6/4(火)、大阪からの日帰り弾丸による千葉県内の”千葉氏関連4城(本佐倉城、臼井城、師戸城、千葉城=猪鼻城)”巡り、最後4城目は「猪鼻(いのはな)城」(千葉県千葉市中央区)です。
「臼井駅」から「京成上野行」に乗車、「津田沼駅」で「京成千葉線」に乗換えて「千葉駅」に着いたのが16時50分でした。
今から訪れようとしていた「猪鼻城」跡に建つ天守風「千葉城郷土博物館」は、まもなく閉館の時間でした。
「千葉駅」からは当初バスで向かう予定でしたが「千葉モノレール」というのがあるのを知りそれで「県庁前」まで移動することにしました。
この「千葉モノレール」は、懸垂式モノレールといって国内でも営業用では2例しかないらしいです。私は大昔に上野公園内にあった短い「上野モノレール」に乗って以来でしたので、珍しさもあって「千葉駅」では写真を撮りまくりました。
懸垂式の「千葉モノレール」(千葉駅にて) ↓
2両という短い車両で、乗り心地は跨座式モノレールとは大差なかったですが、重力に逆らって支えなければならない分、技術面や経費面で大変だろうな~と思いました。
懸垂式の「千葉モノレール」(県庁前駅にて) ↓
終点「県庁前」で下りて少し歩くともう「千葉県立中央図書館」や「県立文化会館」が建つゾーンに到着、既にその奥には天守風「千葉城郷土博物館」の上部が見えていました。
「智光院」と「胤重寺」の間道を進み階段を上った所に表れるのが「千葉城」こと天守風「千葉城郷土博物館」で、この高台が「猪鼻城」跡となっています。
ここで「猪鼻(いのはな)城」についての歴史と城主について触れておきましょう。
1126年に「平常兼」の息子「常重」が千葉に本拠を移して名字を「千葉」と替え「千葉常重」と名乗りました。「常重」の息子は「常胤」と言い、鎌倉幕府の成立に大きく貢献し、その功績で九州から東北地方まで所領を得て「千葉一族」は大武士団に発展していったそうです。
ただこの「猪鼻城」跡を発掘調査したところ鎌倉時代の遺構は出ず、この場所は「室町時代(戦国時代)」に「千葉氏」の有力家臣であった「原氏」が城郭を整備したという説が有力だとのことです。「原氏」といえば、今回訪城した「臼井城」に「臼井氏」を追い出して居城したことは、前々回のブログ「臼井城」で触れました。
1455年に一族の「馬加(まくわり、千葉)康胤」「原胤房」が宗家の「千葉胤直」を滅ぼして、「千葉氏」は本拠地を「千葉」から「本佐倉」へ移しました。
「千葉氏一族」の系図(「本佐倉城」で貰ったパンフ) ↓
「千葉氏一族」の系図(「本佐倉城」で貰ったパンフ、上から続く) ↓
「猪鼻城」の立地と縄張りは、台地の北端に「Ⅲ郭」「主郭(Ⅰ郭)」「Ⅲ郭」が並びます。更に南東方向には「外郭」があったようですが、そこは前述した「原氏」が戦国時代に築いたのではないかと謂われています。
「縄張図」(現地に掲出) ↓
さて私は、「Ⅰ郭」跡に建つ既に閉館時間を過ぎた天守風の「千葉城郷土博物館」の写真を各方向から撮りました。
以前からこの模擬「天守」を気にはなっていましたが、わざわざここだけ訪城するのもな~と敢えて積極的には訪城しようとは思っていなかったのですが、今回「本佐倉城」を登城するにあたり、城主などを知らべていたら、「千葉氏」という鎌倉幕府の設立に関わり、鎌倉時代からの御家人衆から戦国大名まで成長していった家系だといくことを知り、そのスタート地点である「千葉城=猪鼻城」に興味を持ったということです。
模擬「天守」前には「千葉一族」は大武士団にした「千葉常胤像」 ↓
そこに建つ「郷土博物館」を兼ねた模擬「天守」ですが、1967年に建築されて以来57年間も千葉市内を見おろし、摸擬「天守」といえども、千葉市民や県民のシンボルになって郷土の歴史理解に役立て、また我々のような観光目的にも貢献しているので、現代におけるお城の役割をシッカリと果たしていることは素晴らしいことだと思います。
「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」(西面) ↓
この模擬「天守」は、四重五階の層塔型・付櫓が付随する複合式「天守」になっています。外観は「白漆喰総塗籠め」で西側から見ると「切妻破風」の「付櫓」が真正面に見えます。
