昨日(7/27)、大阪の城友と一緒に「青春18きっぷ」を使用し、「高松」まで足を伸ばして日帰りお城巡りに出かけました。行き先のお城は「高松城」、そして同市内で国指定史跡である山城「勝賀城」です。

 

8時発の「播州赤穂行」新快速で「相生」まで行き「岡山行」に乗換えです。12両編成の車両から「6両」の電車へ一斉に乗り換えますので、座席の争奪戦です。それでなくても混雑する区間ですが、特に夏休み、青春18きっぷシーズンでもあることから混みようは半端ありません。

 

岡山区間を走る新型車両「ウララ」(岡山駅にて) ↓

 

幸いにも走って2座席を確保したものの、城友は老人に席を譲り1時間余り立ちっぱなしになりました。

 

超満員の「山陽本線岡山行 ウララ」の車内 ↓

 

「岡山」からは「高松行」の快速マリンライナーに乗継ぎ、「高松」着は11時49分でした。涼しい車両内で時間を有効に使おうと、「高松」に着くまでの「瀬戸大橋」から瀬戸内海を望みながらの早弁をしました。

 

「快速マリンライナー」(高松駅にて) ↓

 

まず1城目の「高松城」(香川県高松市玉藻町)訪城は今回で4度目ですが、2022年7月に木造復元された「桜御門」を見ることを主目的で訪城しました。

 

その前に「高松城」の歴史と藩主について触れておきます。

 

「高松城」は「水戸藩」の支藩的な高松藩「松平家」のお城で、「徳川家康」の十一男の「徳川頼房」の長男「松平頼重」が1640年に入城して大改修されました。因みに、「頼重」の次男は、「水戸藩主」になった「水戸黄門」こと「徳川光圀」です。その後、城主(藩主)は、「光圀」系に替わりますが、江戸時代通じて徳川家の「家門」として格式の高いお城でした。

 

「桜御門」に話を戻しますと、当門は太平洋戦争の高松空襲で焼失した櫓門で、調査を開始して櫓台や礎石の整備が徐々に行われてきて、前回訪城した時には、もう後は上物を建造するだけの状態でした。

 

丁度復元された2年が経ちますが、まだまだ美しいままの姿を維持しています。

 

木造復元「桜御門」 ↓

 

大手口である「旭門」と「太鼓門」の桝形形式の門を入り、「三の丸」の入口に建てられた門です。

 

大手口である「旭門」 ↓

「旭門」と「太鼓門」(手前の石垣)との桝形内には「埋門」がある ↓

「太鼓門」の石垣(「大坂城」の石垣を彷彿とさせる) ↓

 

「桜御門」は「櫓門」型式、外観下部は「下見板張り」、上部は白漆喰、門部分には素木に鉄板を貼った(筋金)扉が架かります。瓦庇上の窓は「連子格子窓」に黒い枠が嵌められています。

 

木造復元「桜御門」 ↓

木造復元「桜御門」(「三の丸」跡側から) ↓

「桜御門」の筋金を貼った門扉 ↓

戦前の古写真「桜御門」(現地に掲出の写真) ↓

 

内部に入ると、天井は「小屋組み」で「石落とし」を備えています。

 

木造復元「桜御門」の内部 ↓

木造復元「桜御門」の天井は「小屋組み」 ↓

木造復元「桜御門」の「石落とし」

 

「桜御門」は「平虎口」ではありますが、門を抜けた正面には「一文字石垣(勢留石垣)」が築かれていて、後ろに拡がる「三の丸」の目隠しになるように築かれています。

 

門を抜けた正面に「一文字石垣(勢留石垣)」 ↓

門を抜けた正面に「一文字石垣(勢留石垣)」 ↓

 

現在は、重文「披雲閣(ひうんかく)」が建ちます。この建物は、明治時代に老朽化で壊された「三の丸御殿」を、1917年に142畳の「大書院」を始め「楓の間」「松の間」「蘇鉄の間」がある現在の「披雲閣」に完成させました。

 

重文「披雲閣(ひうんかく)」(「天守台」から見下ろす) ↓

重文「披雲閣(ひうんかく)」の車寄せ ↓

重文「披雲閣(ひうんかく)」 ↓

重文「披雲閣(ひうんかく)」 ↓

 

