4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。

 

「竹中氏陣屋 櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。

 

松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。

 

それによると、1394~1428年頃に小守護「富島氏」が築城し、1569年に「織田信長」に帰属しました。その後「浅井長政」のお城となり1570年に修築され、1573年に「不破光治」による警備がなされ1576年に境城の役割を終えて1579年に廃城になっていました。

 

それを「関ヶ原合戦」勃発前に、「石田三成」が大垣城主の「伊藤盛正」に命じて改修をさせ西軍総大将「毛利輝元」を招き入れようと画策しましたが「輝元」は出陣せず、開戦の前日に「小早川秀秋」が約15,000人の兵を率いて布陣しました。

 

「秀秋」は西軍に与していましたが、以前から恩義を感じていた「徳川家康」に内応を約束していましたが、戦いが始まっても迷っていたようです。眼下では西軍が優勢であり、陣内でも意見が割れていたこともあり戦況を傍観していたようです。

 

この煮え切れない態度に「家康」はしびれを切らし、鉄砲で松尾山へ威嚇したと伝わります。そして「秀秋」は意を決して「大谷吉継」に矛先を向け、それを見た「脇坂安治」も東軍に寝返り、東軍を勝利に導きました。

 

松尾山城」の位置と縄張りは、標高293mの「松尾山」頂上に「主郭」を置き、比高差約「200m」です。「主郭」は北端の「関ヶ原」全体を見下ろせる絶好の位置です。

 

「主郭」は桝形虎口で守られ、南側には馬の背の様な細長い通路の先には「馬出」的な「2曲輪」があり、南東と東方向に細長い「3曲輪」「4曲輪」が築かれています。

 

「主郭」「2曲輪」の西側は多くの曲輪で形成され、広々とした谷底のようになっていて西側には「6曲輪」「7曲輪」が並んでいて広大な陣城です。15,000人の兵士を収容しようとすると、このぐらいのスペースが必要だったのかもしれません。

 

現地掲出の縄張図に加筆した縄張図 ↓

 

さて私達は車を降りると、暫く舗装されたナダラカナな道が続いたので、これが頂上まで続くと思いきや、やはり登城路になると階段が続きます。午前中の「菩提山城」の登下山にかなりの体力消耗があったことから足取りは重く感じられました。

 

登城路途中の「土橋」 ↓

 

約30分位で「主郭」跡に到着、その手前には満開の八重桜がゴールできたご褒美のように迎え入れてくれました。頂上には数組のハイカー達が「関ヶ原古戦場」を見下ろしていました。

 

八重桜越しに「主郭」跡 ↓

 

私達も、掲出されている陣城配置地図と向き合いながら、大名たちの陣城の場所確認をしました。まず最初に目に入るのがやはり「石田三成」の「笹尾山陣城」で、まさに真ん前の位置にありました。次に東軍「黒田長政」の陣城「岡山烽火場」等が良く解りましたが、「徳川家康」が最初に居た「桃配山」は林の木々で遮られ見えず、「家康」最後の陣城も、住宅街の中なので分かりにくいでした。

 

関ヶ原古戦場 史跡位置図 ↓

「石田三成」の「笹尾山陣城」 ↓

東軍「黒田長政」の陣城「岡山烽火場」 ↓

 

「主郭」跡の周囲は「土塁」で囲われていて、その下は「腰曲輪」跡になっていました。「主郭」跡南側には「土塁」による「桝形虎口」が完全な形で残っています。これを見ると、最新の防衛システムに修築したことが良く解ります。

 

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「主郭」跡北下の「腰曲輪」跡 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

 

「桝形虎口」を出ると長い「馬の背」のような道が延びてその先に「馬出的」な「2曲輪」跡が構えていました。「2曲輪」跡の「南虎口」を出ると両脇に「竪堀」が掘られ、その先端は簡単な「桝形虎口」がありました。

 

「馬の背」の様な道先に「馬出的」な「2曲輪」跡 ↓

「馬出的」な「2曲輪」跡 ↓

「馬出的」な「2曲輪」跡の「南虎口」 ↓

先端の簡単な「桝形虎口」 ↓

 

