只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
“前田利長”隠居のお城として築かれた「高岡城」
(富山県高岡市)
●城主と歴史
16世紀中頃にこのエリアは、「神保(じんぼ)長職(ながもと)」が築いた「富山城」管轄となりますが、「上杉謙信」によって追い払われます。しかし「織田信長」の後ろ盾で、「神保家」は「富山城」を奪還しますが、その後失脚して「信長」の家臣の「佐々成政」が「富山城主」となります。
「豊臣政権」では「佐々成政」は肥後に移封となり、1585年に越中3郡は「前田利長」に与えられます。父の「前田利家」が死去し、「関ケ原の合戦」では東軍についたので前田家は加賀・越中・能登120万石の大大名となり、1605年に「利長」は隠居して養子の「利常」に家督を譲り「富山城」に隠居します。
しかし1609年の「富山城」大火災で焼失した為、一時「魚津城」に移りながら指揮を執り、「高岡城」を築城して移ります。しかし「利長」は完成を見ることなく1614年に死去し、更に1615年の一国一城の令で廃城となり、その後は破城とせず江戸時代通じて「高岡町奉行所」が置かれ管理されましたので、当時の縄張りがほぼ残ります。
●城の概要と特徴
<立地と縄張り>
当城は、「慶長の築城ブーム」の時期に、全く元々のお城がない場所に造営された稀なお城で、未完成のまま廃城になりました。しかし、特徴的なのは人工の「水堀」で全体面積の30%をも占めています。
高岡古城公園絵図 ↓
縄張りは、「本丸」「二の丸」「三の丸(民部丸)」「朝丸」「鍛冶丸」等で、現在でもほぼ完全に残っています。
<本丸、小竹藪>
最大の曲輪で周囲は幅広の「水堀」で囲われています。特徴的なのは、「二の丸」から「本丸」に渡るのは「土橋」を使っていた現在も「土橋」は残り、その側面には城内で唯一石垣が見られます。
この石垣には、約60種ほどの刻印が見られ、一大名家のお城に見られるのは珍しいですが、多分、業務分担の為に付けられたと思われます。
土橋の石垣 ↓
土橋の石垣 ↓
土橋石垣内に見える刻印 ↓
「土橋」を渡った「本丸」跡の真正面には「射水(いみず)神社」が横たわります。当神社は、古来より越中総鎮守として「二上山」という山麓にありましたが、1875年に官命によって本丸跡へ遷座され、社殿は1902年に再建されたものです。
土橋真正面の「射水(いみず)神社」 ↓
「本丸」跡は、現在「射水(いみず)神社」の境内になっていていますが広大な広場になっています。ここには、「米蔵」「塩蔵」「番所」「本丸門」が建っていました。
本丸跡(本丸広場、北東側から) ↓
「本丸」跡の南西隅には、「前田利長」像が立ちます。また「天守台」は設けられていますが、建造物は殆ど建てられなかったようです。
「前田利長」像 ↓
「本丸」跡の北端から「小竹藪」という曲輪に渡る赤い橋が「朝陽橋」で、そこから見る「北内濠」「中の島」方向は非常に美しいです。
赤い橋「朝陽橋」と、そこから見る「北内濠」「中の島」方向 ↓
朝暘の滝 ↓
赤い橋「朝陽橋」から見る南東方向の「内堀」 ↓
「小竹藪」跡の広場 ↓
<二の丸>
「二の丸」は、横長長方形で南北約170m×東西70mで、当時は「利長」夫人の「玉泉院」(織田信長の4女)の館等が置かれていましたがその後は、「番人小屋」「矢来門」が置かれただけでした。現在は、市民会館や「護国神社」の敷地になっています。
二の丸跡に経つ市民会館 ↓
<三の丸>
