昨日(5/14)は、午前中「都島」で用事を済ませた後、元会社の後輩友人と「ディアモール」で落ち合いました。駅前第二ビル内の「いわむら」の洋食ランチを食べ、その後「ホーリーズ」でコーヒーを飲みながらの熱い歴史談話をして充実した時間を過ごしました。

 

私は、「大坂城乾櫓」(大阪市中央区)の特別公開へ行く予定でしたので、15時前に彼とJR「北新地駅」で分かれ、「大阪城北詰駅」までJRに乗車しました。

 

「大阪城北詰駅」からは、「京橋口門」跡経由で「西外堀」沿いを歩きながら、これから入る重文「乾櫓」を各方向から写真を撮影しながら「大手門」経由で「西の丸庭園」入口へ急ぎました。

 

「京橋口門」跡近くから見た重文「乾櫓」 ↓

真横から見た重文「乾櫓」 ↓

「天満橋」方向からの重文「乾櫓」 ↓

「大阪ビジネスパーク」と一緒に見える重文「乾櫓」 ↓

「大手前高校」前辺りから見える重文「乾櫓」 ↓

「大阪府庁」辺りから見える重文「乾櫓」 ↓

 

申込が15時半までだったので、まさに滑り込みセーフで入園できました。「乾櫓」の最終見学時間は16時半までなので十分時間があり、久々の「西の丸庭園」を隈なく見学しようと張り切っての入園です。

 

入場券 ↓

乾櫓 記念符 ↓

 

取り合えず「乾櫓」へ直行して入館しました。9年ぶりの「乾櫓特別公開」らしく、前回見学してからそんなにも年月が経っているとは・・・

 

「乾櫓」は、「大棟」の輪違瓦にヘラで「元和六年申ノ九月吉日・・・」と書かれているのが見つかり、1620年に創建されたことが証明されました。重文「千貫櫓」も1620年に創建で、共に現存の大坂城内で最古の建造物です。

 

1634年7月に、3代将軍「家光」が「大坂城」完成後初めてに入城、「大坂城」の主は「徳川将軍」だということを大坂住民に知らしめる目的でした。そして、「乾櫓」の周囲に有力町人を集めて、「家光」は金の扇子を振りかざして「地子=土地税」の永久免除を宣言したのです。このようなデモンストレーションを発信したのが、この巨大な「乾櫓」からだったのです。

 

「西外堀」越しに見える「乾櫓」は重箱型の1階・2階同形の巨大な櫓に見えますが、「西の丸」跡側から見ると、「L字の矩形型」ですので、巨大さは実感できません。そうはいうものの、近くから見るとその大きさは半端ないです。

 

「西の丸」跡側から見ると「L字の矩形型」 ↓

白漆喰の軒裏 ↓

 

同形の櫓としては「駿府城巽櫓」があり現在復元されていますが、徳川幕府の最先端の櫓建築手法だったんでしょう。

 

復元「駿府城巽櫓」 ↓

復元「駿府城巽櫓」(L字の矩形型) ↓

 

南側の入口から靴をビニール袋に入れて入ると、右手に二階へ上がる階段がありますが、残念ながら2階は公開されていません。そして北方向に「武者走り」があって、階段の奥に「身舎(もや)」が3室設けられています。

 

南側の入口 ↓

二階へ上がる階段(奥にも、もう一つあります) ↓

入口付近から「身舎」を見る ↓

 

「武者走り」の壁には、長い「石落とし」と幾つかの「狭間」が設けられていますが、特に「狭間」は外部からは見えなくして白漆喰で塗籠められているので、いざという時には漆喰を突き破って銃眼を伸ばすようです。

 

長い「石落とし」 ↓

「武者走り」沿いに「狭間」が並ぶ ↓

 

北方向への「武者走り」の突き当りからは右(東)方向へ「武者走り」が続き、その突き辺り右側の「身舎」内にもう一つの2階への階段がありました。

 

「武者走り」(北側の「武者走り」で西方向) ↓

もう一つの階段 ↓

 

「武者走り」の屈折部(角)の天井部分は、「燧梁(ひうちはり)」とまではいかないですが、耐震用の柱が斜めに噛まされています。

 

「武者走り」の屈折部(角)の天井は耐震が施されている ↓

 

「武者走り」と「身舎(もや)」との間や「身舎」同士の間は、板襖の「敷居」が設けられていて、「身舎」の床は「手斧(ちょうな)」の細かい跡が綺麗に整えられていました。

 

板襖の「敷居」と「手斧」の跡が残る床 ↓

 

「天井」は2階の床板を何本もの角材で支え、更にその下から長い「角材」で支えていました。

 

「天井」は2階の床で何本もの角材で支えている ↓

 

