全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。

 

御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

 

名古屋城」の木造復元「本丸御殿」を分けてお届けしています。当城の「本丸御殿」は1945年に太平洋戦争で「天守群」と共に焼失しましたが、「本丸御殿」の復元事業は2009年から三期に分けて順次行われ、9年かけて2018年に完成しました。

 

一期目は「玄関」「中之口部屋」「溜之間」「表書院」、二期目は「下御膳所」「対面所」「鷺之廊下」「梅之間」「孔雀之間」「柳之間」「上台所」、三期目は「上洛殿」「御湯殿書院」「黒木書院」「上御膳所」が各々完成していきました。

 

写真が沢山ありますので、数回に分けてお届けをしています。

 

名古屋城」(愛知県名古屋市中区

「御三家」の一つ「尾張藩」に、「家康」が1610年に天下普請で築城を始め1612年に完成させて、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、また「徳川」の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。

 

幕末時には、14代と17代の藩主になった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子でしたが、幕政にも参画して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は、上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、「徳川家」にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

 

「本丸御殿」は前述したように太平洋戦争で焼失、その後「天守群」は1959年にRC造りで外観復元しましたが、「本丸御殿」は遅れること50年経った2009年に木造復元工事が開始され、三期9年の歳月をかけて2018年に完成しました。

 

戦前の「本丸御殿」と「天守群」の古写真 ↓

 

建物は当時の古写真や図面等から形や素材を正確に踏襲し、内部の襖や壁画、天井画全てが、殆ど戦災から免れた絵を元に精密な手作業で復元されていて、色鮮やかなモノを目にすることができます。

 

本日は、第二期工事で完成を見た「対面所」を周囲を取巻く「下御膳所」「上台所」と第三期工事で復元した「上御膳所」の写真を中心に掲載いたします。

 

「本丸御殿」図(入館時配布のパンフレットより掲載) ↓

 

下御膳所」は、食事の配膳や温め直しをした場所で、中央には「囲炉裏」と天井に「煙出し」が備わっています。

更に西側の「上洛殿」に近い場所には格式の高い「上御膳所」が置かれています。(「上御膳所」は三期目に復元されましたが、ここで掲載します)

 

「下御膳所」(左)と「対面所」(右) 北側から見る ↓

「中之口部屋」から「下御膳所」への廊下 ↓

「下御膳所」の手前の間 ↓

「下御膳所」内の床には「囲炉裏」 ↓

「下御膳所」内の天井には「煙出し」 ↓

「上御膳所」(「下御膳所」より格式が高く、上段之間、上之間、御膳場と呼ばれる3つの部屋があった) ↓

古写真「上御膳所」の「上之間」? (現地で掲出写真) ↓

 

上台所」は、将軍専用の食事を作る建物で、火を使用するので屋根は「本瓦葺」、庇は「杮葺」となっていて屋根には「煙出し」があります。

 

「上台所」の北東隅 ↓

「上台所」の北面 ↓

「上台所」(中はミュージアムショップに) ↓

 

次回は「対面所」をお届けします。

 

 

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