「披雲閣」の庭園には大小の枝ぶりが良い松を植えていて、所々に非常に大きな灯籠が立ちます。

 

「披雲閣」の庭園 ↓

 

「桜御門」をジックリと鑑賞した後は、現存で現在は「太鼓櫓」台に移築されている三重三階の重要文化財「艮櫓」を見あげました。当櫓の特徴ですが、初階の隅に施された「石落とし」は大きく、形が曲線化しています。更に一重目の「千鳥破風」は二重目の瓦屋根を抜けて飾られています。

 

重要文化財「艮櫓」 ↓

重要文化財「艮櫓」 ↓

 

続いて、全国で12基しか残っていないもう1基の重要文化財の三重櫓「着見櫓」と、それに付随する「付櫓」「水の手水門」「渡り櫓」を見学しました。満潮ではなかったので、この櫓群の下まで海水が満たされていないのは残念でしたが、やはり「着見櫓」の容姿は「長押(なげし)」を窓の上下に施した「二引両(ふたつひきりょう)」で強調しているので美しさはひと際優れていて、私が好きな櫓です。

 

重要文化財「着見櫓」「付櫓」「水の手水門」「渡り櫓」 ↓

重要文化財「着見櫓」「付櫓」(西面) ↓

重要文化財「着見櫓」「付櫓」「渡り櫓」(奥から) ↓

重要文化財「着見櫓」「付櫓」(東面) ↓

重要文化財「着見櫓」「付櫓」(西面) ↓

重要文化財「付櫓」「水の手御門」「渡り櫓」(左から) ↓

「報時鐘」(稲田外江邸に置かれて時鐘として鳴らされていた。その後小学校や玉藻公園内に移築され1980年にこの場所に建てられた)  ↓

 

この後、「二の丸」から廊下橋「鞘橋」を渡り「本丸」跡へ足を向けました。「内堀」には今でも残る「水門」から引き込まれた海水が入り込み、海水魚が泳いでいる姿を見ることができ、丁度「クロダイ」の群れを見かけることができました。

 

「内堀」に泳ぐ「クロダイ」 ↓

復元渡廊下「鞘橋」 ↓

復元渡廊下「鞘橋」 ↓

復元渡廊下「鞘橋」と「二の丸」跡 ↓

 

「本丸」跡内の南西隅には「地久(ちきゅう)櫓」台がありますが、ここには二重二階の大きな櫓が建っていたそうです。

 

「地久(ちきゅう)櫓」台 ↓

「地久(ちきゅう)櫓」台(外側から) ↓

 

「天守台」への石段を上がっていくと、三重四階地下一階の「天守」地下一階部分の穴蔵へ出ます。58個の礎石が並ぶ天守台穴蔵ですが、ここには「南蛮造り」の天守が建っていて、古写真にも残っていますが、「天守」復元のために「天守台」の整備は既に終わっているものの、復元に必要なより多くの古写真を懸賞かけて探しているようです。

 

「天守台」(「三の丸」跡から「内堀」越しに見る) ↓

「天守台」(「本丸」跡から見る) ↓

「天守」地下一階部分の穴蔵 ↓

唯一残る古写真「南蛮造り天守」(現地に掲出の写真) ↓

復元に備えた「天守」絵図(現地に掲出の絵図) ↓

 

「天守台」の上からの眺めは頗る素晴らしいです。特に北方向の「内堀」「水門」越しに見える「瀬戸内海」とそこに浮かぶ島々の姿にはウットリさせる魔力があります。この「天守台」では外人客も見かけました。

 

「内堀」「水門」越しに見える「瀬戸内海」と島々 ↓

 

4度目の訪城で「桜御門」を見るのが主目的でしたので、城内はザクっと約1時間で見終えて、次の「勝賀城」へ向かう足である「タイムズカーシェア」の場所へ移動しました。

 

ところで、最近の「インバウンドパワー」は何処の地へ行っても遭遇しますが、この「高松城」でも数組のインバウンド客がお見えでした。「YOUは何しに高松城へ」と問いたいぐらい、どこで「高松城」の情報を得て、お城の何を目的にされているのでしょうか。

 

 

 

 

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