只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
中世城郭から井伊直政が近世城郭化するも”高崎城”築城で廃城になった「箕輪城」
(群馬県高崎市)
●城主と歴史
「在原業平(ありわらのなりひら)」の子孫と言われる豪族「長野家」がこの辺りを本拠として16世紀初めに城を造りました。その後「業政(なりまさ)」が猛将で、難攻不落の「箕輪城」を築きます。
「業政」は、関東管領「上杉憲政」に仕え、「河越城」攻め等にも関東管領「上杉家」と共に戦いますがその後関係が悪化し、「上杉謙信」に近づき「北条氏康」と戦います。しかし「業政」が亡くなると「武田信玄」に攻め落とされ「武田家」重臣が城代となります。
「武田家」が滅亡した後は、「滝川一益」→「北条氏邦」が相次いで奪取、小田原平定後は「徳川家康」が関東入りして、1590年に「井伊直政」が12万石で入城し石垣を導入する等近世城郭化しました。しかし1598年に「直政」は「高崎城」を築いたので廃城となりました。
●お城の概要と特徴
<縄張り>
西側を流れる「榛名白川」の河岸段丘を活用し、南側には「榛名沼」の天然の水堀を活用した、天然の要害の「梯郭式」の「平山城」です。
「本丸」北側には出丸的な「御前曲輪」を設けその北東は断崖となっていました。また主郭部分は「本丸」と南側に「二の丸」「三の丸」が横に並び、深さ最大20m、幅30mの「大堀切」を隔てて「木俣」「水の手」の曲輪を分断させて配置させており、いざという時には一方に籠って籠城できる構成になっていました。
また主郭の中では、「本丸」と「二の丸」間、「二の丸」と「三の丸」間も5~6mの空堀で分断させていました。
「井伊直政」時代には、「本丸」南西部に「大手虎韜門(ことうもん)」を築いて、こちらを「大手門」に変更したほかに、主郭部には土塁の上に石垣を導入して強固にしています。
箕輪城全体図 ↓
<搦め手~木俣>
今回は「搦め手」から攻めたいと思います。
「搦め手門」跡 ↓
「搦め手門」跡からのぞむ「箕輪城」 ↓
そこからはゆっくりした坂を上がりまず目にするのは、「木俣」と「主郭部」を大きく分断している深さ約20mで幅30mの「大堀切」、そしてそこに突き出た「郭(かく)馬出」が目につきます。
大堀切と郭馬出 ↓
郭馬出(東側から) ↓
郭馬出の西側大堀切(大堀切の土橋から) ↓
まず「大堀切」の南側は、「木俣」「水の手」跡が広場となって残っています。
「木俣(きまた)」は、尾根が分れる中間点に置かれた曲輪で、曲輪を削って数段の平坦地を設けて斜面は石垣で補修されています。主に、家臣団の居住地として使用されたようです。
木俣跡 ↓
<二の丸>
「郭馬出」は、「二の丸」跡からは少し低い位置に設けられているので、「二の丸」跡から眺めると形がよくわかります。
「郭馬出」は、城主が幾度とも変遷し、「武田氏」時代のものか「北条氏邦」時代のものかわかりませんが、一般的には、「角馬出」は「後北条家」が得意とし、「丸馬出」は「武田家」が得意としていました。
郭馬出 (二の丸跡から見下ろす) ↓
郭馬出から大堀切土橋と二の丸方向 ↓
「郭馬出」の入口は「郭馬出西虎口」で、そこには2016年に「櫓門」が復元されています。
郭馬出西虎口の復元門 ↓
郭馬出側から ↓
「二の丸」は、敵を引き付けて殲滅する目的を持った曲輪として配置され、木柵や櫓台の遺構が発掘されています。
二の丸跡 ↓
<三の丸>
「二の丸」跡の西南方向には「三の丸」跡があり、更に降りていくと「鍛冶曲輪」となります。「三の丸」「鍛冶曲輪」跡には「井伊直政」時代に築いたという「野面積み」の石垣が残っています。
二の丸跡から三の丸跡方向 ↓
三の丸跡石垣 ↓
鍛冶曲輪跡 ↓
鍛冶曲輪跡石垣 ↓
更に下まで降りると、「大手虎韜門(ことうもん)」跡の石垣と碑が立ちます。この命名は、「井伊直政」が行ったそうで、「虎韜(ことう)」とは虎の巻のことだそうです。「井伊」時代に、こちらが「大手門」となったようです。
大手虎韜門(ことうもん)の石垣 ↓
再度「三の丸」跡まで上り「本丸」跡を目指します。「本丸」跡へは「三の丸」跡から「南虎口」を通ります。「本丸」跡を取り巻く形で、深い「空堀」が残ります。「空堀」跡の中に周囲より少し高くなっている所がありますが、これは「蔵屋敷」から「本丸西虎口」に渡る「橋台」です。「御膳曲輪」跡側にも、橋が架かっていた痕跡をみることができますが、2022年にはそこに「蔵屋敷間木橋」が復元がされ、更に2026年4月には「本丸」跡側に「本丸西虎口門」が復元されました。
本丸南堀 ↓
本丸西堀 ↓
空堀内の本丸西虎口に渡る「橋台」(この上に「蔵屋敷間木橋」が復元された) ↓
復元「蔵屋敷間木橋」(高崎市文化財情報から写真をお借りしました) ↓
<本丸・御前曲輪>「本丸」跡入口付近には、大きな石でできた「箕輪城跡」碑が立ちます。「本丸」跡は「長野家」の居館が建っていたそうです。かなり広い敷地になっていて東側には長い「土塁」跡が見られます。そして、北側には「本丸北虎口」があり「御膳曲輪」との出入口になっていました。また「本丸西虎口」には前述した「西虎口門」の復元門が見られます。
本丸南虎口(本丸門)前の馬出し跡 ↓
「箕輪城跡」碑 ↓
本丸跡全景 ↓
本丸跡内の土塁 ↓
「御膳曲輪」全景 ↓
復元「本丸西虎口門」 (高崎市文化財情報から写真をお借りしました) ↓
「御膳曲輪」は、「本丸」を北からの攻撃に備えて造られた曲輪の一つで、当曲輪は「詰丸」であって、代々の城主の位牌を納める「持仏堂」がありました。更に「御前曲輪」の西側には深い堀を隔てて「通仲(とおりなか)曲輪」、北側に「新曲輪」が、東側に「稲荷曲輪」が置かれているので、堀は四方向に延びています。
御膳曲輪の石垣(腰巻石垣) ↓
御膳曲輪の北堀 ↓
御膳曲輪、通仲曲輪、稲荷曲輪、新曲輪の四曲輪が集まる堀 ↓
以上、「箕輪城」をほぼ一周してきました。
「箕輪城」の南側の集落の中には、「下田邸宅の書院」という建物があります。戦国時代の城主「長野家」の家臣「下田家」の子孫が、江戸時代には「安房勝山藩」の飛地代官所の代官として箕郷を支配した屋敷です。
下田邸の門 ↓
下田邸の書院 ↓
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