あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしています。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。

塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。

また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届します。

また、「供侍(ともざむらい」「馬見所」等の特殊なモノもどうぞご覧ください。
 

本日は「島原城」(長崎県島原市)です。「日本100名城」に指定されています。

 

歴史と城主ですが、「島原城主」だった「松倉重政」と嫡男「勝家」が、農民に対する圧政によって大規模一揆を引き起こし、1637年の「島原の乱」の発端にもなったと言われています。 

 

圧政の原因は、4万石(後には6万5千石)の中小規模の城主にも拘わらず、分不相応の非常に立派なお城「島原城」を築城したことから財政難が生じ、それを補うべく税負担を重くしたこと、加えてキリシタンの弾圧を強めたからだったようです。

 

「島原の乱」の責任を負って「松倉勝家」が斬首となり「松倉家」は取り潰されました。その後は譜代大名の「高力家」「松平(深溝-ふこうず)家」「戸田家」の後に再度「松平(深溝)家」が入城した後は、幕末・維新まで統治が続きます。

 

後半の「松平(深溝)家」の「松平忠恕(ただひろ)」の時には、1792年に普賢岳眉山(ふげんだけまゆやま)による噴火と大崩落によって「島原城」や城下が埋没する壊滅的大被害を受けた「島原大変肥後迷惑」が起こります。

 

お城の立地と縄張りは、南北に長い長方形で、堀の外側南端には枡形を備えた「大手門」を構え、南側から「本丸」「二の丸」「三の丸」が繋がる「連郭式」の縄張りでした。

 

そして「本丸」と「二の丸」は各々共に、水堀で囲われていました。特に、「本丸」は「二の丸」から「廊下門」でのみ繋がっていて、いざという時には、「廊下門」を切り落として籠城できるようになっていました。

 

築城時は前述のように4万石にも拘わらず、五重の層塔型「天守」を始め、往時には5基の「三重櫓」、10基の「二重櫓」、38基の「平櫓」、数基の「多聞櫓」、更には10基の「櫓門」など、大城郭に相当する城郭建造物群で覆われたお城でした。

 

城内の「城郭建造物」は、復興「天守」を始め、同「丑寅三重櫓」、同「巽三重櫓」、同「西三重櫓」が「本丸」跡に建ちます。

 

復興「天守」 ↓

復興「丑寅三重櫓」 ↓

復興「巽三重櫓」 ↓

復興「西三重櫓」 ↓

 
「その他の城郭建造物」は、まず「復興天守」東側に「御馬見所」という名称の建物が建ちます。これは、「三の丸」にあったモノを後年移築したものです。幕末に城主(藩主)の軍事訓練視察用として造られもので、城郭建造物としては非常に珍しい建物で登録有形文化財に指定されています。
 
「三の丸」から移築された登録有形文化財「御馬見所」 ↓
「三の丸」から移築された登録有形文化財「御馬見所」 ↓
「三の丸」から移築された登録有形文化財「御馬見所」 ↓
 
また、三基の「三重櫓」からは「狭間」付きの白壁「城壁」が延びますので、一層お城の雰囲気を醸成してくれます。更には「本丸」跡の周囲を白壁「城壁」が「横矢を掛けながら」2〜3段囲む光景は見事です。
 
「丑寅三重櫓」から延びる白壁「城壁」 ↓
「丑寅三重櫓」から延びる白壁「城壁」 ↓
「巽三重櫓」から「丑寅三重櫓」方向に延びる白壁「城壁」 ↓
「巽三重櫓」を囲う白壁「城壁」(奥は「天守」) ↓
「本丸」跡南側の「城壁」 ↓
「本丸」跡南側の白壁「城壁」 ↓
重なり合う白壁「城壁」 ↓
「西三重櫓」の西側には三段の白壁「城壁」 ↓
 
特に南東隅の重なるような「屏風折れ」は非常に美しく、下の石垣と共にまるで「大坂城」の「二の丸」跡南堀沿いのようです。
 
「屏風折れ」と三段の白壁「城壁」 ↓
南東隅の「屏風折れ」(東方向) ↓
南東隅の「屏風折れ」(西方向、) ↓
 
 
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