6/20の東近江市、蒲生郡日野町へのお城巡りの3城目は「音羽城」(滋賀県蒲生郡日野町)です。

 

「大森城」から車で約30分弱で到着しました。

 

このお城の「本丸」「二ノ丸」「南丸」は公園化され、その西側の横堀風のモノも後からトロッコを通す為に掘られたものということで、当城のお城としての評判はよくないようでした。

 

公園化しているということで、駐車場は広いスペースが取られていましたが、当日は平日だったこともあり私のレンタカー1台だけでした。そこには「音羽城」の解説や縄張り図等が掲出されていたので、山城巡りスタート気分になりました。

 

音羽城」の歴史と城主は、戦国時代前期に「蒲生貞秀」が築城し「蒲生氏」のお城でした。その後守護「六角氏」と関係を持ち、「六角高頼」が重臣「伊庭氏」によって反乱を起こされた際には「高頼」を当城に保護しています。

 

翌年に「伊庭方」からの攻撃を受けますが4ケ月も籠城戦で耐えます。しかし、「貞秀」が亡くなると「蒲生家」内で後継者争いが勃発し、1522年に今度は「六角定頼」による「音羽城」攻めを受け8ケ月の籠城しますが、とうとう降参して当城から退散します。そして当城は、「六角氏」によって破却されました。

 

音羽城」の立地と縄張りは、約40m程の比高差がある尾根上に「本丸」「二ノ丸」が並列に置かれ、その南に「南丸」を配備。

 

その北西には物見的な「出曲輪」を、また南には「馬出し的な曲輪」と更に南には「出曲輪」とその先の二つの池を掘り代わりに南の防衛を意識した縄張になっています。そして、「主郭部」の西側下の敷地には兵士たちを滞留させていた「士屋敷」が設けられています。

 

「縄張図」(現地に掲出、右が北方向) ↓

 

それでは、駐車場の西側から山に入る「伝大手道」を登城していきます。この場所では「山城」だという雰囲気が漂っていて公園化しているような雰囲気は全くありません。

 

登城口と「伝大手道」 ↓

 

「伝大手道」を上って行くと右手に「切岸」が施されたような崖が見られ、そこが「伝出曲輪」跡北面であることを理解しました。

 

「伝出曲輪」跡北面(「切岸」が施されたような崖、「伝大手道」から) ↓

 

「伝出曲輪」跡の東側の登城路を上がって行くとV字になった「堀切」が現れます。上りきった右手が「伝出曲輪」跡で「虎口」両脇には「土塁」が築かれ、中には「阿賀神社」の鳥居と古びた手水鉢と祠がありました。

 

「伝出曲輪」跡の東側の登城路を上りきった「堀切」 ↓

「伝出曲輪」跡(奥に「阿賀神社」の祠) ↓

「伝出曲輪」跡(「阿賀神社」の手水鉢と鳥居) ↓

「伝出曲輪」跡北面の「切岸」 ↓

 

更にそこから真直ぐ進むと右手に「伝士屋敷」跡が拡がり、先ほどの「伝出曲輪」跡との間には幅広い「堀切」が見られます。また、「伝士屋敷」の東側の土手下には、1522年から3年間に約8ケ月の籠城に使用されたという「井戸」も残ります。

 

「伝士屋敷」跡と「伝出曲輪」跡(右)との間の幅広い「堀切」 ↓

「伝士屋敷」跡 ↓

「井戸」(「伝士屋敷」跡の東側) ↓

 

V字となった坂道を上ると「音羽城跡」碑が立ち、いよいよ主郭部へ入ります。

 

「史跡 音羽城跡」碑 ↓

 

公園化された主郭部ということでしたが、ただ芝生が広々と拡がり、入口部の右側が「伝本丸」跡と更に林となっている所が「伝帯曲輪」跡のようです。一方、左手に遊戯施設が並んでいる所が「伝二ノ丸」跡のようです。そしてこれらの南方向の敷地が「伝南丸」跡です。

 

「伝本丸」跡 ↓

「伝帯曲輪」跡(「本丸」跡の西側) ↓

「伝二ノ丸」跡 ↓

 

