ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

今回は、「津和野城」と「萩城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

津和野」(島根県鹿足郡津和野町

「津和野城」の歴史は古く、鎌倉幕府から「元寇」後対策として下向を命じられた「吉見家」が留まり、30年かけて「三本松城」を築きました。

 

その後、この「三本松城」を居城として、室町時代には「大内家」に、戦国時代には「毛利家」に仕えました。

 

「関ヶ原の合戦」後に「坂崎直盛」が入城して「三本松城」を大改修し「天守」等も建てました。

 

しかし「直盛」は、1615年の「大坂夏の陣」で「豊臣秀頼」の正室であり「徳川家康」の孫である「千姫」を救出したものの、「千姫」が「本多忠刻」と再婚が決まると、「千姫」を強奪しようとする事件を起こし、自害に追い込まれます。

 

そして「直盛」の後に入封したのが、「亀井正矩」(4万3,000石)で、それ以降は幕末・維新まで「亀井家」が統治します。

 

現在「津和野城」において「平(一重)櫓」が見られるのは、麓の藩庁が置かれた城下に建つ重文「物見櫓」です。私は以前、「二重櫓」シリーズでこの「物見櫓」を二重櫓として紹介していましたが、厳密には重数でみると「一重櫓」に分類されると思います。

 

この櫓は、元々は現在の「津和野高校正門」付近に建っていましたが、大正時代に現場所へ移築されました。

 

建物は、非常に大きな櫓で長さは13間(約24m)、幅は2.5間(約5m弱)もあり、一重櫓でありながら内部は一部二階構造となっています。外壁は白漆喰で下部に「海鼠壁」を採用し、裏面を除く三面にはビッシリと格子窓が付いていて、特に南側2階部分は「出格子窓」になっています。一方裏側は、下部に小さな窓が少しある程度で倉庫使用になっています。

 

7月に催される八坂信仰の神社に奉納される「鷺舞」を、歴代藩主がこの「物見櫓」の「出格子」から観賞したそうです。

 

重文「物見櫓」(奥が2階となっている) ↓

重文「物見櫓」(南側が2階で出格子、海鼠壁が綺麗) ↓

重文「物見櫓」(南側が2階で出格子) ↓

重文「物見櫓」(裏側は蔵仕様) ↓

 

 

」(山口県萩市

「関ケ原の合戦」で西軍の総大将として担ぎ上げられた「毛利輝元」がその責任を取らされて、「長門・周防」二か国に減封となりました。

 

この地は、元々「吉見家」が居城していて、戦国時代には「指月山」に出城を築きますが、1554年以降は「毛利家」に仕えていました。「関ケ原の合戦」に敗れた「毛利家」が、幕命によって日本海側の「萩」に築城することになったので、この場所を「毛利家」に明け渡しました。

 

前述のように、「関ヶ原の合戦」で「輝元」は西軍の総大将に担ぎ上げられ敗者となった戦後は、9ケ国あった領地が「周防」と「長門」の2ケ国まで減らされ、幕命も受けて「萩城」を築きました。

 

「毛利家」は当初、外様の有力大名として警戒されましたが、幕府に対しては表向きは協調を図りました。しかし、江戸中期以降は、藩政改革を積極的に採り入れ、教育にも熱心に取り組み下級藩士の登用も図りました。特に、幕末藩主「毛利敬親(たかちか)」の時には、長州藩が薩摩藩とともに倒幕勢力となりました。

 

 

現在「津和野城」において「平(一重)櫓」が見られるのは、重文「旧厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋」で1856年築の「長屋(多門櫓)」で、1856年に建てられました。「萩城」を構成する城郭建造物というよりも城域内に置かれた「武家屋敷」といった方がいいかもしれませんが、「平櫓」として紹介します。

 

「厚狭毛利家」萩屋敷は、「萩城」の「二の丸南門」前近くに約15,500㎡もの敷地を与えられていました。

 

この建物は、「毛利家」の一門家家老の一つであった「厚狭毛利家」の萩屋敷の一部として残っている「長屋」で長さが約51m、幅が約5mもあります。

 

外観は「下見板張り」で外側に向けて出格子窓と窓が嵌められ、屋根は入母屋造り本瓦葺き、裏側は瓦の庇があります。内部は5つの区画に分けられ、特に東の座敷は畳廊下を配していて身分の高い者に対して用意された区画だったようです。

 

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」(約51mもある長屋) ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」(入母屋造りの屋根、出格子窓) ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」(区画ごとに出格子窓と窓が設えている) ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」(裏側は瓦の庇が延びる) ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」の格式高い畳敷の部屋 ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」の式台 ↓

重文「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」(下は庇瓦) ↓

 

 

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