全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。

 

御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” 

 

今回は、忠実に木造復元された幕府直轄の「水原代官所」をお届けします。

 

水原代官所」(新潟県阿賀野市

もともと「新発田藩」領だった当地は広大な水田が広がり年貢の収益が高かった事から、1746年に「幕府」主導によって領地替えが行われ幕府直轄の「天領」となりなりました。

 

それによって、もともと「水原城」の跡地に「代官所」が設けられ、初代の代官「内藤十右衛門」が着任して以降1868年3月の「戊辰戦争」に伴い会津藩預かりとなり、その後西軍の侵攻により会津藩が退散して同年7月に廃止されるまでの約120年間続きました。歴代の代官の人数は22代、石高は5万石から10万石を領していました。

 

「代官所」の役割は年貢の徴収と民政、福島潟の開発、更には外様大名のお城がある「新発田藩」「村上藩」の監視も重要な業務となっていました。

 

 

現在は、1995年に当時の「水原代官所」の平面図を基に忠実に木造復元されたので、当時の姿を見ることが出来ます。「水原城館」跡及「水原代官所」跡は1969年に「阿賀野市指定史跡」に指定されています。

 

外観も内部も忠実に木造復元された「水原代官所」 ↓

「水原代官所」の古絵図 ↓

「水原代官所」の平面図 ↓

 

代官所の建物は、中庭を中心に各部屋が配備されていて、特に「奥御庭(おくみにわ)」前には「代官」の執務室である「上ノ間」を始め「中ノ間」、そして接客用の「使者ノ間」が並んでいます。

 

木造復元された「水原代官所」の「玄関」 ↓

木造復元「水原代官所」の「中庭」 ↓

木造復元「水原代官所」の「代官所玄関」、右は「使者の間」から「上の間」部分 ↓

木造復元「水原代官所」の「上ノ間」には「床の間」と「違い棚」を備える ↓

木造復元「水原代官所」(「使者の間」から「中ノ間」「上ノ間」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(「中ノ間」から「大玄関」方向を見る) ↓

 

そのエリアを両側から挟む位置にある左手には「代官」を支える「用人」の「御用人部屋」や「中間部屋」が置かれていました。

 

木造復元「水原代官所」(「御用人部屋」から「中間部屋」を見る) ↓

 

そして、もう一方の側には「大広間」、更には取り調べを行う「公事場」「訴所」「白洲」が配備されています。

 

木造復元「水原代官所」の「大玄関」 ↓

木造復元「水原代官所」の「公事場」 ↓

木造復元「水原代官所」(「公事場」前の「白洲」) ↓

 

「上ノ間」「中ノ間」「使者ノ間」の「中庭」を挟んだ対角線上には、耕地、税取り立て等地方行政を執り行う「御用場」や「書役部屋」等の部屋があり行政を司る役人が詰めていました。また「奥勝手」「奥御台所」「御台所」の生活するために必要な施設や「温故堂」という名前の「御学問所」も設けられていました。

 

木造復元「水原代官所」の「御用場」 ↓

木造復元「水原代官所」の「御学問所」(右側の建物) ↓

 

文字通り当地域の行政、軍事の中心施設として機能していました。

 

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 から「代官所玄関」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 から「代官所玄関」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 と跡碑) ↓

木造復元「水原代官所」周囲は「土塁」で囲われている ↓

 

 

 

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