6/4(火)、私の知らない世界である「鎌倉時代」、そして「鎌倉幕府」創設に貢献した「千葉氏」が、後には下総を中心に大武士団を形成し戦国大名化していった「千葉一族」のお城巡り(本佐倉城、臼井城、師戸城、千葉城=亥鼻城)を思い立ちました。

 

この日は、「関西空港」発の「ピーチ航空」弾丸日帰プランで朝7時30分発「成田」行便に搭乗し、帰りは成田発20時40分発で「関空」に22時15分着のフライトで行き来しました。

 

我が居住地「大阪府池田市」から「関西空港」までの行き来となると、片道約2時間もかかりますので朝二番目の電車に乗り、夜は最終近い電車となりますので、帰宅は翌日(6/5)の午前さまです。

 

それでも今の季節、朝は既に太陽が昇ろうとしていて薄明るいので苦にはならず、それ以上に弾丸プランの安さ(往復で諸手数料込みで約12,000円)という魅力には、身体もそれに反応してくれます。

 

ピーチ(関西空港にて) ↓

 

成田空港に着いて私がまず目指したのは、「本佐倉(もとさくら)城」(千葉県印旛郡酒々井町)です。因みに「酒々井町」は「しすいまち」と読みますが、何度聞いても覚えられない地名です。

 

一駅お隣にある「佐倉城」は近世城郭で2021年8月に訪城し、同時に訪城しようと計画していた「本佐倉城」は時間なく断念しましたので、リベンジでした。というよりも、「本佐倉城」は「佐倉城」の片手間で見れるような代物でないことを、今回訪城して初めて知りました。

 

当城は「国指定史跡」であると共に「続日本100名城」にも指定される程の名城です。

 

本佐倉城」の歴史と城主について、まず触れておくことにしましょう。

 

築城されたのは1470年前後ということで中世戦国時代のお城です。城主は「千葉氏一族」で、約100年の間に9代の城主が本拠地にしてきました。領域は下総国一国で、関東有数の名族でした。

 

冒頭にも少し触れましたが、「千葉氏」は鎌倉時代に「源頼朝」を支えて「鎌倉幕府」創設に貢献した「千葉常胤(つねとも)」によって大武士団へと発展していきました。

 

その後、1454年に始まる「古河公方」と「関東管領上杉氏」と対立した「享徳の乱」で「千葉氏」は内紛が起こって「本宗家」が滅亡、継承した「千葉孝胤」の時期(1469~1487年)に本拠地を「千葉」から「佐倉」へ移して、新たに築城したのが「本佐倉城」でした。

 

その後「豊臣秀吉」の天下統一で敵対していた「北条氏」の下に属していた「千葉氏」は滅亡して、その後は「本佐倉城」は放置されました。

 

本佐倉城」の立地と縄張りですが、「内郭」群は7郭(城山、奥ノ山、倉跡、Ⅳ郭、セッテイ、東光寺ビョウ、東山馬場)で構成され、「外郭」群は3郭(向根小屋、根小屋、荒上)からできていて、城下町を含む三重の同心円状の「総構」で構成されています。

 

「縄張図」(現地に掲出) ↓

「内郭」の「縄張図」(城内に掲出) ↓

 

京成本線「大佐倉駅」から南東方向に歩いていくと小山が続いていて遠くからでも分かります。

 

「内郭」の遠景 ↓

 

約15分くらいでお城の「内郭」北部分の「東光寺ビョウ」跡に着きます。弓なりの緩やかな敷地で、手前には「南奥虎口」がありその東側には「東山虎口」が置かれ、両虎口が当城の北側からの出入口になっています。

 

「東光寺ビョウ」跡 ↓

 

私は、遠くからでもメインであることが判る「東山虎口」へ向かいました。西側には「東山西塁」の大きな土塁が迫り、東側には「東山東曲輪」が横たわっている間を上がって抜けて行きますと右へ折れる「内枡形」になっていて、当時には二カ所の門があったようです。

 

「東山虎口」の西側の「東山西塁」 ↓

「東山虎口」正面 ↓

「東山虎口」(右へ曲がる) ↓

「東山虎口」(裏側から) ↓

 

「東山東曲輪」に上る階段があったので上がると、北方向の眺めは田園風景が広がり、時々そこを横切るようにして「京成電車」の行き来が見下ろせます。

 

「東山虎口」の「東山東曲輪」跡 ↓

「東山虎口」の「東山東曲輪」跡上(東方向) ↓

「東山東曲輪」​​​​​​​跡上から北方向(京成電車が走る) ↓

 

南方向を見下ろすと、「東山馬場」跡が見下ろせその奥には「城山」跡の小高い丘陵が木々に囲われて見えます。

 

「東山馬場」跡と「城山」跡(「東山東曲輪」​​​​​​​跡上から南方向) ↓


「東山馬場」跡から南西方向を見上げると、「千葉氏家紋」の旗印が段になってならんでいます。その敷地が「Ⅳ郭」跡と呼ばれている所で、家臣団屋敷が並んでいたようです。

 

段になった「Ⅳ郭」跡 ↓

 

