只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

“武田家”得意の“丸馬出”等を巧く取り込んだ「松代城

長野県長野市松代町

城主と歴史

「武田信玄」の命で「山本勘助」が築いた「海津城」が原型と言われ、「第四次川中島の戦い」ではこの城を巡っての戦となりましたが両者痛み分けとなり、その後は「武田家」による北信濃への領土拡大の拠点となります。

 

「武田家」滅亡後は「織田信長」支配下となりますが、「本能寺の変」後は「上杉家」が当城を吸収し、「豊臣政権」下でも引続き「上杉家」の支配下となっていました。

 

しかし「上杉景勝」の国替えと「秀吉」死去、そして「関ヶ原の合戦」後には「徳川家康」の六男「松平忠輝」が12万石で入城します。

 

「忠輝」は「高田城」を築城して移り、引続き「川中島」等当地も領有していましたが、「忠輝」が謀反を理由に改易された後は「松平忠昌」、続いて「酒井忠勝」が入城し、1622年には「真田信之」が8万8000石で入城しました。以降、幕末・維新迄「真田家」のお城として続きますが、1711年に幕命で「松代城」と改名します。

 

「真田信幸(之)」についてですが、「上杉家」に臣従した父「昌幸」に従って、「第一次上田合戦」で「徳川軍」と戦い勝利しました。

 

その後「昌幸」は、「上杉景勝」を通して「豊臣秀吉」に臣従しましたので、「秀吉」と和睦をした「徳川家康」の与力大名に組み込まれます。「信幸(之)」の能力を高く評価した「家康」は、重臣の「本多忠勝」の娘を「家康」の養女として迎え入れ「信幸」と結婚させることによって、「家康」は義理の父親となりました。

 

「関ケ原の合戦」時は、「昌幸」「信繁(幸村)」親子とは袂を分けて、「信幸」は東軍に属したことは有名ですが、戦後は元々の「真田家」のお城「上田城」は破却を命じられ「沼田城」を本拠にすることになりました。また、名前も父「昌幸」の一字である「幸」を捨てて「之」を用いて「信之」と改名します。

 

「大坂の陣」では、「信之」自身は病気で出陣ができませんでしたが、息子兄弟が代理で出陣をしました。その結果、1622年には「松代城」(10万石)へ加増移封されましたが、「沼田城」(3万石)も温存されました。

 

「信之」は「徳川家」との絆を深め「真田家」の地位確立を確固のものとして92歳で大往生を遂げ、「松代城」はその後幕末・維新まで真田家によって統治されます。一方、「沼田城」の「真田家」は1680年頃に改易されてしまいます。

 

お城の概要と特徴

縄張り>

「松代城」は、元々「海津城」が前身で、「武田信玄」の北信濃攻略用の拠点として築城され、宿敵「上杉謙信」との「川中島の戦い」にも拠点として使用されたようです。その「海津城」の主郭部分を活用して「真田家」時代になって近世城郭化しました。

 

「真田家」のお城になってからは、千曲川の自然の要害を活用した石造りの「本丸」と、土塁や馬出中心の「二の丸」「三の丸」からなっています。

 

「本丸」の各隅部には隅櫓を置き、「戌亥隅櫓台」は「天守台」に相当する規模のモノでした。

「二の丸」は、北側以外の三方を取り囲む配置で前述の通り曲線の縁辺部には「土塁」が巡っていました。

 

そして、「東側」と「南側」2箇所に「武田家」のお城に代表される「丸馬出」と「三日月堀」があり、更に南側の「大手」に当たる「丸馬出」には東西に門があって「三の丸」と連結した「複合馬出」になっていました。

 

更には、「三の丸」東側に「大御門(大手門)」がありました。「三の丸」の西側には「花の丸」がありました。

 

縄張り図 ↓

縄張り絵図 ↓

 