「三の丸(民部丸)」は、前述しました「小竹藪曲輪」の南東にあります。東西約130m×南北90mと東西に長い曲輪で、北から東にかけて「外堀」に囲われています。当時は、加賀藩の家老職を務めた「今井民部」の屋敷があり曲輪内には「民部の井戸」がありました。
現在は、「市民体育館」の敷地ですが、その南隅には「民部の井戸」の8mの井戸とその「屋形」が残ります。また、「搦手口」はこの曲輪の南東隅にありました。
「民部の井戸」屋形 ↓
三の丸濠(搦手口から) ↓
搦手口 ↓
<明丸、鍛冶丸>
「三の丸(民部丸)」から南西にかけて「明丸」曲輪があり「焔硝蔵」「火薬庫」等が置かれていました。現在は小動物園となっています。
明丸跡の小動物園 ↓
ちょっと順番が逆になりましたが「明丸」の南西には、城外から入城する際の「大手口」がある「鍛冶丸」曲輪があります。そして「明丸」と「鍛冶丸」の間には「正方形」の形をした「枡形堀」が有るほか、「鍛冶丸曲輪」の南側には「外堀」が囲っていて、冒頭お話したように「水堀」の多さを実感することができます。
「明丸」と「鍛冶丸」の間には「正方形」の形をした「枡形堀」 ↓
「鍛冶丸」を取り巻く「南外堀」 ↓
そして、そこには「高山右近」像が立っていますが、何故こんなところに「高槻城」城主でキリシタンであった「右近像」が立つかを少し説明しておきます。
「高山右近」像(高槻城に立つ「右近像」と全く同じ) ↓
「前田利家」は、キリシタンである「右近」をキリスト禁止令で追放から免れるべく「高山右近」を金沢に招き入れますが、この「高岡城」は「右近」による縄張りだとの通説がありますので、その敬意を表して像が立てられています。
しかし、一方でそうではないという議論もあるので紹介しておきます。
「縄張り」の基本構造は、「前田利長」が再建した「富山城」の縄張りを発展させたもので、「豊臣秀吉」の「聚楽第」をモデルにした縄張りではないかとも言われています。というのも、「利長」が自ら指揮したという資料はありますが、「右近」が「高岡・富山城」に関わったという資料がないのと、「右近」の「高槻城」「船上(ふなげ)城」の縄張りとは違う等という意見もあります。
<城下>
見どころが沢山ありますがその中でも一番は、「前田利長」の菩提寺「瑞龍寺」と「前田利長墓所」です。
「前田利長墓所」は、「瑞龍寺」と対の場所に有って、「内堀」の中に囲われ、墓碑は5m、総高さは11.9mと聳え立っていて、日本最大の大名墓所です。
前田利長墓所と堀 ↓
前田利長墓碑 ↓
墓所周りを囲う堀 ↓
そして、墓所からは菩提寺「瑞龍寺」までの間を約80m幅の道「八丁道」が真っすぐに延びて両脇には燈籠が並ぶ姿は壮観です。
「八丁道」の燈籠 ↓
「瑞龍寺」も「山門」「仏殿」「法堂」が県内唯一の国宝となっています。
瑞龍寺(山門、仏殿、法堂が県内唯一の国宝、前田利長の菩提寺) ↓
またそれ以外には「高岡大仏」(現在のものは昭和8年5月開眼、1745年完成・1841年に再興)も見所です。
高岡大仏 ↓
また市内には、「山町筋(やまちょうすじ)」「 金屋町」「吉久(よしひさ)」の3箇所が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていて、それぞれ重厚な土蔵造りの町屋が立ち並ぶ商人町、千本格子が続く日本有数の鋳物街町、そして町家や、土蔵造り、妻入り商家が見られる米の集積地・物流拠点の港町と、それぞれ特徴ある町して発展したエリアとなっています。
土蔵造りの町並み(重文「菅野家」) ↓
土蔵造りの町並み ↓
土蔵造りの町並み ↓
土蔵造りの町並み ↓
土蔵造りの町並み ↓
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