その脇道を少し上がって左手に曲がると左右の郭(「城山」跡と「奥ノ山」跡)の間が切られた高低差が約6mもある「大堀切」があります。道を上りきった所に門があったようで、突き当りには大きな「土塁」によって左右の道を分けた分岐点になっています。右に行けば「奥ノ山」跡、左に曲がると「城山」跡ですので先にそちらへ向かいます。

 

「城山」跡(左)と「奥ノ山」跡の間の「大堀切」 ↓

「大堀切」突き当りの「土塁」で両郭への分岐点 ↓

 

緩やかな坂は左から右に曲がり突当りを左に曲がると「城山虎口」になります。「虎口」には低い土塁が見られその中が「城山」跡です。

 

左から右に曲がる緩やかな坂な先に「城山」跡 ↓

緩やかな坂の突き当りを左手に折れると「城山虎口」 ↓

「城山」跡の「坂虎口」 ↓

「城山」跡の「城山虎口」(右に虎口の「土塁」) ↓

 

ここは城主の館が建っていた空間で、来客を迎える「主殿」を始め宴会や庭を愛でる場所としての「会所」、その他小規模の建物がありました。また2箇所の角には「櫓」が配備されていたそうで、周囲ぐるりと「土塁」によって囲われています。北東面の「土塁」越しに見下ろすと「切岸」によって断崖絶壁になっていました。

 

「城山」跡↓

「城山」跡の周囲を取巻く「土塁」 ↓

「城山」跡から「東山馬場」「東山」の各跡を見下ろす ↓

「東山馬場」跡から「城山」跡を見上げる ↓

 

先ほど抜けてきた「大堀切」上には「奥ノ山」と行き来できる「木橋」が設けられていた場所です。

 

「大堀切」上には「木橋」が架かっていいた ↓

 

先ほどの分岐点まで戻り、続いて「奥ノ山」の麓を取巻く細い道を歩き階段を上った所が「奥ノ山」跡で「虎口」周囲には「土塁」が見られます。

 

この階段を上ると「奥ノ山」跡 ↓

「奥ノ山」跡虎口の右側の「土塁」 ↓

 

「奥ノ山」跡は広々とした空間で、当初は「千葉氏」の守護神「妙見宮」があった場所で現在は「妙見宮」碑が立ちその後ろには「土塁」が築かれています。現在、その「妙見宮」は「内郭」の南に移されて建っています。

 

「奥ノ山」跡 ↓

「妙見宮」碑(基壇上に立つ、後ろは「土塁」) ↓

 

「奥ノ山」跡西側は段になって「倉跡」が拡がります。「倉跡」は更に三段になっていて「内郭」の中で最も広い郭だそうです。

 

段下が「倉跡」 ↓

 

「倉跡」の北側から西側の下は、深い「空堀」が見下ろせますが、ここから下へは現在通行止めで降りれず、後から遠回りして下りることにして、その先「Ⅳ郭」跡北西の少し高い場所に建つ「諏訪神社」へ向かいました。

 

「倉跡」西側から見下ろす深い「空堀」(奥は「セッテイ」跡) ↓

「Ⅳ郭」跡北西の少し高い場所に建つ「諏訪神社」 ↓

 

「倉跡」と「奥ノ山」跡の間の細い山道を南へ下りていくと「妙見神社」があり「内郭」の南側へ出ます。

 

「倉跡」と「奥ノ山」跡の間の細い山道 ↓

「妙見神社」(「奥ノ山」跡に建っていた「妙見宮」) ↓

 

今は、更に南側の「外郭」である小山群との間が見渡す限り田園風景となっていますが、この辺りに「中池」という池が横たわっていたようです。面積的にも結構広い池だったんでしょうね~

 

「中池」跡(東方向) ↓

 

南側の「外郭」の一部「向根小屋」跡は、「内郭」を一周した後に巡りましたので後述します。

 

右側は「根小屋」跡、左に見える丘が「向根小屋」跡 ↓

 

「中池」の遺構と思われる部分が西側に「水の手」として残っていて、「井戸」のような水が湧き出ている所があります。今でもこの辺りの道には水が流れていて歩きづらい所でした。

 

「水の手」 ↓

「水の手」から「セッテイ」跡への山道 ↓

 

北に向かって上りの山道を進むと「セッテイ空堀」の表示があったので「空堀」の底へ下りていきました。「セッテイ」郭跡の西側にかけて掘られた深い「空堀」で、人質曲輪或いは接待館曲輪とも推定されている郭ですのでかなり厳重に警戒して掘られていたようです。

 

堀底から真直ぐに生えて伸びる竹の間を抜けながら歩きましたが、「横矢を掛け」ていてジブザグに曲がるので先の情景がわかりませんし、「セッテイ」郭と堀底との高低差は16mもあるらしいので非常に恐怖感がありました。

 

「セッテイ空堀」 ↓

「セッテイ空堀」(真直ぐは見通せない) ↓

「セッテイ空堀」の底から「セッテイ」跡を見上げる ↓

「セッテイ空堀」(真直ぐは見通せない) ↓

 

