ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。
「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。
「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓
※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載
「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。
従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。
現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。
本日は、「丹後田辺城」と「福知山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。
■「丹後田辺城」(京都府舞鶴市)
1392年に「一色満範」が丹後守護となって守護所を築きますが、1578年に「織田信長」の丹後平定に際して「細川藤孝」が「明智光秀」と共に「一色家」を滅ぼします。
1580年に「細川藤孝・忠興」親子は、本城として「宮津城」を、支城として「田辺城」を築きますが、1582年に「本能寺の変」が起こり、「藤孝」は隠居して「田辺城」を居城とします。
1600年の関ヶ原の合戦では、「忠興」は「田辺城」に入って籠城、戦後は「京極高知(たかとも)」が入城しお城の改修を行います。
1668年に譜代大名の「牧野親成(ちかしげ)」が入城して以降は、「牧野家」のお城として幕末・維新まで続きます。
現在「丹後田辺城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1940年という早い時期にRC造りで復興された「二階櫓」の南側に接続する「続櫓」です。「天守」同様に「白漆喰総塗籠め」の外観になっています。「彰古館」と名前が付けられ資料館として使用されています。
RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(右側) ↓
RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(手前) ↓
RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(左側) ↓
RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」 ↓
■「福知山城」(京都府福知山市)
当城の前身は、室町時代に「塩見頼勝」が築いた「横山城」でしたが、「織田信長」からの丹波平定を任された「明智光秀」が「塩見家」を攻めて当城を手に入れ、その後お城を拡張して「福知山城」と改称しました。
平定後は、「光秀」の娘婿である「明智秀満」等が入城しましたが、関ケ原の戦い後は「有馬豊氏」が城主となり、ほぼ現在のような縄張りと建造物配置がなされたようです。
その後は、「岡部家」「稲葉家」と替わりますが、「稲葉紀通」の時には領民への重税や殺害、隣の城主だった「京極家」にも争いを仕掛けるなど大変な悪政をしたことから改易となります。そして「京極家」「松平家」と城主の入れ替わりが続きましたが、1669年に「朽木稙昌(くつきたねまさ)」が入城した後は、幕末・維新まで「朽木家」が統治します。
現在「福知山城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1986年に竣工したRC造りの外観復興「天守」と同「小天守」を繋ぐ「続櫓(渡櫓)」です。外観は「大天守」「小天守」と同様の「下見板張り」となっていて、天守群の入城はこの「続櫓(渡櫓)」からとなっています。
RC造りの外観復興「天守」と同「小天守」を繋ぐ「続櫓(渡櫓)」(西面) ↓
RC造りの外観復興「小天守」に繋がっている「続櫓(渡櫓)」(西面) ↓
RC造りの外観復興「小天守」に繋がっている「続櫓(渡櫓)」(東面)
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