3/14(木)の約3週間前になりますが、「倉敷代官所」(岡山県倉敷市)に立ち寄りました。
この日は、同窓生6人で「青春18きっぷ」を使用し、「矢掛」から「倉敷」へ入り、代官所跡とその周囲の川沿いの美しい街並みを堪能しました。
「倉敷代官所」の歴史と代官についてですが、関ヶ原の合戦の後に「徳川幕府」の天領となり、1614年に「小堀遠州」が幕命を受けて倉敷湊から兵糧米を大坂に積みだすために、ここに陣屋を築きました。
1642年に「陣屋」は「倉敷代官所」となって、初代代官「米倉平太夫」が就任し、以降は明治維新まで備中、美作、讃岐の塩飽諸島の天領を支配する代官所となりました。江戸時代は、「倉敷川」を中心に物資の集積地として街並みが栄えました。
しかし、1866年に長州藩騎兵隊を脱走した約100名は、「倉敷代官所」と「浅尾藩陣屋」を襲撃した為、代官所は焼け野原となりました。
「倉敷代官所」の立地と縄張りは、「倉敷川」東側の台形の平地に建ち、周囲を「堀」で囲われていました。
正門は南側中央にあり、「御役所」は敷地の中央南と南東側の2箇所にあり、代官の「居所」は東側に位置していました。代官補佐で勧農・納租・出納帳簿・聴訴・断獄・警察などの一切の事務を行う「元締」の建物は中央南の「御役所」西側に、更に1834年にできた「明倫館講堂」(倉敷教諭所)はその北側に建てられました。
「代官所建物と現在建物の配置関係図」↓
「倉敷代官所」は、焼失後一時新政府の倉敷県庁なり、その後1889年に「倉敷紡績所」となり倉敷の発展に寄与しました。紡績工場は1945年に操業中止となり、1973年に改装されて現在の「倉敷アイビースクエア」として複合施設が全面開業しました。
「倉敷アイビースクエア」案内図(周囲の道が「堀」跡)↓
現在、「倉敷美観地区」に繋がる「西門」を入るとレンガ造りの建物が目に入ります。
「アイビースクエア西門」↓
レンガ造りが美しい「アイビースクエア」建物↓
「代官所建物と現在建物の配置関係図」の案内板が掲出されていて当時の代官所の状況が良く解ります。当時の台形の敷地がほぼそのまま「アイビースクエア」の敷地となっているのがその図から良く解りました。そこには「天領倉敷 代官所」跡と刻まれた大きな石が据え置かれています。
「天領倉敷 代官所」跡↓
その案内板前を少し進むと小さな橋が狭い「用水」を渡りますが、その「用水」こそが「代官所」周囲を取巻いていた「堀」跡と記載されていました。
「堀」跡の「用水路」(南方向)↓
「堀」跡の「用水路」(北方向)↓
橋を渡った右側には背の高い木材に大きな滑車が吊り下げられ、その下には「井桁」があります。それが「代官所」の井戸の遺構で、丁度「明倫館校舎」前あたりに掘られていました。
「代官所井戸」↓
「代官所井戸」の説明↓
「代官所」の遺構はそのくらいで、「御役所」跡や「代官居所」跡は、ホテルが周囲を取巻く「スクエア」広場辺りだと思われ、現在はレンガやタイル貼りの美しい場所になっています。
「御役所」跡や「代官居所」跡付近↓
「スクエア」広場に飾られた「家紋」入り行灯↓
東側の端は、道路が走っていて、それが東側の「堀」跡ではないかと思いました。
「アイビースクエア」東端の「堀」跡の道路↓
「倉敷代官所」跡の「倉敷アイビースクエア」を出て西方向へ進むと「倉敷川」を挟んで拡がる「倉敷美観地区」になっています。
「倉敷川」沿いに柳が植わる↓
柳の枝下の「倉敷川」沿いの川舟着舟場↓
江戸時代の建造物から明治時代にかけての町屋や蔵等の建造物が軒を連ねて並んでいますが、現在はその殆どが店舗に再利用されていて新旧が巧く調和した街並みになっています。
蔵屋敷↓
「海鼠壁」が綺麗↓
蔵屋敷↓
観光客も多く、倉敷川の浮かぶ船に乗ったり、川沿いの柳や橋をバックに写真を撮ったり、町屋や蔵内で販売している商品を見たり、飲食店で食べたりと新旧の時代を越えて楽しめる美観地区となっていました。
多くの観光客が散策している↓
「杉玉屋根」があがる「酒屋」店舗↓
川舟に乗って遊覧↓
特に私のお気に入りは、海鼠壁の蔵、蔵と蔵との間の路地、虫籠窓や竪格子窓や犬矢来などを備えた建物が並ぶ風情は、江戸時代を感じられる所であるので、ジックリと写真撮影をしました。
「大原本邸」(重要文化財)↓
下見板張りの「邸」間の路地↓
海鼠壁の「蔵」間の路地↓
「竪格子」がある「町屋」↓
「海鼠壁」の蔵↓
「倉敷美観地区」の裏通り↓
休憩には、「大原美術館」脇にある有名な珈琲店「エル・グレコ」で一息入れました。
珈琲店「エル・グレコ」↓
帰りは、「倉敷駅」を17時41分に乗車して、「姫路駅」で「新快速」に一回乗換えただけで「大阪駅」には20時28分に到着しました。
今回の旅では、「倉敷代官所」へ行く目的では無く「矢掛宿場町」と「倉敷美観地区」を巡る仲間同士の小旅行でしたが、その中で広義の「お城」でもある「幕府直轄(天領)」の「代官所」跡である「アイビースクエア」に再度ですが訪城できたことは、心残りにはならず良かったです。
もし、幕末に「長州藩脱走兵」による襲撃事件が無ければ、現在では「高山陣屋」とその周辺の街並みと同じような光景が見られたのにな~と残念に思うことしきりでした。
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