只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

要害の台地上に連郭で築かれた土のお城「水戸城

茨城県水戸市

城主と歴史

古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きます。しかし1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸家」が支配します。

 

「佐竹家」は、「豊臣秀吉」による「小田原平定」にいち早く反応し「秀吉」に近づいて自分の領土固めを行いますが、「江戸家」は「水戸城」の明け渡しを拒否した為に、「佐竹家」は「水戸城」を攻撃して「江戸家」を追い出します。そして、本格的な城普請を行い、現在の4つの大きな曲輪を増築します。

 

「関ヶ原の合戦」では東軍に組しなかった「佐竹家」は出羽秋田へ国替えとなり、その後に「家康」の五男「新吉」、十男「頼宣」を経て十一男「徳川頼房」が入城します。その後幕末・維新迄、「徳川御三家」の一角ではあるものの、本家や他の二家とは違うスタンスで存続することとなります。

 

● お城の概要と特徴

<縄張り>

「那珂川」と「桜川」に浸食された台地の先端に築かれた「平山城」です。北に「那珂川」南には「千波湖(せんばこ)」によって防御が優れた場所でした。

 

「佐竹家」の時代にはほぼ規模は確立されて、「徳川家」が入って整備されました。東から「東二の丸(下の丸)」「本丸」「二の丸」「三の丸」が直線的に繋がる「連郭式」の縄張です。

 

その東側と西側には城下町が拡がり、全体を掘と土塁で囲む「総構え」になっていて、石垣は全くない土のお城です。

 

西側から続く台地には、五重の堀を築き、特に「本丸」と「二の丸」の間、「二の丸」と「三の丸」の間の「内堀」は重要でした。

 

縄張り図 ↓

 

今回は、「本城」となっていて復元「大手門」が建つ「二の丸」からみていきたいと思います。

 

<二の丸>

「大手橋」前に進みますと、橋の袂には、幕末の烈公と言われた「徳川斉昭」像が立ちます。2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で名演だった「竹中直人」さんの青筋を立てた顔が浮かびます。

 

幕末の烈公「徳川斉昭」像 ↓

 

 「大手門」は、「佐竹家」が城主だった1601年頃に建てられ、その後何度かの建て替えがあったものの明治時代まで残り、古写真の中にも納められています。江戸時代初期の様式を残す古風な外観であり、今回の2020年2月の復元でもそれが踏襲されています。

 

木造復元の「大手門」と「大手橋」 ↓

「大手門」の古写真(城内の説明板に掲出) ↓

 

桁行9.5間、梁行3間というかなり大きな規模の櫓門で、柱が見える「真壁造り」で「連子窓」が付きます。また、土塁と土塁の間に建てられているので門と土塁の間には「瓦塀」が繋ぎとなっています。

 

「大手門」の門扉と門内部 ↓

桝形内から見上げる「大手門」 ↓

土塁と大手門との間に「瓦塀」 ↓

 

「大手橋」の下は、「二の丸堀」が深い「堀切」となり、現在は車道になっています。この堀沿い「二の丸」跡側には、「大手門」から新たに「土塀」が復元されてその先端には木造復元された「二の丸角櫓」が建っています。

 

道路になっている「二の丸堀」跡 ↓

「大手門」から「二の丸角櫓」に繋がる復元「土塀」 ↓

 

そして「大手門」を潜ると、桝形構造になっていて左手に折れて「二の丸」跡に入ります。

 

「大手門」桝形から「二の丸」跡方向 ↓

「水戸学びの道」から見る「大手門」と「土塁」 ↓

 

「二の丸」跡の中心道路は「水戸学びの道」として整備され、その名前に相応しく「水戸城二の丸展示館」が「大日本史編纂之地」である「彰考館」跡に建ち、そこから道の両脇には「付属小学校・幼稚園」「水戸第二中学校」「水戸第三高校」が白壁塀の中に並びます。文教地区と「二の丸」跡が一体化された素晴らしいゾーンになっています。

 

「水戸学びの道」と「白壁」 ↓

「水戸城二の丸展示館」(「大日本史編纂之地」である「彰考館」跡) ↓

安積澹泊(たんぱく)像(助さん、格さんの「格さん」のモデルとなった人) ↓

 

「二の丸角櫓」は木造復元されて2021年6月から公開されています。「二重櫓」に北と東向けに「続櫓」が伴います。白漆喰総塗籠めで内側には一切窓がなく、外側には「竪格子窓」を設けています。

 

復元「二の丸角櫓」(城内の説明板に掲出写真) ↓

復元「二の丸角櫓」 ↓

木造復元「二の丸角櫓」(東側に続櫓、南方向から) ↓

木造復元「二の丸角櫓」(北側に続櫓、北西方向から) ↓

 

「二の丸御殿」跡には、「水戸第三高校」が建っていますが、その敷地の南崖付近には天守代用の「御三階櫓」が戦前まで建っていました。

 

「二の丸御殿」跡に建つ「水戸第三高校」 ↓

「二の丸御殿」平面図(城内の解説板に掲出) ↓

 

「御三階櫓」は三重五階で、一重目の内部は三階となり、その外壁の下部には海鼠壁が施されていて、「天守台」は無く地上から直に立ち上がっていました。

 

戦災で焼失してしまった「天守(代用含む)」7城の内、復元されていないのは「水戸城」のみで、特異な形をした「御三階櫓」の復元に期待したいと思います。

 

