翌日(6/20)の天気予報を見ると、近畿地方では21日から梅雨入りしそうでしたので、晴れ間が最後の20日を有効活用しようと、急遽、お城巡りを企画したことについては<速報>でもお届けしました。
行き先は、東近江市と蒲生郡日野町の6城を計画し、前日の夜に縄張図と解説をプリントアウトして、付け焼き刃の予習をして臨みました。
JR「大阪駅」を8時26分の新快速に乗車して「野洲駅」乗換えでJR「近江八幡駅」に9時35分に到着しました。
前日の夜に予約していた「ニコニコレンタカー」に乗換え、駅からは「大森町」方面へ向かい約25分で中心部に到着、まずは「大森陣屋」(滋賀県東近江市)跡に立寄りました。
「大森陣屋」 の歴史と城主は、交代寄合「最上家」5千石の居城でした。「最上家」といえば、東北の雄と言われた戦国大名「最上義光」の子孫が城主を務めました。
「最上義光」は、出羽山形藩57万石の大大名でしたが、1617年に二代目の「家親」が急死したので「義光」の孫で12歳の「義俊」が家督相続しました。しかし、若い殿さんは、「最上家中」の揉め事を収めることができず「最上お家騒動」が勃発し「山形藩」を改易になり、この「大森」の地に1万石に大幅減封となって移封となりました。
しかしこの「義俊」も1631年に27歳で若死にして、嗣子である「義智」はまだ2歳という若年当主であった為、知行は5千石と半減されて、大名の地位からも転落して「交代寄合」という「老中」支配下の「旗本」となりました。
「交代寄合」は、1万石以下で幕府内では大名並みの処遇をうけ、基本は知行地に居住して参勤交代も行う等の決りもありました。
現在、陣屋跡は「玉緒小学校」となっていますが、堀などの遺構は一切ありません。ただ、「小学校」敷地外の東側に、大きな石にきざまれた「大森陣屋跡」碑が大きな石台の上に設置されています。
陣屋跡地に建つ「玉緒小学校」 ↓
「最上氏 大森陣屋跡」碑 ↓
最上氏 大森陣屋跡」碑 ↓
石碑の後ろには、旧家と家紋付きの蔵が建っていて、城下町の雰囲気を醸し出すのに充分なシチュエーションとなっていました。
石碑の界隈は「蔵」等があり城下の雰囲気が漂う ↓
石碑の近くに建つ「祠」 ↓
近くには、「最上家」の菩提寺や、陣屋門が「石塔寺山門」に移築されているようでしたが、時間の都合で立ち寄ることはしませんでした。
この陣屋跡地は、戦国時代にはこれから訪城する「大森城」の平時の館があった場所ということが発掘調査によって判明しているそうです。
次回のブログでは「大森城」をお届けします。
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