現在は通り抜けするような道路が有りますが、その道越しに「南曲輪」が配置されていました。「南曲輪」は、戦国時代の曲輪で、江戸時代には一部武家屋敷として使用されていたようです。現在の「南曲輪」跡は、二か所の堀切、竪堀等が存在しているようで、手前に「堀切」が見えます。

 

「南曲輪」跡の「堀切」 ↓

 

山上の山城から一気に下山して「藩邸」跡まで下ります。そこから、今度は「重要伝統的建造物保存地区」である城下の「岩村町」を紹介したいと思います。この城下には「岩村城」の遺構も残っていますので次回ブログにご期待ください。

 

 

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