只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
(石川県七尾市)
●城主と歴史
能登守護に任じられた「能登畠山家」が、在国の守護大名となって15世紀の始めに石動(せきどう)山系の尾根に小規模な砦を築きました。
7代「畠山義総(よしふさ)」の時に、戦国の城郭として縄張りが整備され、七つの尾根に拡がりました。
「義総(よしふさ)」は、室町幕府や朝廷との関係を深めて自らの権威を強化し、一方では、越後の「長尾氏」や越中の「遊佐(ゆさ)家」等とも同盟を結んで領国の政情安定に努めましたが、「義総(よしふさ)」死後は重臣たちが権力を握り、重臣同士の対立や「上杉家」の能登侵攻によって、「能登畠山家」は滅亡してしまいます。
その後に「上杉家」のお城になり家臣が城代として入りますが、「織田信長」の能登侵攻によって「前田利家」に与えられます。
しかし「利家」は、「七尾城」から山麓の「小丸山城」に移り、更に「金沢城」に移ることによって1589年に廃城となります。
2024年(令和6年)1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」により、「本丸西側」「二の丸東側」「桜馬場」の23カ所の石垣が一部崩落する被害が発生しました。応急復旧はされたものの、2025年11月から10年計画で保存修理工事が進められています。
●お城の概要と特徴
<縄張り>
標高約300mの山上から幾重にも枝分かれした大小の尾根に築かれています。七尾の地名は、特に大きな七つの尾根に由来します。七つの尾根とは、松尾、竹尾、梅尾、菊尾、亀尾、虎尾、龍尾です。
「本丸」が置かれている「松尾」は、東西50m×南北40mで「天守台」が最高所に置かれました。北にかけて曲輪が並び、重臣屋敷が置かれた「遊佐屋敷」、「桜馬場」、重臣屋敷の「温井(ぬくい)屋敷」、「三の丸」「袴腰・靴掛」が並んでいて、「本丸」東下に弓矢等の武具をととのえた「調度丸」を、「桜馬場」の西側、堀切で遮断した所に「西の丸」を配備していました。
それでは、現在の駐車場から最も近い曲輪「調度丸」からスタートして、「本丸」→「遊佐屋敷」跡→「桜馬場」→「温井屋敷」跡→「二の丸」→「三の丸」→「大塚・寺屋敷」を巡って「調度丸」に戻るルートで見ていきます。
七尾城復元絵図 ↓
回遊ルート ↓
<調度丸>
「調度丸」は、戦闘に備えて武具を整えた場所だったそうです。ここには、「石塁」が残っています。この右手には、「桜馬場」の五段の石垣を見ることができ、その迫力は凄いものがあります。
調度丸の石塁 ↓
桜馬場の数段にも及ぶ石塁(この石塁が地震に寄り崩落している) ↓
桜馬場の数段にも及ぶ石塁(この石塁が地震に寄り崩落している) ↓
<遊佐屋敷>
「調度丸」から石段を上がった所に「遊佐屋敷」跡が拡がります。こちらは、守護代をしていた「遊佐家」の居館が建っていました。
調度丸から遊佐屋敷への石段 ↓
遊佐屋敷跡(本丸の西側にあり守護代遊佐氏の居館) ↓
<本丸>
「遊佐屋敷」跡から「本丸」へ登る石段を進みますと、低い石垣を階段状に積上げていく本丸の「三段石垣」が左手に見えます。
本丸への石段(左側は本丸の三段石垣) ↓
本丸三段の石垣 ↓
「三段石垣」の上が「本丸」跡で、本丸の最高所は「天守台」ですが、「天守」は築かれていません。ここから七尾湾と能登半島がよく見渡せる場所です。「本丸」跡は東西50m×南北40mで「二の丸」まで一連の曲輪が続きます。
