只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

土塁と水堀で囲われた鎌倉武家の方形居館「足利氏館

栃木県足利市

● 城主と歴史

平安時代後期に活躍した「河内源氏」の棟梁「源義家」から開拓地を継承した四男「義国」が、鳥羽上皇の「安楽寿院」に寄進して「足利荘」が成立しました。

 

そしてその荘官を務めた領主が「足利氏」を名乗り、「義国」の次男「義康」が鳥羽上皇に仕える北面武士として京都に常駐していましたが、ある事件で下野(しもつけ)へ下向して「足利荘」に「居館」を築いたのが「足利居館」で1150年です。

 

「義康」の四男「義兼」は、1180年に伊豆で挙兵した「源頼朝」に従い「鎌倉幕府」の創設に加わり、「義兼」の正室は「北条時政」の娘「時子」(「頼朝」の正室「政子」の妹「時子」)と結婚するなど「足利氏」は当初、幕府内で高い席次を与えられていました。

 

1185年~90年頃には「足利学校」を開設し、1196年には「居館」内に「持仏堂」を建立し、これが鑁阿(ばんな)寺」の創建となりました。

 

しかしその後、1333年に隠岐から脱出した「後醍醐天皇」の討伐命令が「鎌倉幕府」から「足利8代目」の「足利尊氏」に命じられ京都へ向かいます。

 

しかし、突如反旗を翻した「尊氏」は、京都の幕府方の「六波羅探題」を襲い、「後醍醐天皇」と共に行動して「鎌倉幕府」を倒します。そして、「足利一門」は京都或いは鎌倉へ移り、空き城となった「足利居館」内の鑁阿(ばんな)寺」は「鶴岡八幡宮」の支配下となりました。

 

因みに「室町幕府」を立ち上げた「足利尊氏」は、この「足利氏館」で産まれました。

 

足利尊氏像 ↓

 

その後「足利」は、「鎌倉公方 足利持氏」や「関東管領 上杉家」「相模 北条家」に支配された後に江戸時代は幕府領となり、そして「足利藩」の「足利陣屋」が建ちました。「足利氏館」はそのまま「鑁阿(ばんな)寺」として残り現在に至っています。

 

足利陣屋跡 ↓

陣屋跡内の井戸 ↓

 

お城の概要と特徴

縄張り

中世初期の城郭の面影を残す東西がやや長い約200m四方の、ほぼ方形に近い単郭の縄張りです。

 

ただ、往時の「足利氏館」の居館は一辺が500m前後の広大な複郭の縄張りだったという研究者もいるようです。

 

いずれにしても、ここは、典型的な鎌倉時代の「単郭方形館(やかた)」であり、お城の発展の過程(歴史)で現れた形式として「日本100名城」に採り上げられています。

 

同時代の「御家人」の居館は一辺100m前後が多いですが、「足利氏館」の規模は巨大であることから、「足利氏」の鎌倉幕府内での地位を示しています。

 

<単郭=現在「鑁阿(ばんな)寺」>

鎌倉時代の武士居館の典型的な形をしていて、方形の居宅で周囲を水堀と土塁で囲われ、東西南北に門を構えていました。

 

現在は、この方形の中に「鑁阿(ばんな)寺」が残り、周囲は「水堀」と「土塁」で囲われていて当時の状態であります。土塁は、下部の幅は7~8mあり高さは3~4mもの大規模です。

 

鑁阿(ばんな)寺の伽藍図 ↓

鑁阿(ばんな)寺の太鼓橋と堀と土塁 ↓

東堀と土塁 ↓

北堀と土塁 ↓

 

正面には当寺の象徴ともいえる「太鼓橋」と「仁王門」が構え、敷地内には2015年に国宝指定された「本堂」を中心に重要文化財の「経堂」や「鐘楼」などが建っています。

 

鑁阿(ばんな)寺の太鼓橋と仁王門(国指定史跡) 旧足利氏館 ↓

鑁阿寺大御堂(重文) ↓

一切経堂(室町時代建築) ↓

鐘楼と庭園 ↓

 

鎌倉時代に建築された四脚門の「東門」や江戸時代に再築された薬医門の「北門」、「御霊屋」「多宝塔」など時代を感じさせる建造物が豊富に林立し、いずれも栃木県指定の文化財となっています。

 

東門(鎌倉時代建築)-四脚門 ↓

北門(江戸時代建築)-薬医門 ↓

西門(鎌倉時代建築) ↓

御霊屋(江戸時代再建) ↓

二重塔(江戸時代再建) ↓

 

更には、「足利氏館」の南側には、「足利学校」があります。こちらは、日本で最も古い学校として歴史の教科書には必ず掲載されていますね。

 

足利学校 孔子廟を臨む ↓

 

奈良時代の創建や平安時代の創建、鎌倉時代の「足利義兼」が創建したという諸説があるようですが、室町時代の1439年に「上杉憲実(のりざね)」が鎌倉の「円覚寺」から初代校長を招聘して学校の再興をしたところから、史実として明らかになっています。

 

また1549年には、イエズス会の「フランシスコ・ザビエル」によって「坂東の大学」として世界に紹介されています。

 

「孔子廟」に向かって延びる道の最初の入口は「入徳門」、次に「学校門」が並び、「孔子廟」の門である「杏壇(きょうだん)門」が一直線に並びます。

 

足利学校 入徳門 ↓

足利学校 学校門 ↓

足利学校 杏壇(きょうだん)門 ↓

足利学校 孔子廟 ↓

 

これらは、1668年に創建されましたが、その後「入徳門」は焼失して1840年頃に修築されたものです。また「杏壇門」も1892年の火災で一部が焼失して修築しています。

 

この東側には、「庫裏」や「書院」「方丈」の他に「衆寮」「土蔵」等は復元された建造物です。

 

足利学校 復元庫裏と復元書院 ↓

足利学校 復元方丈 ↓

足利学校 復元方丈内部 ↓

足利学校 復元方丈と車寄せ ↓

 

 

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