「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」(西正面に「付櫓」) ↓
東・西面の「破風」は二重目に「比翼千鳥破風」、三重目に「軒唐破風」を付け、南・北面の「破風」は一重目に大きな「軒唐破風」、二重目に大きな「千鳥破風」、三重目に「比翼千鳥破風」、四重目に「軒唐破風」が飾られていて、まるで「姫路城」の外観を彷彿するようでした。
「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」(南面) ↓
「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」の「付櫓」(南面) ↓
最上階には遠望できるように「高欄・廻縁」が取り付けられています。
「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」(南東方向から) ↓
残念ながら中へは入ることができませんでしたが、3階の常設展示である「千葉氏の興亡」については是非見たかったな~と思いました。
幸いにも「本佐倉城」の「案内所」でもらった「千葉一族の歴史と4つの転換期」のパンフは、「千葉氏」の事を知るうえで貴重なモノとなりました。
摸擬「天守」周囲を散策した後、この高台の敷地に残る「猪鼻城」跡の遺構探りをしました。
まず「Ⅰ郭」跡の西側と東側に「土塁」が残ります。東側の盛土のような「土塁」は崩れ防止で石垣によって囲ってありましたが、そこの箇所だけが残ったという感じのモノでした。
「Ⅰ郭」跡の東半分に建つ「郷土博物館」を兼ねた「千葉城」の模擬「天守」 ↓
「Ⅰ郭」跡東側に残る「土塁」 ↓
西側の「土塁」はシッカリと北側辺りまで延びて残っています。上にも上れるようになっていました。
西側の「土塁」 ↓
西側の「土塁」の上 ↓
この「土塁」の北先端は「堀切」となっていて階段で下りることができ、その先再び階段で上がった敷地が「Ⅲ郭」跡で「神明社」が建っています。
「土塁」の北先端 ↓
「Ⅰ郭」跡(手前)と「Ⅲ郭」跡の間の「堀切」 ↓
この「神明社」は、「猪鼻城」の守護神として千葉氏三代目の「忠常」の世に鎮座させ、八代目「常胤」の時に社殿を修築をしたとのこと、勿論現在の祠のような「神明社」は後年に建てられたものでしょう。
「Ⅲ郭」跡に建つ「神明社」 ↓
「Ⅲ郭」跡の東側の階段を下りていくと公園があり、その北側には「お茶の水」と刻まれた碑が立ちます。この井戸跡は、「千葉氏」代々の産湯水に使用され、また「常胤」はこの水で「源頼朝」に茶を献じたとの伝説があります。
「お茶の水」跡 ↓
「Ⅱ郭」は「Ⅰ郭」西側の「土塁」裏に1988年に茶室として建てられた「いのはな亭」の裏側と「智光院」との間に見える森になっている所のようでした。
茶室として建てられた「いのはな亭」の後方が「Ⅱ郭」跡 ↓
「智光院」との間に見える森が「Ⅱ郭」跡 ↓
以上で「猪鼻城」跡を見て廻り、再び「県庁前」から「千葉モノレール」で「千葉駅」へ戻りました。
飛行機のフライト時間までまだたっぷり時間がありましたので、千葉駅周辺を散策しようと思いましたが、既に35,000歩を越えてかなり足の指にダメージがきていたので、ゆっくり休憩を取るべく早めの夕食にしました。
とにかく、かなりのエネルギー消費をしていてお腹がペコペコでしたので、フードコートで物色をしていたら金沢名物の「カツカレー(ゴーゴーカレー)」があったのでそれに飛びつきました。
ガッツリと「カツカレー(ゴーゴーカレー)」 ↓
JR「千葉駅」18時52分発の「成田空港行」に乗り19時45分に到着、「ピーチ航空」は20時40分のフライトで帰阪しました。
JR「総武線」の車両(「成田空港駅」にて) ↓
22時40分着の予定が15分も早くなったので、帰宅は0時5分と少し午前様になりましたが、弾丸お城巡りは無事終了でき、しかも私が知らない「千葉氏」についても少し勉強できたいいお城巡りになりました。
最後に、この日の歩行数42,000歩、人生最高の歩数を叩き出しました。
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