本丸>

「本丸」への出入口は3箇所あり、正面の「本丸南門」、北側の「北不明門」、東側の「東不明門」で、その内正面の「本丸南門」と「北不明門」は復興されています。

 

「本丸南門」は、「内堀」を渡る「前橋」の後方に、「高麗門」と「太鼓門」と呼ばれている「櫓門」で形成された「内桝形」が構え、どちらの門も復興されていて、屋根はサワラ材を重ねた「栩葺(とちぶき)」で再現されています。

 

1717年に焼失しましたが、当時の焼失前と焼失後の絵図が残っていたので、焼失後に再建された絵図の姿を発掘調査に基づいて再建されています。「太鼓門」の屋根は切妻になっていて壁は柱が見える古い形式の「真壁造り」です。

 

復興太鼓門 ↓

復興太鼓門高麗門(屋根は栩(クヌギ)葺) ↓

復興太鼓門の櫓門(表から) ↓

復興太鼓門櫓門(本丸側から) ↓

復興太鼓門前橋 ↓

 

「北不明門」は、独立した「櫓門」と「高麗門」で形成された「外桝形」の「桝形門」になっています。こちらの屋根も「南門」と同様にサワラ材を重ねた「栩葺(とちぶき)」です。再現の「櫓門」は、櫓部分が石垣に乗らない独立したモノで近世城郭では珍しい形での復興になっています。

 

復興「北不明門」(外枡形、高麗門と塀) ↓

復興「北不明門の櫓門」(切妻造、櫓門二階は両側の石垣に乗らずに独立) ↓

復興「北不明門」の枡形を囲う「袖壁」 ↓

復興「北不明門高麗門」と「櫓門」 ↓

 

「北不明門」を出た敷地の曲輪は、「紅葉の馬場」跡で、広い敷地が広がっています。

 

本丸北側曲輪(「紅葉の馬場」跡) ↓

 

「東不明門」跡は、復興されてなくて門の石垣が残り、「内堀」を渡る「前橋」が架かります。

 

「東不明門」跡と「本丸表門」 ↓

「東不明門」跡と前橋 ↓

 

「本丸」の周囲は石垣で取り囲まれていて、「戌亥隅櫓」「未申隅櫓」「辰巳隅櫓」が配備されていました。その中で「戌亥隅櫓」は規模が大きくて「天守」代用となった櫓で、現在でもその「野面積み」の「櫓台」は健在です。

 

戌亥櫓台(天守台相当の規模) ↓

戌亥隅櫓石垣跡(天守台並みの石垣、野面積み) ↓

未申隅櫓跡石垣 ↓

辰巳隅櫓跡と内堀 ↓

 

ニの丸>

「二の丸」は周辺を土塁で囲い、前方に「丸馬出」と「三日月堀」を持ち枡形を形成させた「南門」が「三の丸」との出入口になっていましたが、更に「三の丸」そのものにも大きな「丸馬出」となっている「複合丸馬出」を形成していました。

 

「南門」跡(二の丸跡側から望む) ↓

「南門」跡(三日月堀跡側から望む) ↓

 

東側にも「丸馬出」と「三日月堀」を備えた「石場門」があり、西側には「西不明門」が、周囲の土塁を切った「埋門」も数か所設けられていました。

 

「石場門」跡(三日月堀跡から) ↓

 

現在、「二の丸」跡から「三の丸」跡への出入口になっていた「南門」跡や「石場門」跡の石垣も綺麗に復元されています。また「南門」跡の南側に拡がっていた「三日月掘」「丸馬出し」の復元工事が進行し、今後「石場門」の木造復元があるようです。

 

復元進行中の「南門」南側の「三日月掘」「丸馬出し」(写真は、長野市HPからお借りしました) ↓

 

また、「二の丸」跡を囲う「土塁」や、その「土塁」の間に掘られた「埋門」も美しく復元されています。

 

「二の丸」跡を囲う「土塁」 ↓

「二の丸」跡を囲う「土塁」 ↓

復元「埋門」(二の丸土塁に3ケ所あり) ↓

 