「身舎」の壁には修築の際に取り換えられた古い「蕪懸魚(かぶらけぎょ)」が飾られていて、こんな近くで「懸魚」が観察できるのは珍しいことです。

 

古い「懸魚(けぎょ)」 ↓

 

白塗りの「武者窓」からは、堀向こうの眺めが良くみえたので、前述した「家光」のパフォーマンスも堀向こうからは良く見えたことでしょう。

 

白塗りの「武者窓」(「家光」はこの間から金扇子を振りかざしたのだろうか) ↓

 

「乾櫓」を後にして、まずは日本で唯一残る重文「硝煙蔵」の写真を撮った後、そこから東側の段下にある復興「北仕切門」の写真を撮りに行きました。「北仕切門」は高麗門形式で復興ながら立派な門ですが閉まったままで、その裏は「京橋口定番屋敷跡」で、「京橋口門」跡が近くにあります。

 

日本で唯一残る重文「硝煙蔵」 ↓

重文「硝煙蔵」入口 ↓

重文「硝煙蔵」鬼瓦に「葵の紋」 ↓

復興「北仕切門」 ↓

復興「北仕切門」脇の長い「雁木」 ↓

 

そこから「西の丸」跡を斜めに横断して「西の丸庭園」中央から「本丸」跡に建つ復興「天守」の写真を少しずつ角度を替えながら撮りました。私のお気に入りは、「天守」の真西から撮った姿で、「望楼型天守」の姿が如実に解るポジションです。

 

「西の丸庭園」中央から「天守」の真西の姿(望楼型天守の形が良くわかる) ↓

 

特に昨日は晴天に恵まれ、雲一つない真っ青な空、西からの太陽が各階の「破風」上の金色の「鯱」をキラキラ光らせ、最上階の「高欄・廻縁」下の黒壁に金で描かれた虎の姿や金装飾金具も煌びやかに輝いていました。

 

「西の丸庭園」内南西方向からの復興天守 ↓

復興「天守」の最上階 ↓

 

太平洋戦争で焼失した「坤櫓」台の石垣が残っているのを見た後、重文「千貫櫓」の裏側から眺めましたが、やはりこれも巨大です。

 

「坤櫓」台の石垣 ↓

戦災で焼失前の「坤櫓」(「ミライザ」内の掲出写真より) ↓

重文「千貫櫓」裏側から ↓

 

16時半ギリギリまで「西の丸庭園」内を散策、見学した後は、どれだけの外人客で賑わっているのかを見たくて「本丸」跡へ向かいました。

 

コロナ禍の時には、「桜門」前の坂は誰一人歩いておらず、「桜門」と「蛸石」と「天守」のコラボ写真が何枚も撮れましたが、流石に昨日はもう繁華街状態、「蛸石」前には観光客がへばり付いていました。更に「桝形」を抜けて「本丸」跡に入ると、もう筆舌に耐えれない混みよう。

 

「桜門」前の混雑ぶり ↓

「桜門」入った桝形内の混雑ぶり ↓

「本丸」跡内は人・人・人 ↓

 

「天守」を最も真正面から撮れるポジションには、スマホ片手に何人の人だかりだったでしょう。

 

このポジションが一番混んでいた所です ↓

 

「大阪」の観光名所はそんなに多くないので、「大坂城」へ殺到してくるのも分からないでもないです。コロナ禍前は東洋人の観光客が大半でしたが、今は、欧米人も非常に沢山来城していたのには驚きました。

 

私は、「本丸」跡の中心部を避けて、重文「御金蔵」がある場所の脇で現在「豊臣期石垣公開施設 建設現場」(来春オープン予定)から高石垣上に並んでいた三重櫓群の「櫓台」方向、そして「ミライザ」裏へ逃避して遺構を眺めていました。

 

重文「御金蔵」 ↓

「豊臣期石垣公開施設 建設現場」(来春オープン予定) ↓

「豊臣期石垣公開施設 建設現場」 ↓

三重櫓「馬印櫓台」 ↓

 

「本丸」跡を後にして、重文「大手門」経由で、最後に私が一番好きな「東外堀」越しに見える重文「六番櫓」と横矢掛かりの石垣が四重に並ぶ場所へ移動して写真に収めました。

 

重文「大手門」の「渡櫓門」と「多門櫓」 ↓

重文「大手門」の「高麗門」 ↓

重文「千貫櫓」と重文「大手門渡櫓門」 ↓

「東外堀」越しに見える重文「六番櫓」と横矢掛かりの石垣群 ↓

 

今日は、15時まで予定があったので、その後の「大坂城乾櫓」特別公開をサラッと見て帰る予定でしたが、結局、折角「大坂城」まで足を伸ばしたからには、色々な所を見たいという思いが膨らんだのと、インバウンド状況を確認することとなりました。

 

しかし、いい天気に恵まれて清々しいお城巡りになったので良かったです。

 

 

 

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