4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。

 

どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に後方に見えて、「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。

 

「JR大阪駅」で合流し、8時発の「米原行新快速」での車中では、お互いが最近登城したお城の話に沸きながらアッという間に「米原」に到着しました。

 

「米原」からはタイムズのカーシェアによる車で移動して途中「関ヶ原古戦場」跡を通り抜けて約50分弱で「菩提山城」麓の登城口「菩提寺」に着きました。

 

比高差は300mで、だいぶ心して登城しなければならないとスタートしました。ただ登城路は思っていた程急坂でもなく、階段もある程度整備されていたし、頂上までの距離も短いルートを選択したこともあって、意外と早く約35分位で城域に辿り着きました。

 

登城途中でこれから歩む道を眺める ↓

 

ここで「菩提山城」の歴史と城主について触れておきたいと思います。

 

1544年頃には菩提山に「岩手氏」によって砦が築かれていたのを、「竹中重元」が追放して1559年に詰城として再構築したようです。「重元」が亡くなった後家督を継いだ「重治(半兵衛)」は麓の「館」を居館としてました。

 

「(竹中)半兵衛」は、「羽柴秀吉」の軍師として活躍しましたが、「三木城攻め」の陣中で病の為に亡くなり、その後幼い息子の「重門」に替り一時城代として従兄弟「重利」が守りましたが、「重門」に引き継ぎます。

 

「関ヶ原合戦」時には、「重門」は当城を「徳川家康」に差し出しますが、戦後は1608年に廃城として岩手に「館」を構えました。

 

菩提山城」の立地と縄張は、標高402mの菩提山に詰城として築城され、「本曲輪」「二の曲輪」「三の曲輪」「5の(台所)曲輪」がお城の中核部を構成して多くの削平地を有していました。

 

その他に、北から「水の手」「6の(西)曲輪」を設け、「大堀切」の南側には「出曲輪」を設けて「竪堀」「横堀」「畝状竪堀」による各種防御システムを備えていました。

 

「菩提山城 散策マップ」(黒字で加筆しています)↓

 

私達は「大手山道」を上がって行き、まず最小に遭遇したのは「土橋」とその両脇に落ちる「竪堀」でした。少し上がると4段の「段曲輪」があったのですが縄張図に西側に通じる最短道があったので、そちらを通りましたが、この道は非常に危険で左側は断崖絶壁となっていましたので、やはり「段曲輪」を通るべきでした。

 

「大手山道」、城域への「土橋」(両脇は「竪堀」) ↓

「土橋」脇の「竪堀」 ↓

 

帰りに「段曲輪」側を通ったのですが、その北側に「堀切」があり「段曲輪」は「大手曲輪」という名称が付いていて「大手門」を敵の攻撃から守る為に造られたとのことでした。

 

「大手曲輪」跡北端の「堀切」 ↓

「大手曲輪」北端の「堀切」底(右は「2の曲輪」跡) ↓

「大手曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

 

辛うじて細い道を抜け「3の曲輪」跡の「虎口」に入り、先に南側の「4の(出)曲輪」跡とその先端に設けられている「竪堀」等の防御仕掛けを確認する為に足を進めました。

 

「3の曲輪」跡の「虎口」 ↓

 

「3の曲輪」跡の南側には「土塁」が設けら、更にその南側は「大堀切」になっていて深い底が上から見下ろせます。

 

「3の曲輪」跡と南側の「土塁」 ↓

「大堀切」(向こうは「4の(出)曲輪」跡) ↓

 

ロープ伝いで「大堀切」の底に下りるとそれは左右に更に「竪堀」となって落ちていってました。西側の先までは今回行きませんでしたが「水の手」との案内が掲出されています。

 

「大堀切」の底 ↓

「大堀切」の西側へ落ちる「竪堀」、その先に「水の手」 ↓

 

「4(出)曲輪」跡へ上がると西南端に「土塁」があり、西下には「腰曲輪」跡が拡がっています。

 

「4(出)曲輪」跡西南端の「土塁」 ↓

「4(出)曲輪」跡西下の「腰曲輪」跡(南方向) ↓

 

一方、南側の「切岸」が効いた斜面下には「横堀」が横たわり、更にその両脇からは斜めに「竪堀」が落ちていき、両「竪堀」の間には、3つの「畝状竪堀」が畝っています。そしてその下には「堀切」が弧を描いて掘られています。

 

 

「4(出)曲輪」跡南端下の「横堀」(上から見下ろす) ↓

「横堀」(右が「4の(出)曲輪」跡) ↓

「4の(出)曲輪」下の「竪堀」 ↓

「畝状竪堀」(横から) ↓

「畝状竪堀」(南の「堀切」から、奥は「4の(出)曲輪」跡) ↓

「畝状竪堀」南の「堀切」 ↓

 

南西方向にかけて何重にも施された「防御システム」は見事な様相を見せてくれていました。

 

南西方向というと「関ヶ原古戦場」方向になりますが、「関ヶ原合戦」前に城主であった「竹中重門」は西軍に属していましたが、戦いが始まると東軍に属してこの詰城を「家康」に差出しました。東軍は急遽、「菩提山城」西南方向の守備力アップを目指して各種の防御システムを構築したのではないかと思いました。

 

ここから「3の曲輪」跡に戻り、「本曲輪」跡へ進む途中にも、左手に長い「竪堀」が見られ、「5の(台所)曲輪」跡に入ります。「5の(台所)曲輪」は、文字通り兵士たちの食事を作る施設が置かれていたようです。また当曲輪の西下には細長い「帯曲輪」跡が上から覗けました。

