全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。

 

御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

今回は、「掛川城」の現存で重要文化財の「二の丸御殿」をお届けします。写真が沢山あるので2回に分けて投稿していて今日は2回目です。

 

掛川城」(静岡県掛川市

元々は、「今川氏」のお城で、「今川」臣下の「朝比奈泰朝(やすとも)」が居城していました。しかし「今川義元」が「桶狭間の戦い」で敗死すると、「今川領」内に「武田方」と「徳川方」が攻め込み、「義元」の息子「今川氏真」が「掛川城」に逃げ込んだので、「家康」は近くの「掛川古城」に陣を構えて攻め立て「氏真」を降伏させました。

 

「掛川城」は、その後「徳川氏」が「石川家成・康通(やすみち)」親子を城代に置いて、「武田氏」との抗争の拠点として使用します。

 

その後「家康」が関東に移された後は、「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城し、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東軍として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となると、1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年間に13家20人の城主交代が有りました。最後は5万石の「太田家」が幕末・維新まで統治します。

 

 

本日「掛川城二の丸御殿」2回目は、東側の並びの「藩業務を行う役人の部屋」が並ぶゾーンをお届けします。

 

「藩業務を行う役人の部屋」が並ぶゾーンは、手前から足軽や下級武士を監督した「足軽目付」「徒(かち)目付」の部屋で、小さな明かり取りの窓がある程度の部屋です。

 

「二の丸御殿」の「役所」側の板敷廊下(この両側に部屋が並ぶ) ↓

「二の丸御殿」の「徒目付」「足軽目付」の部屋外壁(左から) ↓

「二の丸御殿」内の「足軽目付」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「徒目付」部屋 ↓

 

続いて「吟味奉行」「張役所」「賄方」「御文証」等、こららも小さい窓しか無い土壁と板敷の部屋が並びます。

(※)因みに「吟味奉行」とは藩内の訴訟・事件・経理関係の吟味をした部署、「張役所」とは邸内の警備担当で今で言うと保安、「賄方」は城内の修理修繕で今でいう営繕、「御文証」は文書管理で今で言うと庶務でしょうか。 

 

「二の丸御殿」内の「吟味奉行」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「張役所」部屋 ↓

「二の丸御殿」の「御文庫」「賄方」の部屋外壁(左から) ↓

「二の丸御殿」内の「賄方」部屋 ↓

「二の丸御殿」内の「御文書」部屋 ↓

「二の丸御殿」 手前の内部は「賄方」「御文庫」、奥の内部は「御談の間」「広間」 ↓

 

一方西側の「大目付」「御用人部屋」は身分の高い役人の部屋で、中庭に面して明り取りの障子や襖が入り、畳敷きになっています。

(※)「大目付」は、藩士たちを監視・監査する役職、「御用人部屋」は、財務・庶務担当の役職の部署

 

「二の丸御殿」内の「大目付」部屋(襖や障子が入る) ↓

「二の丸御殿」内の「大目付」部屋(天井板も張られている) ↓

「二の丸御殿」 障子が入る部屋は「大目付」部屋(中庭から) ↓

「二の丸御殿」内の「御用人部屋」 ↓

「二の丸御殿」内の「役所部屋」から「御談の間」までの廊下 ↓

 

「御殿」を一周して当時の藩主中心に藩運営がどんな役職で賄われていたか、そしてその序列等を知ることができます。

 

「御殿」裏側には、「黒土塁」という「二の丸御殿」を外部から隠す目的の背の高い土塁を見ることができます。

 

「二の丸御殿」を東側から隠す「黒土塁」 ↓

 

以上、2回に亘って「掛川城 二の丸御殿」を見てきました。江戸時代当時の「藩主」や「藩士達」の仕事内容が良く判る部屋構成になっているな~と思いました。

 

 

 

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