只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

春にコヒガンザクラで埋め尽くされる天然の要害と馬出的曲輪が取巻く「高遠城

長野県伊那市

歴史と城主

築城したのは諏訪家一族の「高遠家」で、戦国時代中期までの約200年間統治していましたが、「武田信玄」による「諏訪家」攻略によって1545年に落城します。

 

その後「信玄」は、伊那や木曽を攻める拠点として「山本勘助」等に拡張修築を命じ、武田風のお城造りが行われます。「武田家」の持ち城となり、城主には、武田家配下「秋山信友」「仁科盛信」等や「武田勝頼」も城主となります。

 

そして織田軍や徳川軍の攻略によって「徳川家」のお城となり、「家康」配下の「保科(ほしな)正直」が城主となりました。

 

江戸時代に入り、「保科正光」が初代藩主となり、二代将軍「徳川秀忠」の隠し子「保科正之(後の松平正之)」を嗣子として迎え大切に育てられました。そのことを知った三代将軍「徳川家光」は「正光」を優遇し、「保科正之」を加増させて「山形城」へ移封させています。

 

一方、「保科正光」の弟「正貞」が世子となっていましたが、「正之」が「保科家」を継いだことから、幕臣に取り立てられ、別家を興し「飯野藩」藩主として「飯野陣屋」を築きます。この家の領地の半分が摂津にあり「大坂定番」を良く務めたので、大阪府豊中市の浜に陣屋(浜陣屋)を設けていました。

 

建福寺山門(保科家の菩提寺) ↓

諏訪御料人(武田勝頼の母)の墓(建福寺内) ↓

保科正光(左)、保科正直(右)の墓(建福寺内) ↓

 

その後に入城したのが、「関ケ原の合戦」で「伏見城」を最後まで死守した「鳥居元忠」の孫「忠春」ですが、「鳥居家」は諸事件によって改易されます。

 

一時天領となりますが、1691年に「内藤清枚(きよかず)」が藩主となって以来、幕末・維新までは「内藤家」のお城となります。

 

「内藤家」は幕府内の業務に多く携わり、特に1714年には、江戸城大奥御年寄「江島」による歌舞伎役者「生島新五郎」への密通事件であった「江島生島事件」に関わり、流罪にされた「江島」の身柄を預かりました。現在は、お城近くに「江島囲み屋敷」が復元されています。

 

復元の「絵島囲み屋敷」 ↓

絵島囲み屋敷玄関と台所 ↓

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「高遠城」の立地は、二つの川に挟まれた天然の要害である崖上に築かれています。

 

「本丸」は土塀に囲われ、真ん中には「御殿」が建ち、絵図では「巽櫓」「角(すみ)櫓」の2基と「櫓門」を含む「城門」が4基あったようです。その周囲は一部「水堀」でしたが殆どは「空堀」で囲われた「内堀」が備わっていました。

 

城図(郭図、現地に掲出、下が北方向) ↓

 

<本丸>

現在の「本丸」跡へは、「桜雲橋(おううんきょう)」によって「内堀」を渡ると、城下の「問屋役所」から「本丸門」跡に移築された「問屋門」が建ちます。

 

春になりますと、「本丸」跡から周囲までもピンク色が濃い「コヒガンザクラ」に覆われて、多くの観光客が訪れるスポットとなります。

 

桜雲橋(おううんきょう)と問屋門(本丸門跡に移築) ↓

本丸門跡に移築した問屋門(城下の問屋役所の門) ↓

本丸跡、コヒガンザクラの木々が一杯 ↓

コヒガンザクラ満開時の「桜雲橋」(長野伊那谷観光局HPよりお借りしました) ↓

本丸土塁跡 ↓

 

また「太鼓櫓」が「南隅櫓」跡に当城のシンボルとして建っていますが、廃城後別の場所へ移築されて時を告げていたようです。その後再度城内に移築されて、現在のモノは1913年に再築されましたが、中には太鼓はありません。

 

太鼓櫓(現在の物は1913年築で太鼓はない) ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は、「本丸」の南から東側に築かれ、「二の丸」最大の出入口だった「二の丸門」跡から入城します。

 

二の丸門跡(木橋があり棟門、桝形、櫓門と続いた)

 

入ってすぐ左手には、「高遠(たかとう)閣」という元々集会所や観光客の休憩所として1936年(昭和11年)に建てられた木造二階建の建造物があります。入母屋鉄板葺(当初は杮葺の大型建造物)で「登録有形文化財」に指定されています。