先端まで歩き再び「空堀」に下りた場所に戻って進むと「セッテイ虎口」碑が立ち、両脇には「土塁」が構えていました。ここには門があったのでしょう。

 

「セッテイ虎口」と両脇の「土塁」 ↓

 

「セッテイ」郭内は、倒木があり更に倒れる危険性があるとのことで立入禁止となっていましたが、ここも一つの山の上を削平して平坦にしているようでした。

 

「セッテイ」郭内 ↓

 

すぐ近くには「竹林の小径」という表示が立っていました。ここには竹の節と節の間に緑と薄い黄色が縞模様に表れている「金明竹」が生えています。この珍しい「金明竹」を写真に収めて、今度は「セッテイ」郭跡と「倉跡」の間に掘られた「空堀」に入りました。

 

緑と薄い黄色が縞模様に表れている「金明竹」 ↓

 

先ほど「倉跡」上から見下ろしていた「空堀底」にやっと辿り着けました。先ほどの「セッテイ空堀」よりは木々もかなり伐採していたので歩きやすかったですが、「セッテイ空堀」以上に先を見通せないように曲がりくねって造られていて、高低差は10m位のようでした。

 

正面が「倉跡」で先ほど上から見下ろした場所(現在通行禁止) ↓

「セッテイ」郭跡と「倉跡」の間に掘られた「空堀」(先が全く見通せない) ↓

「セッテイ」郭跡と「倉跡」の間に掘られた「空堀」(先が全く見通せない) ↓

「セッテイ」郭跡と「倉跡」の間に掘られた「空堀」(先が全く見通せない) ↓

 

「空堀」の北端には「東光寺ビョウ」跡へ出る「南奥虎口」があります。草で覆われていたので判りづらかったですが、左へ折れていく道筋は判りました。

 

「南奥虎口」 ↓

 

一旦、「東光寺ビョウ」へ出て、最初に登城した時に入城した「東山虎口」を抜けて、「東山馬場」跡に建つ「案内所」に立ち寄りパンフレットをいただきました。そして「外郭」の「向根小屋」跡までの道のりを確認して再スタートしました。

 

「内郭」と「外郭」の「曲輪図」(現地で掲出) ↓

 

「東山馬場」跡の「案内所」からは、「内郭」の東側から南東、南に向かって通じる道を辿っていくことになり、先ほど「内郭」から南下して「妙見神社」まで下りてきた所から更に南へ坂道を上がって行きます。

 

「向根小屋」跡北側から「内郭」を見る(左から、セッテイ、奥ノ山、城山の各郭) ↓

 

左手の丘が「向根小屋(むこうねごや)」跡で、山中に入る道を見つけたのでそこを上がって行くと、途中「土塁」らしきものや、「墳丘」を利用した「櫓台」のようなものを見かけました。

 

「向根小屋」跡北側の「土塁」らしきモノ ↓

「向根小屋」跡北側の「櫓台」? ↓

 

その上には「伊勢大大御神楽講記念碑」と刻まれた碑が立っていて私は初めて見る碑でしたのでググって見ると、江戸時代後半から昭和時代の初期にかけて「伊勢神宮」詣を目的に村の中で一定期間に講金の積み立てを行い、村の誰かが順番に伊勢詣ができるように費用捻出して、出かけたモノが帰村して立てた碑のようです。

 

「向根小屋」跡北側に立つ「伊勢大大御神楽講記念碑」 ↓

 

そこを抜けると「郭内」の広々した畑に利用された平坦地に出ました。「郭内」南東側に建つ「神明社」の南端には「土橋」が架かり両脇は「土塁」と「空堀」があり、「空堀」内は木々が茂り中までは良く見ませんでしたが「土橋」の奥の敷地は「馬出し」のようになっていました。

 

「向根小屋」跡の「郭内」(現在は畑地) ↓

「向根小屋」跡の南東側に建つ「神明社」

「向根小屋」跡の南端の「土塁」 ↓

「向根小屋」跡の南側の「土橋」(両側の木の茂みは「空堀」) ↓

「向根小屋」跡の南側の「馬出し」的な敷地 ↓

 

「馬出し」の南側に更にもう一つ「空堀」がありましたが、ここも木々に覆われていて中は良く判らずでした。かなり厳重な守備を設けた郭であることが解りました。

 

「向根小屋」跡の南側の「空堀」 ↓

 

「向根小屋」跡南端から「内郭」に向けて坂道を下りていくと左側に「吉祥寺」がありその辺りの丘が「外郭」の「根小屋」跡、その北西方向の丘が「荒上」跡のようです。

 

「外郭」の一つ「根小屋」跡(「吉祥寺」が見える) ↓

「外郭」の一つ「荒上」跡 ↓

 

各々の郭には行かずに、「東山馬場」跡に戻りますと既に約2時間も城内をウロウロしていましたので、京成本線「大佐倉駅」へ急ぎました。

 

次は、「臼井城」へ向かうべく「大佐倉駅」12時8分の電車で「臼井駅」へ移動しました。

 

「京成本線」の「大佐倉駅」 ↓

 

次回のブログは「臼井城」をお届けします。

 

 

 

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