只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
江戸幕府の“将軍”の居城で日本最大の巨大縄張りを持つ「江戸城➀」
(東京都千代田区・中央区大半・港区一部)
● 城主と歴史
「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが江戸城で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。
城郭の範囲は広く、現在の千代田区全域+中央区の大半+港区の一部で世界でも稀な大城郭であったことから難攻不落で長期政権と平和が続いたとも言われています。
「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府して以来、三代将軍「家光」の時代の1638年頃まで天下普請が続いて完成に至りました。
その後は、度重なる火災や自然災害が有り、「天守」は「明暦の大火災」(1657年)で焼失して以来なくなりますが、それ以外はその都度再建されて蘇りました。
●立地と縄張り
「江戸城」は、「本丸」を中心に10の郭があり、それを「の」の字に「内堀」が囲い、渦巻きのように「外堀」「神田川」「隅田川」が囲った部分になり、南北約3.5km、東西約5kmにも及びます。全体的には「渦郭式」と呼ばれています。
内曲輪・外曲輪(三十六見附の位置) ↓

「本丸」を中心にした10郭とは「内郭」と呼ばれ、「本丸」東側に「二の丸」「三の丸」が続き、「三の丸」正面には「大手門」が開かれています。
「本丸」南西から西側にかけて「西の丸」「吹上」「紅葉山」が位置し、「本丸」北側には「北の丸」が配備され、「本丸」南で「西の丸」東側には「西の丸下」が、「三の丸」や「西の丸下」の東側は広大な「大名小路」「大手前」になっています。
「江戸城」は、嘗ての武蔵野台地の端部に築かれた「平山城」で、「本丸」と「西の丸」がその先端上に築かれています。「二の丸」「三の丸」「西の丸下」から東側の曲輪は台地の下で低地や干拓地に築かれています。
「内郭」の東半分は将軍のお城で全てが石垣造りですが、西側半分は隠居した将軍である大御所や、将軍の跡継ぎが住んだ「西の丸」を頂点とした曲輪群で、最大級の土居(土塁)で構成されていて、堀の水際や城門周囲だけ低い石垣が築かれています。
「堀」を見ますと、「本丸」と「西の丸」の間にある「蓮池堀」、「西の丸」と「吹上」を区切る「道灌堀」、「吹上」から「北の丸」にかけての壮大な内堀(桜田濠、半蔵濠、千鳥ヶ淵濠、牛ケ淵濠、清水濠)は天然の渓谷や沼地を巧みに取り入れて掘削した広い濠になっています。特に、「半蔵門」から南に延びる「桜田濠」は幅約200mにも及び日本最大の「水堀」です。
今回はあまり触れることができませんが、「江戸城」には、「外堀」の交通要所に敵の侵入を防ぐための城門(殆どが櫓門)を配置して、「三十六見附」と呼ばれて三十六の門が有りました。現在では建物は失われていますが、当時の堀、見附門、櫓台の石垣が残っている場所が多くあります。
縄張図「名城を歩く(PHP研究所)から」 ↓

それでは、城内を順次見ていきたいと思います。
多くの観光客が「江戸城」と言えば一番馴染みのあるのが「二重橋」と「伏見櫓」ですので、そこからスタートしていきます。
●お城の概要と特徴
<西の丸下曲輪>
この曲輪は、武家屋敷が建ち並んでいた敷地でした。現在は、「皇居前広場(皇居外苑)」と言われていている場所で、松の木々が植わり広々として広場になっています。
「皇居前広場(皇居外苑)」 ↓

「西の丸下曲輪」跡の広場と高層ビル群(写真は少し前のモノ) ↓

ここのポイントは、前述したように、「江戸城」見学や「東京」旅行で訪れる人が必ず立ち寄り、この曲輪の西端から、濠(二重橋濠)越しに、石橋と二重橋そして右手に建つ「伏見櫓」を見て写真を撮る場所です。
この手前の「石橋」と奥の「鉄橋」が二つあるから「二重橋」と言うと思っている人が多いですが、元々は奥の鉄橋が「二重橋」であって昔はその場所に、橋桁が上下二重に組んである木橋があったので「二重橋」と言われました。
現在の「二重橋」 ↓

