5/20(月)、天気がいいこともあって、前々から再度登城しようと思っていた「信貴山城」(奈良県生駒郡平群町)へ行きました。

 

というのも、6年前に登城したのですが、当時はまだそんなに山城に興味もなく、ケーブルカーで古代山城「高安城」を見てから、「松永屋敷跡」脇をチラリと見ただけで通り過ぎ、主郭である「空鉢護法堂」へ辿り着いただけでしたので、詳細まで観察できていませんでした。

 

特に今回は、最近よく話題にあがる「松永久秀」のお城であり、その「松永屋敷跡」をシッカリと見たかったということでした。

 

JR「大阪駅」9時22分の環状線に乗車して「新今宮駅」で「快速」に乗換えて「王子」駅に10時3分に着きました。

 

ここから10時20分発の「信貴山門」行の「奈良交通バス」に乗って行きますが、「大和川」を渡る橋上からは今から向かう「信貴山城」の主郭がある標高437mの「雄嶽(おたけ)」と「雌嶽(めたけ)」が二こぶになって聳えています。かなりの高さですが、バスは「城山台」という高台の住宅地へ向かってドンドン上って行ってくれますので、かなり助かります。

 

左から「雌嶽」「雄嶽」 ↓

 

私は「信貴大橋」バス停で10時47分に下車して、「信貴山朝護孫子(ちょうごそんし)寺」の「仁王門」から入って行きました。「信貴山観光センター」でパンフレットや地図を貰い、帰りに参拝するつもりで「信貴山朝護孫子(ちょうごそんし)寺」内を通り抜けていきました。「信貴大橋」の地点から「主郭」がある「空鉢護法堂」までは、約150mの比高差です。

 

「信貴山朝護孫子寺」の「仁王門」 ↓

 

「三宝堂」からいよいよ登城路に入ります。杖(木製又は竹製)の貸し出しがありましたので木の枝を選択しました。というのも、山道は頂上までコンクリートの石段ですので木の枝の方が地面を突いた時には衝撃が和らげます。

 

最初の郭がある「雌嶽」までは、九十九折れがあったり急坂があったりしましたがスムーズに登ることができました。6年前には、私は「高安城」経由で「主郭」がある「空鉢護法堂」からこの山道を下ってきて、途中、上る人たちとすれ違う度に凄くしんどそうにしていたのでかなり覚悟はしていました。しかしスムーズに登れたのは日頃のスクワットの成果と最近の山城登城による運動量アップの成果なのかもしれません。

 

九十九折れの急坂 ↓

 

ここで、「信貴山城」の歴史と城主について触れておきましょう。

本格的にここへお城を築いたのは1536年に「木沢長政」によってですが、彼は「太平寺の戦い」で敗死すると落城してしまい17年もの間は城として機能していませんでした。

 

そこに目を付けたのが「松永久秀」で、1559年に改修して大規模城郭を築きました。大和を制圧した「久秀」は、「多聞山城」の築城も行い、両城を行き来していました。

 

当初「久秀」は「三好長慶」に仕えていましたが、「長慶」が亡くなると「三好三人衆」と共に13代将軍「足利義輝」を殺害して畿内を支配しました。その後、「義輝」の弟「足利義昭」を担いで上洛した「織田信長」の家臣になりました。

 

「久秀」は、「金ケ崎の戦い」時に「信長」が「京」へ撤退する窮地を救う道の確保や、「信長」と「三好三人衆」との和睦を纏めたりしましたが、1572年に「久秀」は「信長」に謀反を起こしました。

 

直ぐに「信長」に降伏した「久秀」でしたが、1577年に「反信長勢力」が起こると、それに呼応して勝手に「信長軍」から離脱をして「信貴山城」に立て籠もり、対決姿勢を明確にしました。

 

「信長」は、「織田信忠」を総大将にした大軍を送り込んで「信貴山城」を包囲し、「久秀」が所有していた名器「平蜘蛛茶釜」を出せば助命すると命じましたが、「久秀」は拒絶して「平蜘蛛」と共に爆死しました。

 

