只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
“伊達政宗”が築いた守りが堅固だがダテで優美な「仙台城」
「仙台城」は「伊達政宗」が、1600年に築城に着手し1602年に一応完成したお城です。
「政宗」が「仙台城」を築城する前は、「岩出山城」(宮城県大崎市岩出山)に12年間居城していましたが、統治していた領地の西に偏っていることや主要街道から外れている事、また城下町が狭いので不満を持っていたとのことです。
「伊達家」の領地のお話を少ししておきますと、元々は「米沢城」を中心に会津地方を領していました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原攻め」をきっかけに東北の諸大名にも、「小田原」に出向いて臣従を誓うことを求めましたが、「伊達政宗」は最後まで抵抗し、最終的には死に装束である白装束で「秀吉」の前に現われ臣従を誓ったというエピソードも残ります。
その結果、会津地方を「秀吉」に取られて石高数を減らされ、「政宗」の父親の代から城主であった本拠地「米沢城」から「岩出城」に移り住むという経緯がありました。
「秀吉」没後は、「徳川家康」に近づき、娘を「家康」の息子「松平忠輝」に継がせ、「関ケ原の戦い」では東軍に属したことから、戦後は加増され62万石となり「仙台城」を築くことになりますが、それは、関ケ原の戦い後すぐということもあり、後方には豊臣方の「上杉家」が控えていたので、南側の徳川方を防御する役割を担う築城を求められました。
その後は、幕末・維新まで「伊達家」は当城の城主として領地を治めます。
更には、「大坂夏の陣」で長男「伊達秀宗」の戦功によって、「宇和島城」を与えられここも幕末・維新まで「伊達家」によって統治されます。
維新の「戊辰戦争」(1868年)では、「仙台藩」が「奥羽越列藩同盟」の「盟主」となり、新政府に対して「会津・庄内藩」が“朝敵”であることを赦免嘆願する書状を「総督府」に提出しました。
しかしそれが却下されてからは、奥羽全体の命運をかけて新政府軍と全面戦争に突入します。当初は進撃しましたが、「三春藩」の裏切り、「久保田藩」とその同調藩の「同盟」からの離反、更には「同盟」主力の「米沢藩」も投降したことで、「仙台藩」藩主「伊達慶邦」は降伏しました。
<縄張り>
「広瀬川」が形成した河岸段丘面を利用して最高値に有る「青葉山段丘」を「本丸」として、各段丘面の高低差を巧く使用して「二の丸」「三の丸」を設けています。
「本丸」は山城となり防御性を重視した城郭で、千畳敷と呼ばれた「大広間」、書院や大台所等の御殿が建ち当初は4基の三重櫓と1基の二重櫓が建っていましたが、1646年の地震で倒壊した後は築かれませんでした。
「二の丸」は、2代藩主「忠宗」が、晩年の「政宗」の隠居城であった「若林城」の「御殿」を移築して、「藩主」の私邸と藩庁として増改築されます。
「三の丸」は、当初は「政宗」の茶室や庭園が置かれていましたが、その後は米蔵、酒造屋敷等が置かれました。
仙台城俯瞰絵図 ↓
広瀬川沿いの石垣 ↓
仙台城本丸遠景(広瀬川から) ↓
<三の丸>
今回は、「三の丸」→「二の丸」→「三の丸」と攻めていきます。
「三の丸」は、築城当初は、「政宗」が使用した茶室や庭園が置かれていましたが、その後は「蔵屋敷」や年貢米を保管する「御米蔵」が並んでいました。北側には「子(ね)の門」が、南側には「巽門」が置かれていました。二階門だった「巽門」は戦前まで現存していましたが、戦災で焼失してしまい、現在では礎石のみ見ることができます。
「子の門」跡(三の丸北の入口) ↓
「巽門」跡の礎石 ↓