<三の丸・花の丸>

「本丸御殿」が1717年に全焼した後は、「二の丸御殿」が建築されましたが、更に1770年には「花の丸」へ「御殿」が移されました。

 

花の丸模型 ↓

外堀跡 ↓

 

複合馬出となっていた「三の丸」には、石垣で囲われた「大手門」の枡形が造られていました。

 

以前は「三の丸」跡付近には、「長野電鉄屋代線」が斜めに横切り「松代駅」になっていましたが、2012年に廃線になりました。

 

<松代城下>

松代城下はお城だけでなくて、鐘楼あり、藩校あり、真田邸や真田家廟所あり、武家屋敷ありと江戸時代の雰囲気を充分に満喫できる城下となっています。

 

江戸時代には一刻(二時間)おきに城下に向けて鐘をならしていたという「藩鐘楼」は、1801年に再建されたもので修築が加えられていますが現存の鐘楼です。そして「佐久間象山」が、電信実験を成功させた場所ということで「日本電信発祥之地」の碑が建っています。

 

藩鐘楼(佐久間象山がこの場所で電信機を初めて開発) ↓

 

藩校」である「文武学校」は、九代藩主「幸教」の時に完成して、藩士子弟の学問と武術を向上させる場として開校しました。中は、文学所、剣術所、弓術所、槍術所を配置させ、現在でも創建時のままの姿が残されており国の史跡にも指定されています。

 

藩文武学校内案内図 ↓

藩文武学校門正面(右は「剣術所」) ↓

文学所式台 ↓

文学所内部(東部分、講義を受けた間) ↓

 

特に、武術に関わる建物の中にある「ご覧席」や「控え席」を当時のまま見ることができるのは、ここだけではないでしょうか。歴史小説を読んでいると、剣術の場面がよく出てきますが、藩士同士が剣術でぶつかり合っているシーンを思い浮かべることができます。

 

剣術所入口 ↓

槍術所の内部(ご覧席) ↓

柔術所 ↓

柔術所内部 ↓ 

弓術所の矢場 ↓

 

真田邸宅」は、九代藩主「幸教」が、義母の住まいとして新築した「御殿」(新御殿)で、幕末に参勤交代が緩和されたことで妻子帰国許可がでたことから「松代城」の城下に建てられたモノです。

 

明治時代に入り「真田家」の私邸にもなり、昭和になってから松代町へ譲渡されました。主屋の他に、表門、土蔵、庭園などが残ります。

 

真田邸(新御殿、1867年)の表門、南長屋 ↓

真田邸(新御殿、1867年)の表門、南長屋から続く長塀 ↓

真田邸(新御殿)庭園より ↓

真田邸(新御殿)9代幸教が母・貞松院の隠居所として建立 ↓

 

真田家」の菩提寺「長国寺」には、「真田信之」の「霊屋」の他に、歴代藩主の墓所、「幸村」「昌幸」の供養碑まであります。

 

「真田家」は、「日光東照宮」の創設に関わっていたので、「信之」の「霊屋」を造る際には東照宮に関わった彫刻師に依頼したとかで、内部は立派な彫刻を持つ「霊屋」になっているそうです。

 

真田家菩提寺「長国寺」(屋根には「六文銭」) ↓

真田信之霊屋の表門(四脚門) ↓

真田信之の霊屋の宝殿(千鳥破風と軒唐破風の一間向拝) ↓

 

その他に、「白井家」「矢沢家」「真田勘解由家」「横田家」「樋口家」などの武家屋敷なども各所に残っています。この中で特に、真田勘解由家の門、母屋は前述した「花の御殿」の遺構で、こちらへ移築されたモノです。

 

真田勘解由家の門、母屋(「花の御殿」の遺構) ↓

筆頭家老格 矢沢家の門 ↓

旧白井家長屋門(中級武士家) ↓

 

 

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