信貴山城」の立地と縄張りは、前述したように標高437mの「雄嶽(おたけ)」の頂上に「主郭」を置き、そこに「天守」を築いたようです。それを中心に南の「雌嶽(めたけ)」には見晴台的な「出丸」を築き、「主郭」の下の西側から北、東側にかけて鳥の羽を広げたような形に城域を拡げ、そこに小さな郭が多数配置されています。

 

特に、「主郭」の真北側には「松永屋敷」跡を中心に大きめの郭が北方向に向かって置かれていますが、それぞれの郭は非常に「切岸」が効いた段差が見られます。また、「西の郭」も北方向に断崖絶壁の「切岸」で区画した郭が続いています。

 

※現地に掲出していた「郭図」にナンバーリング(赤数字で郭内に記載しました)しましたので、参照してください。

 

さて「出丸」的な「雌嶽」は、手前から見るとこんもりした山ですが、上るのは簡単でした。上がると南東方向の両サイドに「切岸」を施した細長い敷地が続き、先端部分に少し浅い「堀切」が見られます。

 

「出丸」的な「雌嶽」頂上の「郭21」(南東方向) ↓

「雌嶽」頂上の「郭21」先端の「堀切」↓

 

「雌嶽」下り口からは、今から登城しようとしている「雄嶽」が望め、「空鉢護法」にはためく赤いの幟が見えます。

 

「雄嶽」頂上の「空鉢護法」ではためく赤いの幟 ↓

 

先ほどの分岐点に戻り、再び登城路に出ると最後に九十九折れがあって「郭1」に出ました。「郭1」から「切通し」になった通路抜けると「鳥居」や「幟」が重なった参道が延びます。右手に入った所には「信貴山城跡」碑が立ち、社務所を抜けると頂上です。

 

「郭1」跡 ↓

「郭1」跡と「郭2」跡(手前)を結ぶ「切通し」 ↓

「信貴山城跡」碑 ↓

 

「空鉢護法」のお堂が拡がる頂上「郭3」で、石積みの上にお堂が建っていますが、その石積みが「天守台」とも言われていますがどうでしょうか・・・

 

「空鉢護法」のお堂が拡がる頂上「主郭(郭3)」跡 ↓

「主郭(郭3)」跡(右の石等が「天守台」とか) ↓

 

11時15分でしたが、お腹が減ったのと、これから「松永屋敷」跡を巡るのに時間を要しそうでしたので、眺めの良いこの場所で早めの昼食を摂ることにしました。山城でのランチタイムはお決まりの🍙2個です。

 

「主郭(郭3)」跡からの遠望(奈良盆地方向、手前に「雌嶽」) ↓

 

食後、「郭1」跡まで下りて「主郭(郭3)」跡の北側を坂道で下っていくと新しい「道標」が立ち、「高安城」へ向かう道(左手)へ上がると「立入(たちり)屋敷(郭4)」跡があります。この郭は、在城衆の一人である「立入勘助」の屋敷があった跡だそうで、その北先端は「切岸」となっていて今から行こうとしている「松永屋敷」跡に繋がる郭群が見下ろせます。

 

「立入(たちり)屋敷(郭4)」跡 ↓

「立入屋敷(郭4)」跡の北先端から見下ろす「郭5」跡 ↓

 

「坂道」へ出て少し下ると左手に「三丁」という古い道標がありそこを上がると、先ほど「立入屋敷(郭4)」跡から見下ろした郭が北へ下って行きます。

 

「三丁」という古い道標(上がると「郭5」跡 ↓

 

「郭5」跡から「立入屋敷(郭4)」跡を見上げると「切岸」の凄さが実感できます。そして「郭5」跡から「郭6」跡の西側には「土塁」が築かれていて段差箇所にも「竪土塁」となって続いていました。

 

「郭5」跡から「立入屋敷(郭4)」跡を見上げる(凄い「切岸」) ↓

「郭5」跡から「郭6」跡の西側には「竪土塁」 ↓

「郭6」跡西側の「土塁」 ↓

「5郭」跡から「6郭」跡を見下ろす ↓

 

「郭6」跡から「郭7」跡へ緩やかなスロープで下りますと、木で作った武者風の人形が刀を抜こうとしています。

 