「御三階櫓(天守代用)」(古写真、城内の解説板に掲出写真) ↓

 

「水戸第三高校」前には「水戸城跡の大シイ」が植わり、木造復元された「杉山門」が建ちます。

 

「大シイ」 ↓

 

「杉山門」は、藩主御殿のあった「二の丸」曲輪に繋がる重要な「杉山坂」から入城する「二の丸」の北口に当たり、「土塁」を設けて「桝形」になっていましたが、現在は門のみが復元されています。ただ、解説板には、規模が4間1尺だったとのこと、約7.5mもの大きさは復元門では実現していないので、厳密な復元ではないような気がします。

 

「杉山坂」 ↓

木造復元「杉山門」 ↓

木造復元「杉山門」(高麗門) ↓

 

「水戸学びの道」の突き当りが「本丸堀」を渡る「本城橋」となります。「本丸堀」も険しいV字の「堀切」となっていて、現在はその底を単線のJR「水郡線」が走っています。

 

「二の丸」跡から「本城橋」と「本丸」跡方向 ↓

「本丸堀」底を走るJR「水郡線」(左側が「本丸」跡) ↓

 

<本丸>

「本城橋」を渡った所が「本丸」跡で、その入口には「本丸橋詰門」が構えていました。現在はその門の「土塁」と右折れする「桝形」が残されていて、そこを抜けると「水戸第一高校」の敷地になっていますが、正面に迫る大きな「薬医門」は、「水戸城」内で現存する唯一の城郭建造物となっています。

 

「本丸」跡入口の「橋詰門」跡(桝形、「本丸」跡内から「本城橋」方向) ↓

「薬医門」(県重文、正面) ↓

 

この「薬医門」は「佐竹家」時代のモノで、「橋詰門」跡に構えていたものが他所へ移築されていましたが、1981年に現在の場所へ再移築されました。

 

「薬医門」(県重文、横から) ↓

 

門は、三間一戸で両脇に潜り戸を設け、屋根下の大きな「蟇股」や「化粧垂木」の先の反り増し等が特徴で、県指定有形文化財となっています。

 

「薬医門」の大きな蟇股 ↓

「薬医門」の「化粧垂木」先の反り増し ↓

「本丸」跡周囲の「土塁」(「水戸第一高校」敷地入口付近) ↓

 

<東二の丸>

「本丸」跡から更に南東に向かう国道51号線沿いに「東二の丸」跡が続いていて、その先端には「浄光寺門」が設けられていました。現在は、「水戸第一高校」のグランドになっています。

 

国道51号線沿いの「東二の丸」跡 ↓

「東二の丸」跡の先端 ↓

 

<三の丸>

「二の丸」跡に沿って坂道を降りると初代水戸藩主の「徳川頼房」像が立ち、木造復元された高麗門の「柵町坂下門」が建ちます。当門は、二の丸南口で「三の丸」南側の入口となります。

 

初代水戸藩主の「徳川頼房」像 ↓

木造復元「柵町坂下門」 ↓

木造復元「柵町坂下門」(高麗門) ↓

「柵町坂下門」の古写真(現地の解説板に掲出の写真) ↓

 

坂道を下りきった所には、「義公生誕の地」碑と「水戸黄門神社」があります。ここは、「水戸光圀」の生誕地で4歳まで過ごした場所だそうです。 

 

「水戸黄門神社」 ↓

 

「三の丸」跡の西側は、東半分に「弘道館」「鹿島神社」「八卦堂」が建ち並び、西半分には「県三の丸庁舎」「茨城県立図書館」「水戸警察署」等の行政施設が集まっていますが、その西側に「南堀」「中堀」「北堀」の3つの「空堀」が残っています。 「空堀」に沿って連なる「土塁」の雄大さには目を見張るものがあります。

 

「三の丸南堀」(北方向)と「土塁」 ↓

「三の丸中堀」(U字型、北方向)と「土塁」 ↓

「三の丸北堀」と「土塁」(北方向) ↓

「三の丸」跡に建つ「県三の丸庁舎」 ↓

「三の丸」跡の西側を守る「土塁」(向こう側が「三の丸堀」) ↓ 

「三の丸」跡の西側を守る「土塁」(向こう側が「三の丸堀」) ↓

 

「三の丸」跡の東半分に位置するのは藩校「弘道館」です。「二の丸」に入る「大手門」の西側前に藩校「弘道館」の正門があります。

 

「弘道館」正門 ↓

 

「弘道館」は今回割愛しますが、内部はこのような配置図になっています。

 

「弘道館」内の配置図(現地で掲出) ↓

「孔子廟門」 ↓

「孔子廟」 ↓

 

「正門」の裏手には「八卦堂(はっけどう)」が建っていて、「弘道館」の建学の精神を示す「弘道館記」の碑が収められている建物で、見るからに古い建造物ですがが、戦災に会って1953年に復元されたものです。 

 

復元「八卦堂」 ↓

 

<水戸東照宮>

ここは、初代「徳川頼房」が、父親であり神君の「家康」を祀る神社として創建したもので、地元の方は「権現(ごんげん)さん」と呼んでいるそうです。

 

太平洋戦争で焼失したことで1962年に再建されたそうで、既に、色鮮やかな唐門が閉められていて中を見ることが出来ませんでしたが、「銅灯篭」や「徳川斉昭」が作らせた日本最古の「戦車」もあるそうです。

 

「水戸東照宮」 ↓

「水戸東照宮」唐門 ↓

 

 

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