「2曲輪」に戻り、そこから東へ下りていった所に、細長い形をした「3曲輪」跡があります。入口付近には大きな「土塁」が覆いかぶさっていて南側には扇形の「曲輪」が見下ろせますが、「3曲輪」跡の周囲は「土塁」が巡らされているだけでした。

 

「3曲輪」跡入口付近には大きな「土塁」 ↓

「3曲輪」跡下の扇形の曲輪 ↓

「3曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

 

「主郭」跡と「2曲輪」跡の間には西側へ下っていく道があります。下り道の右手は「主郭」跡の厳しい角度の「切岸」が迫り、左下には大きめの楕円形の半分のような形の曲輪が見下ろせました。

 

「主郭」跡南西斜面の「切岸」 ↓

 

下って行った先には「空堀」の表示があり、その辺りは段状になった多くの「曲輪」がありましたが、大きめの曲輪は「5曲輪」跡です。北に向かって進むと「喰い違い土塁」がありそれを抜けた所には広く周囲を「土塁」に囲われた「曲輪」がありました。これらの広々と削平した曲輪群は、多くの兵士たちを収納する為のスペースとして使用されたのでしょうか。

 

「空堀」 ↓

「5曲輪」跡 ↓

「喰い違い土塁」 ↓

「喰い違い土塁」を抜けた所にある「土塁」に囲われた「曲輪」 ↓

 

その底から見上げた「6曲輪」跡は大きな台地のようで、真ん中あたりには「虎口」が見られます。「虎口」に向かって上がると、上は広くここも周囲は「土塁」で囲われていました。特に南東側は「7曲輪」との間が「大堀切」となっていて、そこから眺めるとかなり立派な曲輪に見えます。

 

台地の様な「6曲輪」跡、右に「虎口」が見える ↓

「6曲輪」跡の「虎口」 ↓

「6曲輪」跡 ↓

「6曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

 

「6曲輪」跡から一度下りて底まで行くと「井戸」跡の穴が見られました。

 

「井戸」跡 ↓

「5曲輪」跡を見下ろす、奥が「主郭」跡(「7曲輪」跡下から) ↓

「7曲輪」跡と「6曲輪」跡の間の「堀切」 ↓

 

「7曲輪」跡の「帯曲輪」的な所を歩いて南先端に行くと「虎口」がありました。そこを出た所には、まず右側に1本の「竪堀」があり、次に少しズレて両サイドに「竪堀」が落ちていきます。「竪堀」の所には「土橋」が架かっています。

 

「7曲輪」跡の台地 ↓

右に落ちる「竪堀」 ↓

左右に落ちる「竪堀」の片方 ↓

「土橋」 ↓

 

「7曲輪」跡を戻る際には上を歩いていきましたが、途中に2箇所の「土壇」があり先端はやや右に折れていました。

 

「7曲輪」跡(北方向) ↓

「7曲輪」跡内の中央の「土壇」 ↓

 

「主郭」跡に戻り、まだ見学をしていない「4曲輪」跡へ足をのばしました。ここも「3曲輪」跡と同様に東へ長く延びますが、ここは3段になっていて周囲は「土塁」で囲われています。所々「土塁」の「横矢掛かり」が架かっているのが見受けられました。

 

「4曲輪」跡方向 ↓

「4曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

「4曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

「4曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

「4曲輪」跡の「横矢掛かり」 ↓

 

そこから数分下ると最後の三角形した「8曲輪」跡が横たわり、真ん中あたりが盛り上がっていました。

 

「8曲輪」跡 ↓

 

これで、全ての見所を抑えて見学できましたので、どんどんと下って行きました。

 

小さな「陣城」だと思っていましたが、15,000人の収容となるとこれだけ広大な面積が必要になるのだということが実施に登城してみて非常に良くわかりました。

 

疲れていたのか、甘いものを口が欲していたので、車を返却した後、駅前の喫茶店に入りケーキセットを頼みしばしの休憩をとりました。

 

米原発17時17分の「新快速」に乗車、帰りもお城の話で盛り上がり、特に城友は「歴史人」という雑誌を持参していましたので、それに掲載されていた「山城特集」を見ながら、次回訪城する所を色々と吟味しながら1時間半の城旅は終了しました。楽しい1日を過ごすことができました。

 

 

 

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