右手に見える二重の「伏見櫓」は、「西の丸」の南端に建ち「多聞櫓」が続いています。そして「北伏見多聞櫓」というのが「伏見櫓」の北側に繋がっていますが、こちらは一般には目に触れることができません。
「伏見櫓」と「多聞櫓」 ↓

「伏見櫓」は名前の通り「伏見城」から移築したという伝説が有りますが、確証はないとのことです。関東大震災で倒壊した後解体して復元されたものですので現存建造物との扱いです。あと二重櫓は「桜田(三の丸)巽櫓」が建ちますのでそれを見て行きますが、その前にもう少し「西の丸下曲輪」跡の遺構を見て行きます。
「二重橋」の手前の「石橋」を渡った所に建つのが「西の丸大手門」で現在は「皇居正門」です。「西の丸」の出入口で「高麗門」と「渡櫓門」が直線に築かれていましたが、1888年の宮殿造営の時に「高麗門」は外され、現在では皇居の正門になっています。名称も、それ以降改名されました。
櫓部分が両脇の石垣に少し乗るだけで、門部分は両脇に脇門を備えて幅があります。また「渡櫓」部分の窓は大きいですが、他の櫓門が木枠の窓を設けているのに対して、銅板で覆う形を採っています。
現存「西の丸大手門(皇居正門)」(窓は銅板で覆われ、門部分の幅が広い) ↓

そこから、南へ堀沿いに歩くと大きな櫓門が見てきますがこれが「外桜田門」です。後程見に行きます「桔梗門」が「内桜田門」とも呼ばれているのに対して、当門は「外桜田門」とも呼ばれていますが、一般的には「桜田門」といえば当門になります。
重文「桜田門」の「渡櫓門」 ↓

「高麗門」と「渡櫓門」、そして三方を土塀と堀で囲われた「出桝形(だしますがた)虎口」となっていますが、「渡櫓門」の内側「西の丸下曲輪」方向には土塀や石垣が無く開放的になっています。
幕末に「井伊直弼」が登城の際、この門前で水戸浪士達によって暗殺された「桜田門外の変」(1860年)で有名な門です。
重文「桜田門」の「渡櫓門」 ↓
重文「桜田門」の「高麗門」 ↓
次に、先程の「石橋」から右手(北)へ進むと土橋が架かりその正面に「坂下門」の櫓門が建ちます。
「西の丸」東側の坂下に突き出た敷地三方が濠で囲われた所に建っていました。坂下にあったのでこの名前が付いています。
「桜田門外の変」に続き、老中「安藤信正」が水戸浪士に襲われて負傷した「坂下門外の変」(1862年)の現場となった門です。
「高麗門」と「渡櫓門」で桝形を形成された門でしたが、1885年に「高麗門」が撤去され、1887年には「渡櫓門」が角度を90度替えて建て替えが行われています。
現在は、当門の真後ろが「宮内庁」庁舎が建ちますので、「宮内庁職員」の通用門となっている他、一般参賀の時の出口の一つに使用されます。ここを入ると「西の丸」跡ですが後ほど見ていきます。
「坂下門」(明治時代に向きを90度替えて建替えされている) ↓

