6/20の東近江市、蒲生郡日野町へのお城巡り5城目は「仁正寺(西大路)陣屋」(滋賀県蒲生郡日野町)です。

 

前日のブログでもご紹介しましたように、「日野城」だった敷地を一部使用しながらの陣屋構えとなっています。

 

仁正寺(西大路)陣屋」の歴史と城主は、まず「日野城」の城主であった「蒲生氏郷」が伊勢の「松ケ島城」へ移りその後に「田中吉政」「長束正家」やその城代が入りましたが、関ヶ原の合戦後は「日野城」は廃城となりました。

 

その後1620年に「市橋長政」がこの地に2万石で入封して、「日野城」跡の一部を使用して陣屋を構えました。1622年に娘婿「長吉」等に分知を行ったので1万7千石となりましたが、幕末維新までこの石高で「市橋家」は続きます。1862年に名前を「西大路藩」と改称しています。

 

仁正寺(西大路)陣屋」の立地と縄張りですが、前述したように「日野城」の一部に被っていて、「日野城」跡の北側から東側にかけて「陣屋」が構えられていたようです。

 

昨日記載したように、「日野城」北西端の「土塁」上が藩庁の鬼門であるとのことでこの場所に藩の長久を祈って「稲荷神社」を建てました。また、「日野城」北東端の「土塁」上には藩主「市橋氏」の氏神として「涼橋神社」を建て、現在は両神社を橋で繋げています。

 

「稲荷神社」 ↓

 

昨日紹介しましたが、基部の所に石垣が見られる「土橋」北側の敷地が「仁正寺陣屋」跡のようで、そこには境界を示す「従是東仁正寺領」碑がポツリと立っています。

 

「土橋」基部の石垣 ↓

「日野城」北側の「堀」跡の「池」 ↓

「従是東仁正寺領」碑 ↓

 

また、その敷地内には外側がかなり老朽化が進んでいる現存「米倉」がこれまたポツリと建っています。

 

現存「米倉」 ↓

現存「米倉」 ↓

 

「陣屋跡」は午前中にはゲートボール場として賑わっていると想像できるような広場ですが、入口付近は少し段高くなっていて大正14年に立てられた「藩主 市原家邸跡」碑と彫られた石塔がひと際目立っていました。

 

「陣屋」跡の入口付近 ↓

「藩主 市原家邸跡」碑 ↓

「藩主 市原家邸跡」碑の裏側には「大正十四年」と記載 ↓

 

陣屋跡は、東方向に向かって拡がり、向かって右側(南側)は「土塁」が繋がっているように見えますが竹藪化が進んでいて、その向こうには「日野川ダム」が迫っています。

 

「陣屋」跡は「ゲートボール場」 ↓

「陣屋」跡の南側(下から見上げた) ↓

左側が「陣屋」跡、右が「日野川ダム」 ↓

 

跡地にはその他に殆ど遺構らいきモノはありませんが、陣屋跡周囲や少し離れた場所にも移築された建造物があります。今回は、これらには足を向けませんでしたので、13年前に撮った写真を掲載しておきますのでご覧ください。

 

「藩邸」の一部移築(法雲寺本堂)  ↓

「藩邸」の一部(聖財寺本堂) ↓

「藩邸」の一部(1861年、藩邸新築の際に元の藩邸の一部を移築、清源寺本堂) ↓

「東木戸門」(経王寺山門、棟門形式) ↓

「東木戸門」の鬼瓦(「市橋家」家紋「三盛菱」が付く) ↓

 

「日野町」から遠く離れた「京都市内」の「相国寺林泉院」に「藩邸」がほぼ完全な形で移築されています。陣屋の「藩邸」は珍しいので、一見の価値があります。

 

移築「藩邸」(現「相国寺林泉院」-京都市上京区今出川) ↓

移築「藩邸」(現「相国寺林泉院」-京都市上京区今出川) ↓

移築「藩邸」(現「相国寺林泉院」-京都市上京区今出川) ↓

 

次回のブログはいよいよ最終の「長居平城」へ向かいます。

 

 

 

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