「郭6」跡から「郭7」跡へ緩やかなスロープで下りる(南方向) ↓

木で作った武者風の人形 ↓

 

「7郭」跡の東側には「虎口」があり、その下には「逆茂木(さかもぎ)」を建てて、門らしい雰囲気を演出していました。後から判ったのですが、本来は「松永屋敷」跡へはこの門から入城するようで、その前に説明書きが立っていました。

 

「7郭」跡の東側下の「逆茂木(さかもぎ)」 ↓

「郭7」跡 ↓

 

「郭7」跡から「郭8」跡は少し段差がある為、鉄パイプの階段が準備されています。この後何度もこの鉄パイプの階段が登場しますので、「切岸」を降りるのに非常に役立つことになります。

 

「郭7」跡から「郭8」跡の段差に鉄パイプの階段を設置 ↓

「郭7」跡と「郭8」跡の段差 ↓

 

「郭8」跡は今までの「段郭」とは違い大きめの面積を取った郭で、この辺りから「松永屋敷」跡ではないかと思われます。というのも、「郭9」跡の手前東側には「桝形虎口」が設けられていて、その周囲は「土塁」が築かれていました。

 

「郭8」跡(「郭7」跡から) ↓

「桝形虎口」の「土塁」 ↓

「桝形虎口」の「土塁」(「郭8」跡内の横から) ↓

 

また東側入口付近には、東側へ出張った所が見られ、そこから虎口に向かって「横矢が掛かって」いるようにも見えます。一方、「郭9」跡の手前西側には大きなスクエアな窪みが見られましたが、何だか判らずでした。

 

「桝形虎口」に「横矢が掛かる」 ↓

 

「郭8」跡から「郭9」へは、鉄パイプの階段が付けられ段に上がる構造となっていて大きさも今までで最も広い郭ですので、「郭9」跡が「松永屋敷」のメインであったと思われます。

 

「郭8」跡の「桝形虎口」から「松永屋敷(郭9)」跡を見上げる ↓

「松永屋敷(郭9)」跡から「郭8」跡を見下ろす ↓

「松永屋敷(郭9)」跡 ↓

「松永屋敷(郭9)」跡西側の「土塁」 ↓

 

その先端の「切岸」は半端なく段差が大きく「郭10」跡へは長い鉄パイプを下ります。更に「郭11」跡へもこれまた長い鉄パイプを下っていかなければなりません。

 

「松永屋敷(郭9)」跡北先端から「郭10」跡を見下ろす ↓

「松永屋敷(郭9)」跡の「切岸」を下りる鉄パイプ階段 ↓

「郭10」跡から「松永屋敷(郭9)」跡を見上げる

「郭10」跡から「郭11」跡を見下ろす ↓

「郭10」跡の「切岸」 ↓

 

これらの鉄パイプ階段は最近施されたものだろうと想像しますが、これらによって「信貴山城」の凄さを実感できるようになったと思います。

 

「郭11」「郭10」の各跡の麓を廻り込んで出た所が「郭12」跡です。「郭12」跡は南方向に延びていますが、途中で先ほど見た「郭8」跡の「虎口」周囲の出張りがその先を遮って見えなくしています。

 

「郭12」跡へ下る鉄パイプ階段(北方向) ↓

「郭12」跡に出張る(北方向) ↓

 

「郭12」跡の東下にも多くの「郭」が見下ろせます。「郭12」を南へ進んでいくと橋が架かっていてその下は水が湧いているようで少し流れているようでした。ので、この辺りは「水の手」であったのでしょうか。ここから流れた水は、「郭13」跡の東下にある「女良池」へ流れ込んでいるようです。

 

「郭12」跡東下の「郭13」跡 ↓

「水の手」に架かる橋 ↓

「郭13」跡の東下にある「女良池」 ↓

「郭7」跡からの「虎口」 ↓

 

「郭12」跡から道にでた場所が、先ほど「郭7」跡から見えていた「逆茂木」が立つ入口でした。

 

「逆茂木」が建つ「松永屋敷」跡の出入口 ↓

 

私は、ここから先ほど見学した「立入屋敷(郭4)」へ戻り、そこから少し西側に移動した所にある「西の郭」跡の尾根筋へ出ました。

 