そこから東へ堀沿いに進むと「桔梗門(内桜田門)」があります。大名が登城する際に使用できた門です。こちらも、「渡櫓門」の城外側には「高麗門」がありその間は桝形になっています。櫓台の堀側は「打込接」ですが、桝形内は「切込接」になっています。
「桔梗門」の由来は、江戸に初めてお城を築いた「太田道灌」の「家紋」が「桔梗」だったことに由来しているそうで、鬼瓦にも「桔梗紋」が刻まれています。
関東大震災で大破しましたが、その後復元されて現在に至ります。宮内庁に申込をする「皇居一般参観」の集合場所に指定されています。
震災後復元の「桔梗門(内桜田門)」の「高麗門」 ↓
震災後復元の「桔梗門(内桜田門)」の「渡櫓門」(右)と「高麗門」(左) ↓
「桔梗門」から東側に少し下ると「桔梗濠」越しに見えるのが「三の丸巽櫓(通称「桜田櫓)」です。二重二階、総塗籠め白漆喰で窓の上下に「長押」を巻き、南側の堀側には「切妻屋根」を持つ「出窓」があります。
三の丸巽櫓(通称「桜田櫓、桜田隅櫓」) ↓
三の丸巽櫓(通称「桜田櫓、桜田隅櫓」) ↓
以上の「伏見櫓」「西の丸大手門」「坂下門」「桔梗門(内桜田門)」「桜田巽櫓」とこれから紹介する「平川門」「富士見櫓」「3棟の番所」は、現存に近い扱いですが、全く何らかの文化財指定が受けられていません。というのも、これらの建造物の管轄は「宮内庁」であることから、文化財指定を行う「文部科学省」が口を挟めないようです。
この大きな「西の丸下曲輪」の東から南側にかけて「和田倉濠」「馬場先濠」「日比谷濠」「凱旋濠」の幅がある「水堀」が湛えています。その南側には「馬場先門」跡の石垣が残ります。ここは桝形門でその跡も残っていましたが日露戦争勝利の提灯行列がこの門で圧死傷者が出たことから取り払われてしまいました。
その北側にも大きな「和田倉門」跡があり桝形が残っています。
「馬場先門」跡の石垣 ↓
「和田倉門」跡桝形 ↓
<三の丸>
それでは、通常の「皇居東御苑」の公開日(基本は月曜日と金曜日は休み)の入口である「大手門」から見ていきます。
「大手門」は、大名が登城する際に使用した正門で城内最大の門です。「渡櫓門」の城外側には「高麗門」がありその間は大きな桝形になっています。建築に当たっては、「藤堂高虎」が携わり1607年に完成、その後1620年の修復には「伊達政宗」等によって再建されるほど、大大名が関わっています。
「大手門」の外観復元「渡櫓門」と「高麗門」 ↓
「白漆喰総塗籠め」で二階に大きな窓枠が目立ちます。石垣との間や窓の下に小さな穴が沢山見られるのが「鉄砲狭間(銃眼)」です。「渡櫓門」の脇には「番所」が併設され「潜り戸」も設けられていました。櫓台は、「切込接」になっています。
「大手門」の大きな「桝形」 ↓
「大手門」の「渡櫓門」内の「番所」 ↓

慶長年間(1596~1615年)に築かれましたが、「明暦の大火」で焼失しその後再建されました。
太平洋戦争で「高麗門」は無事でしたが、「渡櫓門」は焼失し1968年に木造外観復元されました。桝形内には焼失した旧「大手門渡櫓」に上がっていた「鯱」が展示されています。
旧「大手門渡櫓」に上がっていた「鯱」 ↓

高麗門を入り右手に折れて渡櫓門を潜ると今度は左手に折れて、そこから真っ直ぐ進みます。
<二の丸>
真っ直ぐ進むと「下乗門」枡形跡の石垣があります。「下乗門」は文字の通り、登城してきた殆どの大名はここで輿から下りて中に入ります。それを監視するのが門の右手にある「同心番所」です。
下乗門跡 ↓
この「同心番所」以外にも「江戸城」内にはあと2箇所に番所が残りますがそれぞれが非常に貴重な遺構です。後ほど紹介します。
その枡形を左手に折れると広い広場になっていて右に向かうと「銅門(あかがねもん)」跡の石垣があり「二の丸御殿」跡の入口になっています。こちらも後から参りたいと思います。
「銅門」跡石垣 ↓

広場の東側には二つ目の番所「二の丸百人番所」が平屋ですが瓦庇を付けて伸びています。こちらも現存で日本最大の規模を誇ります。当時は、ここに「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十四騎組」が交替で詰めていました。
現存の「二の丸百人番所」 ↓
現存の「二の丸百人番所」 ↓
現存の「二の丸百人番所」 ↓
広場の西側「正面」には、立派な巨石を「切込接」で積み上げた櫓台の「中の門」跡があります。ここには「渡櫓門」が両端に「多聞櫓」を伴って建っていて、「本丸」の正面入口になっていました。
「中の門」跡 ↓
今回は「本丸」跡には後から入るとして、そのまま南方向へ「本丸」跡石垣沿いに進んでいきます。
次回「江戸城➁」では、「皇居特別参観コース」内に入って行きます。
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