 

二の丸跡に建つ「高遠閣」(登録有形文化財)

二の丸土塁跡

二の丸東側の土塁と空堀

 

<本丸周囲の曲輪群>

「本丸」の南側には「保科正之」と「静の方」が居住していた「南曲輪」が、更に西側に「笹曲輪」、北側には「山本勘助」が設計したとの言い伝えがある「勘助曲輪」が築かれていて、そこは現在駐車場となっています。


南曲輪跡(保科正之と静の方が居住、本丸とは堀内道で繋がっていた) ↓

勘助曲輪跡(現在グランド駐車場、本丸から) ↓

 

また、「法幢院(ほうどういん)曲輪」は、「南曲輪」から「土橋」で繋がりますが周囲は空堀で囲われていて、まるで「馬出」のような機能を持っていたようです。

 

法幢院曲輪跡(馬場があった、その昔は法幢寺があった)内の歌碑 ↓

二の丸跡と法幢院曲輪跡の間の空堀 ↓ 

 

「二の丸」周囲には「土塁」と「外堀」が築かれ「三の丸」と分断させています。

 

二の丸跡(右)と三の丸跡(左)の間のU字型空堀 ↓

三の丸跡から二の丸跡に入る脇の空堀 ↓

 

<三の丸、その他>

「三の丸」は、北側から西側にかけて大きな面積をとっていて、こちらに家老屋敷を含む武家屋敷、藩校「進徳館」、「土蔵」などが置かれていました。

 

「三の丸」南側には、石垣を持つ「大手門」が置かれ、北側には「馬出」を伴った「搦手門」が備わり、武田流のお城造りの一端を見ることができます。

 

現在、南側から「三の丸」跡へ入る場合は、かなり長いつづら折れの坂道を登っていきますが、上りきった所には「大手門」跡の石垣を見ることができます。

 

大手門坂 ↓

大手門坂と「高遠城下」 ↓

大手門跡付近から見下ろす「高遠城下」 ↓

大手門跡石垣(枡形、正保年間に西側に変わった) ↓

 

そこから少し北側に歩いた所に、元「高遠高校」であった敷地の正面に「大手門」が移築されていますが、現在は門柱を切断して低くなっています。

 

大手門跡から続く三の丸石垣 ↓

大手門(櫓門だったが薬医門に改築、高遠高校の正門として使用されていた) ↓

大手門(元高遠高校校門として使用) ↓

 

更に緩い坂道を上った左側は、藩校「進徳館」があります。「正門」と「玄関」、「東西2棟」が現存している他にも、復元されている建物含めて見学することができます。

 

進徳館の校門と寄宿寮式台(国史跡、藩主内藤頼直が1860年に創設) ↓

進徳館寄宿寮の式台と脇玄関 ↓

進徳館東西2棟は現存(全部で8棟あった) ↓

進徳館(手前から第一教場、第二教場、生徒控所) ↓

進徳館の教場と学監詰所

 

「三の丸」の「搦手門」跡は現在殆ど遺構らしきものはありませんが、その「搦手門」は、長野県岡谷市湊にある「久保寺(きゅうほうじ)山門」として移築されています。 

 

搦手門跡付近(搦手門は久保寺山門に移築) ↓

高遠城搦手門(久保寺山門に移築、長野県岡谷市湊) ↓

 

また、「信州高遠美術館」の脇には、三階建ての城郭建築が建ちますが、少し滑稽なお城風の建物です。

 

模擬城郭(信州高遠美術館内) ↓

 

色々とエピソードの多いお城

①武田風のお城づくりで「山本勘助」が活躍

②「徳川秀忠」の隠し子「保科正之」の養育の城

③「保科家」の元々の世子が別家を興し「飯野藩主」に

④江戸時代中期に生じた「江島生島事件」で流罪にされた「江島」の身柄拘束

 

公共交通機関では、なかなか行きづらいお城ではありますので、コヒガンザクラが満開の時に桜見の観光バスで行くのも良いですが、シーズン以外に訪問して、「高遠城」の武田流の曲輪配置と空堀、及び遺構として残る大手門や藩校等をゆっくりと観察するのもいいものです。

 

コヒガンザクラが咲き乱れる高遠城(長野伊那谷観光局HPよりお借りしました) ↓

 

 

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