「伝本丸」跡付近には、大きな解説板が立ち、そこには大正6年に実測された「音羽城」の城跡図が掲出されていたので、もう一度縄張の確認を行いました。

 

大正6年に実測された「音羽城」の城跡図(現地に掲出) ↓

現況の「縄張図」(上が北方向) ↓

 

色が異なる芝生が「伝南丸」跡方向に走っていましたが、これが「伝本丸」跡と「伝二ノ丸」跡の間の境界なのでしょうか。

 

色が異なる芝部分(「伝本丸」跡と「伝二ノ丸」跡の境界かな?) ↓

 

「伝南丸」跡南東隅部の少し盛り上がりがある所には、「庭園」跡と「井戸」が残っています。この辺りに居館が建っていたのかもしれません。「井戸」は、素掘りで深さ8.7mあるそうで、1523年の籠城戦後の落城時に城主「秀紀」の奥方が投身自決したとの伝説があり「お方の井戸」とも呼ばれているとのこと、また後から紹介しますが、南側にある「抜け穴」にも繋がっていると謂われています。

 

「伝南丸」跡南東隅部の少し盛り上がりがある所 ↓

「庭園」跡 ↓

「井戸」(「お方の井戸」とも謂われる) ↓

 

この後、北側から東側にかけて「横堀」のようになっている堀底へおりて歩きました。この「堀」のような所は、大正時代に行われた「日渓溜築堤工事」用のトロッコ道として掘られた跡とのことですが、その東側の直線状に残る「土塁」もその時に掘られた土を盛った跡なんでしょうか。

 

北側の「横堀」のような旧トロッコ道(「帯曲輪」だった所とか) ↓

東側の「横堀」のような旧トロッコ道(「帯曲輪」だった所とか) ↓

東側「横堀」のような旧トロッコ道を掘った土で盛られた「土塁」かな? ↓

 

「堀」のような所を南下して先ほど見た「庭園跡と井戸」の南東隅下から、「南丸」跡の南側に飛び出している「馬出し的な曲輪」跡へ上がりました。

 

「庭園跡と井戸」の南東隅下を見上げる(堀のような旧トロッコ道から) ↓

 

「馬出し的な曲輪」跡は結構広い敷地になっています。その南に掘られた「堀切」には「土橋」が架かっていて「伝出曲輪」跡に繋がります。

 

「馬出し的な曲輪」跡 ↓

「馬出し的な曲輪」跡(「伝出曲輪」跡から) ↓

「馬出し的な曲輪」跡(左)と「伝出曲輪」跡(右)の間の「堀切」(奥に「土橋」が見える) ↓

「馬出し的な曲輪」跡(左)と「伝出曲輪」跡(右)を繋ぐ「土橋」 ↓

「馬出し的な曲輪」跡と「伝出曲輪」跡を繋ぐ「土橋」 ↓

 

「伝出曲輪」跡は、当時の状態をかなり残している曲輪で、特に東面には高さのある「土塁」とその延長に「櫓台」が設けられています。

 

「伝出曲輪」跡東側の「土塁」最北端 ↓

「伝出曲輪」跡東側の「土塁」上(北方向) ↓

「伝出曲輪」跡東側の「土塁」(北方向) ↓

「伝出曲輪」跡東側の「櫓台」 ↓

「櫓台」から「伝出曲輪」跡を見下ろす ↓

 

「伝出曲輪」跡の西側には「抜け穴」が発見されていて、先ほど記載した「南丸」跡南東隅に掘られた「井戸」とこの「抜け穴」が繋がっているのではと謂われています。またその近くにも窪地が見られました。

 

「抜け穴」の入口 ↓

「抜け穴」 ↓

「抜け穴」近くに窪地もある ↓

 

「伝出曲輪」跡から南方向へは尾根伝いとなっていました。またその左下には「日渓池」があります。

 

「伝出曲輪」跡とその南側の曲輪の「土塁」 ↓

 

「音羽城」跡は以上で巡り終えましたので、駐車場の車へ向かいました。

 

次は、同じ「日野町」内で、近くにある「日野城」跡と「仁正寺陣屋」跡へ車を進めました。

 

 

 

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