まず、小規模な「郭14」跡へ浅い「堀切」を渡り、更に「土塁」が手前にあるので深く感じる「堀切」を下り「郭15」へ移動しました。

 

「西の郭 14郭」(手前に浅い「堀切」) ↓

「西の郭 14郭」(手前)と「西の郭 15郭」の間の「堀切」 ↓

「西の郭 郭15」の「土塁」 ↓

 

「郭15」跡の先端から北側を見ると、かなり深い位置に「堀切」が横たわり(縄張図では「切り通し」と表現)、「松永屋敷」跡の尾根筋とは違って、鉄パイプの階段は用意されていません。

 

「西の郭 郭15」跡 ↓

「西の郭 郭15」跡から「西の郭 郭16」跡を見下ろす ↓

 

この「郭15」跡の先端の「切岸」を下りるべきかどうか迷いましたが、この尾根筋先にあると書かれている「石垣(石積み)」は絶対に見たいと思っていたので、意を決して下りることに覚悟しました。

 

幸いにも、木が密に植わっているし、その枝もあったのでそれを掴み、杖を巧く地面に刺しながら慎重に下りていきました。

 

「西の郭 郭15」跡の先端の「切岸」 ↓

「西の郭 郭15」跡と「西の郭 郭16」跡の間の「堀切」 ↓

 

下り切った「郭16」跡は、当城域でも最大に近い広さの平坦な郭でしたので、先ほどの急な傾斜から解放されてルンルン気分で歩くことができました。「郭16」跡は先端からその両脇にかけて「土塁」が築かれていて、この郭は重要視されていたのが判ります。

 

当城最大級の広さの「西の郭 郭16」 ↓

「西の郭 郭16」跡先端部分の「土塁」 ↓

「西の郭 郭16」跡は先端部分の「土塁」 ↓

 

しかし「郭16」跡の「土塁」上に立つと、その先の「郭17」跡はまたしても厳しい「切岸」が効いていて、下へ下りることが要求されます。こちらも鉄パイプ階段はなく、木の枝を掴みながらの下山となりやっとのことで「郭17」跡へ辿り着きました。

 

「西の郭 郭16」跡の「土塁」上から見下ろす「西の郭 郭17」跡 ↓

「西の郭 郭16」跡の「切岸」 ↓

 

「郭17」跡は、下に向けてなだらかな傾斜となっていて、その中央に幅広「土塁」から細くなっていく形の「土塁」がまるで「竪土塁」のような形状となっていました。

 

「西の郭 郭17」跡から「西の郭 郭16」跡を見上げる ↓

「西の郭 郭17」跡内の中央「大土塁」(下に向かって下る) ↓

「西の郭 郭17」跡内の中央「大土塁」(下に向かう「竪土塁」) ↓

「西の郭 郭17」跡内の中央「大土塁」(上に向かう「竪土塁」) ↓

「西の郭 郭17」跡内の「竪土塁」から東下を見る ↓

 

更に「郭18」跡に下りて先端にまで行くと、もう断崖絶壁になっていたので、「縄張図」から推定すると当郭の東下に「石垣(石積み)」があることになっていますので、私は下り場のような所から下へ下りて左を向くと、緑色した石が2~3個見えました。

 

苔むした石が、あった! ↓

 

「あった!」 

 

その石とその先に見える苔むした「石積み」に走り寄りました。「信貴山城」は土のお城と言われていて、何故ここにだけ「石積み」が残るのか解りませんが、辛うじて「石積み」の箇所まで多くの「切岸」や「堀切」を乗り越えてアプローチをしてきた甲斐がありました。

 

「西の郭 郭17」跡の東下にある苔むした「石積み」 ↓

「西の郭 郭17」跡の東下にある苔むした「石積み」 ↓

「西の郭 郭17」跡の東下にある苔むした「石積み」 ↓

 

これを見て最終目的を果たすことができたので、苦労して下りてきた「切岸」を上り返して「土入屋敷(郭4)」跡まで戻り、そこから「郭1」経由で一気に登城路を下って「信貴山朝護孫子寺」へ向かいました。

 

次回のブログでは、「信貴山朝護孫子寺」の景色を見ることにします。

 

 

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