「七尾城」を攻略した「上杉謙信」は、七尾城外で諸将と月を眺めて漢詩を詠んだそうです。「絵像に写し難き景勝」と絶賛し、「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行の過雁月三更、越山併せ得たり能州の景、さもあらばあれ家郷の遠征を想う」
本丸から臨む七尾湾と能登半島(標高300m) ↓
本丸跡(東西50m×南北40m) ↓
本丸跡に立つ七尾城址脾 ↓
<桜馬場>
「桜馬場」跡は、軍馬を調教する場所で、その北側の斜面には、「調度丸」から見上げた五段の石塁があります。
桜馬場跡 ↓
桜馬場内の石塁 ↓
桜馬場内の土塁 ↓
<温井(ぬくい)屋敷・二の丸>
畠山氏を補佐する8臣の筆頭家老であった「温井家」の「温井屋敷」跡を通り過ぎて「二の丸」跡までの間右手に「九尺石」が横たわります。これは、城の鎮護の要石で石の大きさに因んで命名されました。
温井屋敷跡 ↓
九尺石 ↓
「二の丸」跡は、「本丸」に次ぐ曲輪で、尾根の分岐点となっていて周辺に多くの曲輪が取り巻いていました。そして「三の丸」とは、大きな堀切で遮断されていました。
「二の丸」跡南側の石積み ↓
「二の丸」跡 ↓
<三の丸、安寧寺>
「三の丸」跡は、南北110m×東西25mで曲輪の中で最大規模でした。「三の丸」中央部には、「築地塀」の基礎の石積みが延びていて、重臣の屋敷があったそうです。
「三の丸」跡 ↓
「三の丸」跡の次には「安寧寺」跡があり、そこは、畠山氏墓碑や戦いで亡くなった武士の慰霊碑6碑が立ちます。
安寧寺跡 ↓
安寧寺跡と墓碑や慰霊碑 ↓
<袴腰・沓掛、その他>
「袴腰」「沓掛」と呼ばれる所に出ますと、そこからも七尾湾や能登半島の遠望をのぞめます。この小さな二つの曲輪は、名前からも分かるように、登城に際してここで衣服を整えたことから命名された曲輪名で、戦国乱世にあっても名門「畠山氏」の居城らしい格式を重んじたことが分かります。
「袴腰」「沓掛」 ↓
袴腰からの眺望(七尾湾、能登半島) ↓
そこから、高度を下げて坂を下っていくと「調度丸」跡と「大塚」「寺屋敷」跡へ入る道とが分岐します。「寺屋敷」は、墓守を兼ねた僧兵が居住していたそうです。
「大塚」「寺屋敷」跡方向 ↓
大塚跡 ↓
寺屋敷跡 ↓
「塔上」から「調度丸」へ戻る石段、そこからは「桜馬場の石垣」は何重にも重なって見えて圧巻です。
塔上から桜馬場に向う石段 ↓
塔上から桜馬場に向う石段と桜馬場の石垣 ↓
桜馬場の石垣 ↓
桜馬場の石垣 ↓
草で覆われた桜馬場の石垣 ↓
「調度丸」まで戻って1周した後は、更に「百間馬場」跡があった「城山展望台」からの眺めも壮大です。
城山展望台からの眺望 ↓
<一本杉通り、小丸山城>
さて、山麓に下りると「一本杉通り」という街並みには、紅柄色の格子戸や蔵造りの藩政時代から続く店舗や、明治時代に入ってからの店舗が軒を連ねます。
北島屋茶店(明治37年築、紅がら色の格子戸と腕木構造) ↓
鳥居醤油店(藩政時代から続く、明治41年築) ↓
高澤ろうそく店(明治43年築、土蔵造り) ↓
一本杉通りのしら井(昆布海産物) ↓
この「一本杉通り」の端には、「小丸山城」跡があります。「前田利家」は「信長」から能登半島を与えられ「七尾城」を居城としましたが、不便なので山麓の平城「小丸山城」を築きます。能登水軍の本拠地にもなりました。
更に、「金沢城」へ移ったので、1589年には廃城となります。城跡公園には、「前田利家」と「松子」の像があります。
小丸山城址公園碑 ↓
小丸山城跡 ↓
小丸山城跡公園に立つ前田利家と松子像 ↓
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