 

「3の曲輪」跡と「5の(台所)曲輪」跡の間の「竪堀」 ↓

「5の(台所)曲輪」跡 ↓

「帯曲輪」 ↓

「帯曲輪」 ↓

 

「5の(台所)曲輪」跡から、「2の曲輪」跡の「出枡形」になった「虎口」を上がって行くと、左前と右前に「空堀」が目に入ります。右前の「空堀」は三日月状になっていて「馬出」を取巻く「空堀」で、左前の「空堀」は「本曲輪」跡と「馬出」を分断する「空堀」となっていて、その先端には「本曲輪」跡と「馬出」を結ぶ「土橋」が見えます。

 

「2の曲輪」跡の「出枡形」(右が「2の曲輪」跡) ↓

「馬出」(左側)を取巻く三日月状の「空堀」 ↓

「本曲輪」跡(左)と「馬出」(右)を分断する「空堀」と「土橋」 ↓

「馬出」(左)と「本曲輪」跡の間の「空堀」(「土橋」から西方向) ↓

 

この辺りは非常に複雑に入り組んだ構造になっていました。南に延びる「2の曲輪」跡の南端から下を見下ろすと、先ほど歩いてきた「3の曲輪」跡が厳しい「切岸」の下に拡がって見えます。

 

「2の曲輪」跡(南方向) ↓

「2の曲輪」跡南端から見下ろす「切岸」 ↓

「2の曲輪」跡南端の「切岸」(下から見る) ↓

 

「土橋」を渡ると「本曲輪」跡です。登城途中で何組かのハイカーとすれ違い挨拶を交わしましたが、そこには多くのハイカー達がベンチに腰掛けて食事をしたり休憩を取ったりしていたので、これだけ多くの方々がハイキングに来ていたとは驚きでした。

 

「本曲輪」跡(北方向) ↓

 

「本曲輪」跡の北先端には「横堀」から東下へ落ちる「竪堀」が見られ、両脇下段には「腰曲輪」跡がありました。

 

「本曲輪」跡の北先端下の「横堀」 ↓

「本曲輪」跡東下の「腰曲輪」跡 ↓

 

「本曲輪」からの眺めは、黄砂の影響で岐阜、名古屋方向はドンヨリとしていましたが、「竹中氏陣屋」跡がある岩手地区周辺や新幹線が頻繁に行き来する光景が望めましたので、私達はそこでサッとおにぎりを食べて昼食を済ませ、残る「5の(台所)曲輪」「6の(西)曲輪」の各跡へ足を向けました。

 

黄砂の影響か岐阜、名古屋方面は視界悪い ↓

「竹中半兵衛重治公菩提山城跡」の幟 ↓

 

一旦「5の(台所)曲輪」跡に下りてから、更に下った所が「6(西)の曲輪」跡です。

 

「5の(台所)曲輪」跡から「6(西)の曲輪」跡を見下ろす ↓

 

「6(西)の曲輪」跡はかなり長い曲輪で、「本曲輪」跡の西側「切岸」の下に「横堀(空堀)」を設けていて北側へ掘られていましたが、途中「土塁」で一旦中断し、再び「横堀(空堀)」が伸びて、その先は「竪堀」となって下へ落ちていきます。

 

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「6(西)の曲輪」跡から見上げる「本曲輪」 ↓

「6(西)の曲輪」跡真ん中の「土塁」 ↓

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」から「竪堀」へ ↓

 

一方西側には、これぞ完璧な「竪堀」というのが判る程の鮮明なモノがあり、私は今まで目にしたことがないような「竪堀」を観察できました。

 

これぞ完璧な「竪堀」 ↓

 

また北端には高さのある「土塁」が細長く尾根に沿って築かれているのが印象的でした。この尾根の延長上には「北の水の手」跡があったようですが、そこまで行くのはパスしました。

 

北端には高さのある「土塁」 ↓

 

以上、「菩提山城」の見所をほぼ見終えた私達は、予定時間より約半時間程早く巡ることができたので、この調子で下山して麓(岩手地区)にある「竹中氏陣屋」へ向かおうと下山を急ぎました。

 

「大手曲輪」跡から見上げた「本曲輪」跡 ↓

 

下山は結構膝への負担が大きく、ガクガクとなりながら車に辿り着き、数分で「竹中氏陣屋」跡に到着し、現存「櫓門」を見学しました。

 

「竹中氏陣屋 櫓門」 ↓ 

「竹中氏陣屋 櫓門」(内側から) ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」の「床梁」 ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」脇の「堀」 ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」から続く「石垣」 ↓

 

私は昨年8月に訪城していましたので、サラッと写真を撮るだけでしたが、「櫓門」と「菩提山城」とのコラボ写真は撮っていなかったので撮影しました。

 

「櫓門」と「菩提山城」とのコラボ ↓

 

「岩手地区まちづくりセンター」内で「菩提山城」の散策マップ他、各種パンフをいただき、特に「岐阜県の城百景」という冊子は、先日登城した「美濃金山城」「久々利城」他多数のお城が掲載されていたので、今後の行き先候補選びに役立ちそうです。

 

「岐阜県の城百景」という冊子 ↓

「岐阜県の城百景」に掲載のお城 ↓

 

次は、「松尾山城」へ向かいます。

 

 

 

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