「三の丸」の敷地は、堀替わりの「五色沼」と「長沼」に囲われ、更には周辺を土塁で固めた曲輪でした。現在は、「仙台市博物館」の敷地になっています。また、その裏側には、非常に精悍な顔つきの「伊達政宗」胸像が立ちます。
堀替わりの「五色沼」 ↓
堀替わりの「長沼」(左には広瀬川、右は三の丸土塁」 ↓
三の丸東側の土塁 ↓
「伊達政宗」胸像(三の丸跡) ↓
「三の丸」の北エリアから東エリアにかけても城域は拡がっていて、「登米伊達家」「水沢伊達家」の武家屋敷が並んでいた敷地で、現在は行政諸施設や公園となっています。
「登米伊達家」「水沢伊達家」の武家屋敷が並んでいた敷地 ↓
「三の丸」或いは「二の丸」から、「本丸」へ至る登城路は、2ルートありました。
① 一つは、「大手門」から入り南側に向かう結構きつい上り坂ですが、途中に「中の門」「沢の門」を通って本丸北面の高石垣前に出るルートです。
② もう一つは、「三の丸巽門」脇から延びる登城路で、「酒蔵」跡の前を通り「清水門」を抜け急坂を上って「沢の門」で前述のルートに合流する道です。
それでは①のルートから登城していきます。
<二の丸>
「二の丸」は、「政宗」の子女の屋敷が建っていましたが、2代藩主「忠宗」の時に、「若林城」の御殿を移築してきて、藩主の私邸と藩庁として使用されるようになります。現在の「二の丸」の跡地は、「東北大学」川内(かわうち)キャンパスになっていて大学の建物が建っています。
「二の丸御殿」跡(現在 東北大学川内キャンパス内) ↓
二の丸「詰の門」跡付近(二の丸の入口) ↓
「二の丸」東側には、桃山形式の立派な「大手門」がありましたが、その脇にあった「隅櫓」とともに太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。現在は、「隅櫓」が復元されている他、「城壁の太鼓塀」が一部現存しています。その「大手門」は名護屋城の城門で「豊臣秀吉」から下賜されたと言われています。
因みに、「大手門」の図面などが残っているので再建を検討されているようです。
復元「隅櫓」と「太鼓塀」の間は「大手門」跡(戦災で焼却) ↓
焼失前の「大手門」と「隅櫓」 ↓
復元「大手隅櫓」 ↓
現存「太鼓土塀」と復元「大手隅櫓」 ↓
現存「太鼓土塀」 ↓
現存「太鼓土塀」と復元「大手隅櫓」 ↓
「大手門」から入り南側に向かうと結構きつい上り坂になる車道ですが、途中に「中の門」「沢の門」を通って本丸北面の高石垣前に出ます。
「中の門」跡 ↓
「中の門」跡 ↓
「沢の門」跡(二つの登城ルートがここで合流) ↓
もう一つのルートでは、「三の丸巽門」脇から延びる登城路で、「酒蔵」跡の前を通り「清水門」を抜け急坂を上って「沢の門」で前述のルートに合流する道です。
「酒蔵」跡 ↓
「清水門」跡(既に工事は完了済) ↓
「清水門」跡から「沢の門」跡へ通じる登城ルート ↓
<本丸>
「沢の門」から坂道をどんどん上がっていった正面には高石垣が見えます。「本丸」の北側に、「切込接・布積み」の中でも「箱積み、木摘み」という積み方の堅固な高石垣で、角(隅)部分は「江戸切り」という丁寧な加工で稜線を際立たせています。
本丸北東の切込接布積みの高石垣 ↓
本丸北東の切込接布積みの高石垣 ↓
本丸正門は、二階建ての「詰門」とその両脇には三重の「東脇櫓」「西脇櫓」が睨みをきかせました。
本丸の俯瞰絵図 ↓
本丸「東脇櫓」跡石垣 ↓
「詰の門」跡左側石垣 ↓
「詰の門」跡右側石垣 ↓
「詰の門」跡右側石垣、奥に「西脇櫓」跡石垣 ↓
更に三重の「艮櫓」「巽櫓」と「酉門」脇の二重櫓が築かれ守りを固めていました。現在は、櫓跡の石垣が残るのみです。また、「天守」は建てられなかったけれども「天守台」は「護国神社」の脇にあります。
「艮櫓」跡石垣 ↓
「巽櫓」跡 ↓
「護国神社」(本丸内、左奥に天守台) ↓
現在その脇には「本丸会館」「青葉城資料展示館」が建ち、仙台城や仙台藩の歴史が説明されています。
「本丸」の敷地には、「千畳敷」と呼ばれた「大広間」「書院」「台所」などの「御殿」が建ち並び、特に断崖絶壁に懸かる「懸造(かけづくり)」は、城下を一望できる「政宗」自慢の建造物であったようです。
「伊達政宗銅像」(本丸跡内) ↓
「本丸御殿」跡(現在は「大広間」の遺構表示整備がされている、左は断崖絶壁) ↓
「懸造」跡(崖上に数寄屋風書院造り建築物が懸っていた) ↓
「本丸」跡から望む仙台市内 ↓
本丸「埋門」跡 ↓
<城下、瑞鳳殿、仙台東照宮、観欄亭>
「仙台城」と「伊達家」関連遺構が、城下周辺に多く残されています。
「仙台城」の唯一の城郭建造物である「城門(中門)」が、現在、「宮城県知事公館正門」(県指定文化財)に移築されています。ここへ移築前は、大正年間に「第二師団長官舎の門」として使用されていました。
「仙台城城門」(現在 宮城県知事公館正門) ↓
「仙台城城門」の門扉 ↓
「仙台城」の東側を流れる「広瀬川」越しにある丘陵地「経ケ峰(きょうがみね)」には、「伊達政宗」が遺言で場所指定した「廟所」があります。二代藩主「忠宗」によって、「御霊屋(おたまや)」である「瑞鳳(ずいほう)殿」が造営されます。
「御霊屋」は、本殿、拝殿、唐門、御供所(ごくしょ)から構成され、桃山形式の絢爛豪華な廟であります。近くには、二代藩主「忠宗」の廟所「感仙殿」と三代藩主「綱宗」の廟所「善応殿」が建ち、いずれも煌びやかな彫刻は眩い限りに造られています。
これら三つの廟所は、国宝指定されていましたが、太平洋戦争の戦火で惜しくも焼失してしまいました。しかし、「瑞鳳殿」は昭和54年に往時の姿に復元され、「善応殿」と「感仙殿」は昭和60年に再建されました。
焼失前の国宝「瑞鳳殿」 ↓
復元「瑞鳳殿」の「涅槃門」 ↓
復元「瑞鳳殿」の「中門」 ↓
復元「瑞鳳殿」の豪華絢爛の彫刻 ↓
復元「瑞鳳殿」の豪華絢爛の彫刻 ↓
復元「感仙殿」の霊廟(二代藩主「忠宗」) ↓
復元「善応殿」の霊廟(三代藩主「綱宗」) ↓
「仙台東照宮」は、1654年に二代藩主「忠宗」によって造営されたものであり、「随身門」や「唐門」が残り重要文化財に指定されています。
「仙台東照宮」の「随身門」 (三間一戸のハ脚門、重文) ↓
「仙台東照宮」の「唐門」(一間一戸の銅葺向唐門) ↓
仙台から少し足を延ばした「松島」にも、「伊達政宗」ゆかりの建造物が集まっています。
「豊臣秀吉」から「伏見城の茶室」の一棟を拝領したと言われている「観欄亭」が海岸沿いに建ちます。元々は、江戸品川の藩邸にあった建造物で、二代藩主「忠宗」がこの地に移築したものです。
「観欄亭」(重文、「伏見城茶室」の遺構) ↓
「観欄亭」縁側 ↓
「観欄亭」の「来賓の間」(床の間、襖、障子腰板に金箔、狩野派系統の絵師作) ↓
「観欄亭」は京間18畳2室内で、藩主・姫君・側室等の松島遊覧や、幕府巡見使の宿泊・接待に使用されていたそうです。ここの縁側から望む「松島湾」は、一気に旅の疲れを癒してくれる素晴らしい場所です。
「観欄亭」からのぞむ「松島湾」 ↓
「政宗」を始め「伊達家」の保護の下に反映した「臨済宗 瑞厳寺」は、「本堂」や「庫裏」が国宝に、「御成門」「中門」等は重要文化財に指定されている由緒ある寺院です。
1646年創建で、「政宗」の孫「光宗」の霊廟である「円通院三慧殿」がある「円通院」、「政宗」の娘で「徳川家康」の息子「松平忠輝」の嫁になった「五郎ハ姫(いろはひめ)」の仮霊屋も残ります。
「松島」は、海岸の風光明媚な地形として有名ですが、前述のような歴史ある建造物が集積している歴史を体験できるエリアとなっています。
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